21世紀の左翼は反資本主義となるだろう

左翼の未来
エンツォ・トラヴェルソへのインタビュー
この間の経験や批判的思考の共有形態を見出すことが必要

 エンツォ・トラヴェルソは、イタリア生まれで、パリの社会科学高等研究院のユダヤ人問題についての講師を務め、現在はアミアンのジュール・ヴェルヌ大学で政治学を教えている。日本でも、『マルクス主義者とユダヤ問題』(人文書院)『ユダヤ人とドイツ』(叢書 ウニベルシタス)、『アウシュヴィッツと知識人』(岩波書店)、『全体主義』(平凡社新書)、『ヨーロッパの内戦 1914―1945年』(未来社)、『左翼のメランコリー』(叢書 ウニベルシタス)など、多数の著作が邦訳されている。このインタビューでトラヴェルソが強調しているのは、二〇世紀の左翼と二一世紀に出現する新しい運動との間に断絶がある中で、二〇世紀の左翼の内部において批判的な闘いを展開してきた潮流の任務は、この断絶を固定化させ、どちらか一方を全面的に正しく、もう一方をまったく間違っていると一方的に断じるのではなくて、この両者の間に架け橋をかけることであり、この二つの運動を収斂させ、ともに闘う中で両者が異なる経験と見解を交換し、ともに討論していくことによって、二一世紀の運動のより新たな高みを目指していくということである。それは、まさに今、「黄色いベストの運動」の中でフランスの同志たちが挑戦している闘いにほかならない(「かけはし」編集部)。

破綻は20世紀の左翼モデル


――今日のフランスの左翼の状況をどう見ているのか?

 フランスも他の諸国もともに、左翼の状況はよくないが、絶望的だというわけではない。何かが動き始めているという兆候がある。それは、まだ凝固する瞬間にまで達していない分子運動の過程にある。フランスは、ヨーロッパとアメリカの左翼に影響を及ぼしつつひとつの同じ発展力学を経験しつつある。

――左翼は死んだという考えをあなたは退けるということだろうか?

 左翼は死んでいないが、二〇世紀の敗北をまだうまく克服できていない。二〇世紀はもはや働かなくなっているモデルを残したのだ。そうしたもののうちの四つのモデルを取り上げよう。まず第一のものは、共産主義に体現された革命勢力としての左翼のモデルでありこれは準軍事的な形で権力奪取を考えた。その次の第二のモデルは、権力のシステムとしての共産主義―「現存社会主義」―であり、これは一九八〇年代末に崩壊した。われわれは今なお、この遺産の代償を支払い続けている。異なった社会を考えることそれ自体が信んじられなくなっている。この代償はとても重く耐えがたい。
第三のモデルは「第三世界」派の社会主義モデルである。これは今日、脱植民地と呼ばれるモデルである。これは、植民地化された諸民族を歴史の主体に変えたが、同時に、厳しい幻滅を味わいもした。二〇一一年の「アラブの春」が示したように、このモデルはもはや機能していない。「アラブの春」の運動はそれを投げ捨てた。
最後の四番目のモデルは、社会民主主義的左翼のモデルである。それは、民主主義的枠組みの下で社会的成果を獲得することによって共産主義に代わる有効なオルタナティブとして登場することができた。しかし、もしわれわれが過去にさかのぼってそのバランスシートを導き出すなら、私にはその「寄生的な」側面がきわめて明白なように思われる。
共産主義の脅威に直面して資本主義は自らを人間化せざるを得なかった。そのおかげで、社会民主主義のモデルは自らの役割を演じることができたのだった。ひとたびこの[共産主義の]脅威がなくなってしまうと、資本主義は新自由主義の顔を、すなわちそれまで課せられていた制約をかなぐり捨ててむき出しの顔を示すようになり、不平等が爆発的に発展することになる一方、社会民主主義はその軌道を使い果たし、社会自由主義になった。

過去は断絶ではなく克服の対象


――左翼は自ら過去と断絶すべきなのだろうか?

 左翼は過去を克服すべきだ。その意味は、否定よりもむしろ批判的歴史を発展させる、ということだ。過去一〇年間に生まれたすべての運動――(アメリカの)「ウォール・ストリート占拠」、(スペインの)「怒れるものたちの」運動、(ギリシャの)シリザ、(フランスの)「夜に立ち上がる」――は、アナーキスト的、リバタリアン的な感性を共通してもっているが、こうした感性は、二〇世紀には脇に追いやられていたものである。
これは、直接民主主義、水平的実践、旧来の組織機構の拒絶、集団生活を楽しむこと、新しい「生活形態」の追求、というところに表現されているが、同時に、いかなる形態であれ政治的代議制という形を取ったものに対する極端なまでの大きな不信という形でも表現されている。以上すべては、豊かで、創造的、興味深い実験を生み出しているが、そうしたものはやがて何か新しいものを生み出すことができるであろうが、それは、目下のところ、いぜんとして短命で、孤立した実験にとどまっている。

――今日、われわれは、保守派やさらには反動派の考えが支配的になっているとの印象を受けているが、西側社会において左翼の立場に立つことは可能だろうか?

 可能だ。たとえ、それが困難であろうとも、新自由主義とは単なる経済システムではなくてそれ以上のものだ。それは、収益性、個人主義、競争、社会関係の物象化、欲望の個人化という前提の上に立つ人類学的モデルである。新自由主義は、社会民主主義を飲み込み、それを完全に自己の体制内的存在にしてしまったし、共産主義を覆い隠してしまい、共産主義は過ぎ去った時代の痕跡のように見えている。こうした情勢のもとでは、社会の深刻な病弊は、極右のチャンネルを通じてしばしば表現される。極右派は常に、スケープゴートになるものを探し、強権主義体制、国家主権の回帰、国境の閉鎖などの古い処方箋を定式化し直すのだ。その結果、大陸規模で、外国人を排斥する反動的で人種差別的な波が押し寄せている。イタリアでわれわれが今経験しているのは、一方における難民に対する排斥政策と他方におけるずっと以前に左翼が実行すべきであった社会政策とを組み合わせた、実に奇怪なハイブリッド連合である。突如として、左翼は、麻痺してしまい、不人気になってしまった。

――左翼は、マイノリティのアイデンティティの承認を求める闘いを展開したために一般の人々の利益に役立つというセンスを失ってしまったとする観点にあなたは同意するか?

 マイノリティを支持する左翼の闘いは正当である。たとえ私にとってはそうした闘いがアイデンティティーを基盤にしたものだと定義しえない場合であっても、その闘いは否定し得ない大きな前進を可能にしたのだ。しかし、こうした闘いは社会的後退の政策を伴っていた。こうした人権のレトリックが「ポスト・イデオロギーの左翼」の唯一の言語となり、しばしば、左翼の反社会的政策ためのアリバイに変質するようになった。
EUはこの偽善を芸術にまでした――一方でギリシャを飢えさせながら、他方でホロコーストを記念する催しを組織する。つまり、一方で人権を宣言しながら、他方では難民に対して国境を閉ざしているのだ――。その結果は、社会的権利の解体と外国人排斥の台頭である。こうした情勢のもとで、EUを擁護することによってポピュリズムや極右を阻止しようとするのは、火事を消すために放火魔を呼ぶようなものである。ヨーロッパでは左翼が政権に入っているどの国もすべて、移民について真実を語ることができていない。

敗北の評価・検討が必須の起点


――一部の人々は、共和主義への復帰を呼びかけている。あなたはこれが解決策だと思うか?

 そうは思わない。そうではなく共和主義の意義というなら、われわれはフランス共和主義の起源のところにまでさかのぼらなければならないだろう。共和主義は、(王制廃止、共和制が宣言された)一七九二年を、(労働者が蜂起した)一八四八年六月を、一八七一年のパリ・コミューンを意味する。そうだ、その通りだ! それが、再発見されるべき共和制の伝統だ。一九世紀には、解放の思想は共和国という形を取った。その後、共和国は植民地支配的に、民族主義的になった。今日、マリーヌ・ル・ペンやローラン・ヴォキエ(伝統的右翼の共和党の指導的政治家)が自らを民族主義者だと言っている時に、フランス左翼がこの民族主義の基礎の上にどのように刷新できるのか? そうした考えは私には理解し難い。根本的には、二つの形態の共和主義が存在する。ひとつは、マクロンならびに社会党内のマクロン追随派によって体現されている共和主義の形態であり、もうひとつは、右翼からフランス共産党とメランションの国家主権派左翼にまで及ぶ「民族」共和主義の形態である。これには非常に曖昧な点がある。私が考えるに、民族共和派的伝統は、左翼の刷新にとっての大きな障害である。

――自己を再建するために左翼は何をしなければならないのか?

 この再建への最初の前提条件は、蓄積されて来た敗北を評価・検討することである。この課題抜きに済ましてしまうことはできない。われわれは、ここ数年間のそれぞれの部分的経験、ならびに、こうした経験に結びついていた批判的思考、を伝え、共有する形態を見出さなければならない。私は旧来の組織機構が再建できるとは信じていない。こうした機構はときとして選挙目的としては働くかもしれないが、それを超えるものではない。再建は下から、市民から進められていくに違いない。

――この運動に伴う新しい思想とはどのようなものか? その展望は、エコロジー革命なのか?

 時として「インターセクショナリティ」と呼ばれているものが二一世紀における左翼の文化の成果だと私は信じている。社会的不平等というものは、差別や外国人排斥と密接に結びついているのであって、エコロジーの問題を考慮に入れないオルタナティブ社会のいかなるモデルも想定することはできない。これらすべての問題は、相互依存的関係にあるので、上下の序列ではない形でともに結びつけなければならない。われわれは、貧困と後進性に対してまずは経済成長を促進し、その後ではじめてエコロジー問題の解決に着手するなどということはできないのだ。

近年の経験糧に新しい希望築け

――来るべきルネサンスに青年はどのような役割を果たすことができるのか?

 この点で、アメリカとフランスではかなり大きな違いがあると思う。フランスでは、若い世代を動員した「夜に立ち上がる」やZADへの参加者(ノートルダム・デグランデ空港予定地内で新しい農業などに乗り出した人々)たちがある。この潮流は伝統的な政治の世界にまったく何の関心をも持っていないことを示している、他方、アメリカでは「ウォール・ストリート占拠」運動はバーニー・サンダースへと結びついていった。、自らを民主的な社会主義者だと定義し、強固な政党政治家に対抗して時として選挙で当選した青年のこの運動は、その政治的成熟を示す証拠である。それはまた、大学のキャンパスの枠を超えた展望を考え始めている生き生きとした創造的な思考によって活気づけられている。伝統的な政治組織とのその関係は、手段として役立つかどうかという見方であって、誰も民主党の本質に対していかなる幻想も抱いてはいない。
それに対して、われわれはフランス左翼の側には二つの対立する傾向があることを目撃している。一方において、「反政治」の流れがあり、他方では、第五共和国の制度に従った政治の流れがある。後者は、カリスマ的指導者に体現される政党であり、この政党は大統領選挙に勝利するという目的で組織されている政党である。

――今日の左翼は、新しい政治参加の形態を生み出しつつある過程にあるのか?

 スペインのバルセロナのアダ・クラウ市長のケースを取り上げてみよう。彼女は、相互の独立性を維持しながらも同時にともに結集する一連の運動や組織から成るある種の制憲議会のおかげで市長に選ばれた。彼女が市長候補になったのは、機構相互間の合意を通じてではなくて、むしろ諸組織が下からの大衆動員に応えざるを得なかったからである。このことは、次の二つの間の隔たりを克服することが可能であることを示している。すなわち、一方は興味深いが政治的には不毛な実験であり、他方は権力を握るという伝統的な意味での政治であり、この二つの間の隔たりを克服することは可能なのだ。

――その廃墟から再生した左翼の知的、政治的、文化的な形とはどのようなものになるのだろう?

 私は、一方では過去から批判的に断絶しながらも、同時に二世紀にわたるその歴史を受け入れることができる左翼を信じる。再生するためには、左翼は新しいユートピアを必要とするが、そのユートピアはただ社会の深部からのみ生じ得る。

――あなたは、自らを左翼だと感じている人々の側には希望を抱く根拠があると思うか?

 もちろんだ! 私はまったく諦めていない! われわれは、永続的に続くという印象を与えている過渡的な時代の中に生きている。二〇世紀の世界は、地政学的、イデオロギー的境界を固定化させたが、他方、現代は、すべての分野においてはっきりしない混沌とした境界という特徴をもつ時代だ。この情況のもとで、私はひとつのことを確信している。それは、二一世紀の左翼は反資本主義となるだろう、ということだ。それは、今日、地球を消滅させようとしている支配的な社会・経済体制に対して根本的な疑問を突き付けることだろう。この将来の左翼は自らを、共産主義者と呼ぶのだろうか、それとも社会主義と呼ぶのだろうか、あるいはそれともアナーキストと呼ぶのだろうか? あるいはいぜんとして自らを左翼だと自認しているのだろうか? 今はまだ言うことはできない。近年の諸経験を統合して、新しい希望を築かなければならないだろう。個々バラバラの多くの要素はまだ結晶化していない。当面、われわれはこの流れに沿って進む必要がある。
二〇一九年五月七日
(「ラ・アン・エブド」誌2018年10月10日より)

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