マルクス主義、社会主義の戦略、党(中)

革命と党の理論―その歴史的展開
ジルベール・アシュカル(2021年9月2日)

第二インターナショナル、社会民主主義、レーニン、ルクセンブルク

 次の段階は、マルクスとエンゲルスがイギリスからきわめて注意深く見守り続けたドイツ社会民主党の台頭であった。マルクスの有名な論文のひとつは『ゴータ綱領批判』であるが、これは、1875年のドイツ社会主義労働者党の創立大会を前にしてのこの党の綱領草案に対する批評である。
 その後、1883年のマルクスが死後、フランス革命百周年の1889年に第二インターナショナルが創建された。その時はエンゲルスはまだ活動していて、その6年後に死去した。こうして、マルクスとエンゲルスは、その生涯の中で、実にさまざまな異なるタイプの組織に協力した。第一と第二のインターナショナルについて考えてみると、第二インターナショナルは、第一インターナショナルに加わった諸集団とはまったく異なる大衆的な労働者政党であったが、これらの政党の政治的見解はより限られた範囲内にとどまるものであった。第二インターナショナルは討論に対して開かれていたが、アナーキストはその隊伍では歓迎されてはいなかった。第二インターナショナルは、労働組合から選挙に至る、あらゆる範囲の階級闘争の形態に関与する大衆的労働者政党に基礎をおいていた。これらの闘争は19世紀末までには大部分のヨーロッパ諸国において合法的に展開することがますます可能なものとなっていた。
 大衆闘争に加わったこれらの労働者政党は、ブランキ主義に対する批判を背景にして台頭した。ブランキ主義の考えは、知識を持った革命家からなる小さな集団が、一撃によって力で権力を握ることが出来、権力獲得後に大衆を教育し直すことができるとするものである。この展望は、フランス革命から発展したこうした急進的潮流のひとつから生まれて来たのだが、マルクスとエンゲルによって、空想的であり、革命的変革の根本的な民主主義的概念とは根本的に対立するものとして、強く批判された。

ロシアモデルの党


マルクスとエンゲルスの時代以降、マルクス主義は、周知のように、自らを体現するさまざまな形の化身を経験することになったが、20世紀において最も支配的となったのは、疑いもなく、ロシア・モデルであった。もっとはっきり言うと、それは、第二インターナショナルの支部であるロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ派によって展開されたマルクス主義のもうひとつのバージョンであった。1912年の党の分裂後、ボリシェヴィキ派とメンシェヴィキ派はともに第二インターナショナルに加盟し続けたが、間もなく第二インターナショナルは、1914年の第一次世界大戦の勃発によって危機に陥った。
 ロシアの諸条件は、当然にも、インターナショナルの大きな支部が存在していたフランス、ドイツや、他の大部分の諸国に比べると例外的なものもあった。ロシアは、短期間を除いて一切の政治的自由を許さないきわめて抑圧的な国家であるツァーリズムの支配下にあった。ロシアの革命派は、大部分の時を政治警察から身を隠す地下活動を送らなければならなかった。
党に関する理論としてレーニン主義の誕生を検討する場合には、こうした非常に特殊な諸条件に照らし合わせて考えなければならない。それは前世紀が始まったばかりの時期に生まれたが、その最初の主要文書は、レーニンの『何をなすべきか』(1902年)である。この著作は、私がすでに述べた情況の大いなる産物であった組織と闘争の概念を提供するものであった。それは、「陰謀的」やり方で活動する職業革命家から成る地下の党というものであり、これが当時のロシアの情況下で革命派の活動可能な唯一の方法であった。
 この問題についてのレーニンの思考の進化を検討するならば、それでもやはり、1905年の革命の後には、労働者階級の大衆の自然発生的急進化の潜在的力をよりよく理解する方向へとレーニンが自らの展望を修正しているのをわれわれは見ることができる。彼は当初、労働者の自然発生性の傾向が必ず労働組合的展望の枠内にとどまろうとする、と主張していたのに対して、1905年の革命以後、労働者階級の大衆が局面によっては自身の組織をも含む他のどの組織よりよりも革命的になる可能性がある、と彼は認識するようになった!
 それでも、これは、1905年以前の起こったメンシェヴィキとボリシェヴィキとの党の概念をめぐる対立を解決するものとはならなかった。すなわち、党員の範囲はどうあるべきか? 党員のための条件とはどうあるべきか? すべての党員が日常の政治活動に全面的に参加すべきか? それぞれの党員の活動への参加の度合いと無関係に、党費を払う支持者を党員に含めるべきか? この議論が1903年に白熱したものとなった。しかし、その後、1912年に党が分裂した時には、最も重大な分化は、組織問題ではなくてむしろ自由主義派ブルジョアジーに対していかなる態度を取るべきかという政治的問題であった。この点は、『何をなすべきか』に表現された党概念にきわめて批判的であったが、政治的にはボリシェヴィキにより近かったトロツキーのような人物の態度からも分かる。だから、1912年以降に両派に対してトロツキーは調停的立場を取ったのは、彼がある問題では両派それぞれに同意し、別の問題では不同意であったからである。
これと同じ時期、ローザ・ルクセンブルクはレーニンよりももっと激しくドイツ社会民主党を批判していた。レーニンがドイツ社会民主党をモデルであり、インスピレーションの鍵となる存在であるとみなしていたのに対して、ローザ・ルクセンブルクは党指導部に対する最も傑出した左翼的批判者であった。彼女は同時に、革命的局面においては社会民主党の指導を乗り越える労働者階級の大衆の革命的潜在的可能性ならびにその能力を根本的に信じていたので、レーニンの党の概念に対して批判的であったのである。
(つづく)

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