日本革命的共産主義者同盟(JRCL)第19回全国大会
2002年8月
情勢と任務
1 1999年(18大会)から2002年(19大会)へ
(1)1999年の日本革命的共産主義者同盟(JRCL)18回全国大会は、ベルリンの壁の崩壊に象徴される東欧スターリニスト官僚支配体制の崩壊から10年、旧第四インターナショナル日本支部の分裂の完成以後10年という、世界・日本情勢の急激な転換、そしてわが同盟ならびに左翼運動の危機の時代の中で、きわめて経験主義的に模索と苦闘を積み重ねてこざるを得なかったわれわれの位置を共通に確認し、新たな闘いのスタートラインに立つための前提を作りだすものとして設定された。
18大会は、90年代における「社会主義への信頼性の喪失」と旧来の左翼的主体もふくめた「新自由主義への統合」の深まり――それをわれわれは「リベラルの罠」と規定し、また国際的には元英首相サッチャーの言葉を用いて「TINA(There Is No Alternative)現象」とも言われた――の中で、現にある大衆運動のさまざまな動向に内在しつつ、この運動構造の中にふくまれる可能性、積極的要素を防衛・発展させる上で、わが同盟が重要な役割を果たしてきたことを確認した。
われわれは、第四インターナショナルの同志たちの闘いと問題意識を共有しつつ、独立した政治的・階級的立場からスターリニズムの根本的・歴史的批判と克服の上に立った国際主義的な社会主義革命運動の再生のための道を模索していこうとする立場を堅持してきた。そして当面する大衆運動の強いられた防衛的性格と社会主義的展望の間の深いギャップを自覚して持続的に闘う必要性を強調してきた16、17回大会(1995年、96年)の問題意識を継承することを確認した。それは情勢の圧力によって労働者・市民の大衆運動が資本主義の枠組みを所与の前提とした「提案・参加」型の路線に統合されていくことを批判し、「反対運動から参加・提言へ」という即自的な転換ではなく、社会運動を国家・資本への抵抗のスペースとして防衛する中でこそ、資本の新自由主義と新たな国家主義に対決するオルタナティブを構想する基盤が生み出されるものであることを強調するものであった。
同時に、われわれは18大会の討論の中で、当面する情勢の中で必要であったわれわれの経験主義と大衆運動主義が一つの壁にぶつからざるをえないことも自覚していた。
「いまや大衆運動的経験主義のレベルにとどまっている限り、運動の分化が必然的にわれわれを直撃し、問題意識の分散化と組織としての最小限の統一性をも崩壊させる結果をも招くことは確かである。資本主義の政治・社会・経済全般にわたる危機の深化は、社会主義の再生のためのわれわれの戦略的課題に向けた討論を意識的に前進させる必要性をわれわれに突きつけている。18大会での討論は、ともすれば現実の大衆運動課題に追われて、保守的自己防衛におちいりがちの現状をどう突破するのか、を提起している」「われわれは16期、17期のCCにおいて、情勢ならびに今日の大衆運動、諸勢力のあり方への『理解』と『対応』に必死であったともいえるが、そのレベルを着実に超えていくことが必要とされているのである」(99年11月 JRCL18期2中委報告:「18回大会の総括と18期CCの課題」、「討論ブレチン」99・12・20)。
こうした意識的な戦略的挑戦に向けた論議は、十分に進まなかった。しかし、反グローバリゼーション運動の急速な国際的発展と、「9・11」を契機としたブッシュの「対テロ国際戦争」と小泉内閣の下での「戦争国家」体制確立をめざす攻撃に示される情勢そのものの転換の始まりは、大衆運動レベルそのものにおいても、従来の経験主義的模索を超えた飛躍をわれわれに強制している。現実の大衆運動への対応そのものが、「もう一つの世界」に向かうオルタナティブの提起を内包したものでなければならない、という性格のものになっているのである。
わが同盟は、この点を共通の問題意識としながら政治的・組織的な挑戦を行っていかなければならない。19回大会の課題は、その意味で18回大会の討論の問題意識の継続であり、新たな「反資本主義左翼」の形成に向けた政治的・理論的・運動的・組織的な飛躍への前提条件である情勢と任務についての基本認識を3年間の経験をふまえてあらためて整理することにある。
(2)1999年8月の第18回大会は、小渕内閣の下で、日本帝国主義がアメリカ帝国主義のアジア・太平洋での軍事作戦を国境を越えて支援することを規定した新ガイドライン安保にもとづく「周辺事態法」、「日の丸・君が代」の「国旗・国歌」化法、憲法の具体的改悪作業に踏み込んだ「憲法調査会設置法」、警察による民衆監視の治安弾圧法としての「盗聴法」や「住民基本台帳法」改悪など、一連の「戦争ができる国家体制づくり」のための法整備を行った直後に開催された。
それから3年を経た今日、小泉政権は昨年9・11のアメリカにおける「同時多発テロ」を受けたブッシュの「対テロ戦争」に参戦するとともに、今年の通常国会においてはいよいよ「武力攻撃事態対処法案」を提出した。それは戦争遂行体制を築き上げるために「国民の自由と権利」を罰則規定の導入をふくめて制限し、首相に強力な権限を集中して自治体の権限を剥奪する軍事的「危機対処」体制の構築に踏み込もうとするものであった。小泉による、有事=戦争を内包した危機対応国家体制の構築は、90年代における資本の新自由主義的グローパリゼーションを土台にしたアメリカ帝国主義の主導による軍事的グローバリゼーションが、「自由と民主主義」の名においてその秩序に抵抗する勢力への「ボーダレス戦争」や「核使用をふくむ先制攻撃」の発動にまで至ろうとする「9・11」以後の世界情勢の一環であった。
われわれはこの間、「日の丸・君が代」強制反対、石原東京都知事の「三国人」発言や治安出動訓練に反対する闘い、沖縄サミットに反対し沖縄米軍基地撤去を求める運動、「新しい歴史教科書をつくる会」による天皇制日本帝国主義の侵略・植民地支配正当化に反撃する闘い、「対テロ戦争」参戦に抗議する連続した運動の組織化、憲法改悪阻止の労働者・市民の政治行動の組織化の一端を担ってきた。同時に日本資本主義の戦後最大の危機の深まりの中で推進される民営化・規制緩和の攻撃、とりわけ戦後の企業主義的労使関係の根本的清算を通じた雇用の不安定化・リストラ・失業に対する反撃のキャンペーンを闘う国労闘争団の防衛などを軸に展開してきた。
しかし日本におけるこの3年間の推移を見るとき、1980年代から90年代にかけた資本の新自由主義的攻勢と労働者階級の抵抗闘争の解体、第二次大戦後の特殊な「平和主義」的国家体制の、戦争を内包した「普通の国家」体制への再編、労働者・市民運動の資本の新自由主義の下への統合をはねかえす反撃を作りだすことには成功していない。むしろ全体としては、小泉内閣の市場原理主義的な「聖域なき構造改革」論と「新国家主義」のセットが政権成立の当初において圧倒的な支持を集めたこと、排外主義と強権的国家主義を前面に押し出す石原慎太郎東京都知事の挑発的言辞に依然として多くの人びとの「期待」を集めていることに端的に表されているように、グローバル資本主義の下での10年以上に及ぶ経済的・社会的危機を背景にして、強力なイニシアティブを発揮する「指導者待望」論が多くの労働者・市民の意識を規定しているのである。既成政治への対抗軸を作りだそうとした新たな「市民の政治」をめざす全国的・地域的な挑戦も、こうした新自由主義の枠組みを補完する方向への動きを押し返すことができていない。
それは、この3年間における国際的な反グローバリズム運動の発展との対比で見るとき、新自由主義に対する労働者・市民の集団的抵抗の行動がほぼ不在である日本の大衆運動情勢の「特殊性」と他の先進資本主義諸国の情勢とのギャップをさらに拡大するものであった。
(3)WTO総会を流会に追い込んだ1999年11~12月のシアトルの闘争は、2000年、2001年を通じて、全世界的に広がった。資本のグローバリズムに対する抵抗と批判は、多くの先進資本主義国と「南」の諸国を貫いた共通のスローガンとなった。帝国主義諸国の首脳会議や、IMF・世界銀行、WTOなどの国際的経済機関の諸会議は数万、数十万の労働組合員、NGO、左翼諸組織などのデモ隊によって包囲されることが通例となった。そのことはたとえ口先だとしても、帝国主義諸国の首脳や保守的メディアまでが「グローバル資本主義の負の側面の是正」を語らなければならないほどの影響力を作りだしている。
そしてこの資本の新自由主義的グローバリゼーションに対する批判は、1980年代後半から1990年代にかけた従来の階級闘争の構造の危機と衰退に代わる、新たな反資本主義的国際主義の登場と広範な社会階層を動員する大衆運動復権の可能性を現実のものにしつつある。2001年と2002年にブラジル南部のポルトアレグレで開催された世界社会フォーラム(WSF)は、グローバリゼーションに対する個別的な批判と抵抗から「もう一つの世界」の可能性への挑戦を、まさにグローバルな規模で提示するものとなっている。
反グローバリゼーション運動の国際的展開は、左翼諸勢力の再編と分岐を促進している。それは西ヨーロッパにおいて典型的な形で表現されている。
ポスト・スターリニスト諸党は、その労働者運動における影響力を決定的に崩壊させ、いくつかの諸国では事実上解体してしまった。「モスクワの長女」と言われ、CGTを中心に労働者の中で大きな勢力を維持してきたフランス共産党が2002年4月の大統領選挙第一回投票でLO(労働者の闘争)とLCR(第四インターナショナルフランス支部)のいずれにも得票数で及ばず、10%を超えた「トロツキスト」の3分の1にも及ばなかったことは、その端的な例証であった。
1990年代後半にEU15カ国のうち12カ国において政権を担当するにいたった社民勢力も、資本の新自由主義的攻勢に組み込まれ、それを推進する役割を果たし、さらには1999年のユーゴ爆撃、2001年のアフガン爆撃を積極的に支持することによってまさに帝国主義的利害の擁護者としての本質を露呈することになった。「市場原理主義」でもなく伝統的「福祉国家」路線でもない「第三の道」を標榜したイギリス労働党のブレア指導部が、米ブッシュ政権の最も忠実な同盟者として「対テロ国際戦争」に参加していることは、それをはっきりと示すものである。ドイツ、フランスなど幾つかの主要国で社民党とともに政権に入った緑の党も、経済成長至上主義に対するエコロジカルでラディカルな批判の色彩や平和主義の原則を放棄していった。社民―緑政権が「人道的介入」の名によるユーゴ爆撃を支持し、ブッシュの「対テロ戦争」に参戦したことは、緑の党が新自由主義的グローバリゼーションと一体となった軍事的グローバリゼーションに対するオルタナティブたりえないことを示す紋章となった。
この中で、第四インターナショナルに結集するトロツキスト勢力は、スターリニストや社民・緑潮流に代わって、反グローバリゼーション運動を主導するラディカル左派の登場を促進し、新しい反資本主義的左派潮流の組織的再編を推し進める位置に浮上しつつある。失業者や移民労働者の闘いを支援するSUDやFSUに代表される新たな労働運動、ATTACなどの反グローバリゼーション運動を通じた大衆運動の復活に中心的な役割を果たしているフランスだけではなく、デンマーク(赤と緑の同盟)、イギリス(社会主義連盟)、イタリア(共産主義再建党)、ポルトガル(左翼ブロック)などでも、第四インターナショナルの同志たちは、旧共産党、社民勢力の左に立つ反資本主義左翼勢力の組織的再結集にかかわり、議会選挙でも注目すべき前進をかちとってきた。
EU諸国ににおいて典型的なこうした状況は、資本の新自由主義的グローバリゼーションに対する闘いの中で、1980年代後半から90年代半ばにかけた労働者運動を中心にした大衆運動の旧構造の衰退と危機が、新たな攻勢へ向かう転換を開始したことを物語っている。もちろん、労働者運動の防衛的局面がすでに乗り越えられたということはできない。しかし、青年世代をふくめて既成の労働運動の外側において新たな社会運動勢力が、グローバル資本主義と新たな戦争に対する行動的な挑戦を進めていることはきわめて重要である。
しかし、その新自由主義的グローバリゼーションに対する挑戦は、政治的にはいまだ端著的なものであり、新しい革命的な反資本主義―社会主義に向けたオルタナティブへと結実しているわけではない。「9・11」以後のブッシュ政権による「対テロ戦争」の開始と民主主義と人権に対する公然たる攻撃は、新しい社会運動にとっての試練を課している。グローバル資本主義の危機と矛盾が失業と貧困を拡大し、その矛盾が中下層の労働者農民、市民に強制される中で、排外主義的な新右翼勢力がヨーロッパ各国で影響力を拡大していることは、この試練の深刻さを物語っている。
だが世界社会フォーラムで語られた「もう一つの世界は可能だ」というスローガンは、この試練に立ち向かい、民主主義と人権と公正と平和をグローバルに実現していくことを通じて反資本主義的オルタナティブを追求していく方向性が、多くの新しい世代の活動家によって自覚されていることを示しているのである。
(4)1999年から2002年にいたるヨーロッパを中心とした反グローバリゼーション運動の登場と発展、大衆運動の新たなサイクルの端著と、新しいラディカル左派勢力の前進は、日本における左翼の混迷と危機を打開する方向性がどのように見いだされなければならないかを提起している。
われわれは、新自由主義的グローバリゼーションに対する労働者・市民の集団的抵抗闘争が、日本では先進資本主義国においては例外的なまでに長期にわたって不在であることを直視しつつ「しかし、日本が孤立した島国に止まったまままでいることはできない」と「抵抗のグローバル化」が日本に影響を与える必然性について主張してきた。そして、反グローバリゼーションの運動が、マスメディアをふくめて紹介され、フランスATTACの主張と運動やポルトアレグレの意味に少なからぬ人びとが注目している。相互に自立的に結びついた多元主義的でラディカルな新しい社会運動のグローバルな復権の中に、階級闘争の新たな道筋を見いだそうとしているのである。
日本における左翼の混迷と危機はいっそう深まっている。民主党との「非自民」連立政権の可能性を構想してきた共産党は、共産党が参加する連立政権における「安保容認・自衛隊活用」の立場を打ち出し、帝国主義国家における「普通の国民政党」になることをアピールしてきた。そうした「連立政権」の可能性が現実の政治日程から遠のき、一連の国政選挙での敗北(2000年6月衆院選、2001年7月参院選)を経験し、小渕~小泉政権の下での「戦争のできる国家体制づくり」が進行する中で、共産党はこの「安保容認・自衛隊活用」論を後景にしりぞかせてはいる。しかし共産党が2000年9月の22回大会で確認した同党の「改良主義的国民政党」への綱領的転換が、変更されたわけではない。新自由主義的グローバリゼーションと軍事的グローバリゼーションは、共産党の矛盾をさらに直撃せざるをえない。
2000年6月の衆院選で「女性・市民の党」「護憲・平和の党」を押し出し、一定の「善戦」を見せた社民党もまた、旧来の党組織と議員を中心とする「市民」的要素との対立の中で、後者はその独自性を急速にかきけされている。
内ゲバ主義の元凶であり、「新左翼」最大の組織的勢力を維持してきた中核・革マル両派は、その一国主義的「反帝・反スタ」論の破綻を「9・11」の評価でさらけだすことになった。彼らはともに、反動的な無差別テロを「ジハード」「被抑圧民族の決起」として賛美し、イスラム原理主義者の「反米闘争」に同化することによって、今日の反グローパリゼーションの運動の発展に敵対する姿勢を示している。
他方、ドイツ、フランスなどの社民・緑政権をモデルとしてきた「緑・市民派」の流れもまた、一部には小泉政権の新自由主義的「改革」を「官僚支配の打破」として積極的に評価することに示されるように、「市民の政治」を新自由主義イデオロギーと一体化させる方向喪失におちいっていると言わなければならない。全国政治のレベルでは、こうした「緑・市民派」は、民主・社民両党に依存する圧力にさらされ続けている。
こうした状況において、新自由主義的「改革」や「戦争ができる国家体制づくり」に対するきわめて困難な抵抗の闘いにさまざまなレベルで関わりながら、社会主義革命運動の再生に向けた立場を堅持して闘ってきたわれわれが、資本の新自由主義的グローバリゼーションに対する国際主義的な運動を組織する中で、オルタナティブな反資本主義左翼潮流の形成のための全国的なイニシアティブを発揮する責任が、決定的に重大なものとなっているのである。
2 ブッシュ政権とアメリカの新しい戦争
(1)2000年11月の大統領選で、総得票数においては民主党のゴアを下回りながら、辛うじて大統領に選出された共和党のブッシュ政権は、1990年代の世界経済を支えてきたアメリカ資本主義のバブル的「繁栄」=「ニューエコノミー」の危機が急激に現実化する中で、政権発足当初から自らを支える軍需産業・石油産業の利害をむきだしにした政治的・軍事的な覇権主義=ユニラテラリズム(単独行動主義)の姿勢を鮮明にした。
ブッシュ政権は、ミサイル防衛(MD)構想をはじめとする大軍拡と弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM)廃棄方針の発表、「地球温暖化防止」のための京都議定書の枠組みからの離脱などの方針を次々に打ち出した。そして21世紀のアジア・太平洋における「潜在的脅威」と見なした中国の影響力を抑制しようとする対決路線もよりきわだったものになった。ブッシュ政権が「9・11」直前に南アフリカのダーバンで行われた国連人種差別撤廃会議からイスラエルとともに退場したことは、アメリカがまがりなりにも主張していた「国際協調主義」を事実上放棄し、国際的なモラル的正統性を「国益」の名の下に喪失させていったことを象徴的に示すものであった。
(2)しかし「9・11」の衝撃は、ブッシュ政権が国際政治におけるイニシアティブを決定的に回復し、その単独行動主義をさらに推進する転機となった。ブッシュは「9・11をもって世界は変わった」と主張し、「21世紀の新しい戦争」に向けて各国支配者に「二者択一」をつきつけた。「悪に対する正義の戦争」において「テロリストの側に立つのかアメリカの側に立つのか」という最後通牒である。ロシアのプーチン政権、中国の江沢民政権は、自らの戦略的思惑からこのブッシュの突きつけに対して「アメリカの側に立つ」ことを宣言し、こうした全世界の支配層の同意と協力に支えられて、アメリカはタリバン政権の打倒を目的にした対アフガン全面戦争に乗り出したのである。
われわれが述べてきたように「9・11」によって「世界は変わった」わけではない。「9・11」は、1990年代の資本の新自由主義的グローバリゼーションが蓄積してきた危機の暴力的本質や、全世界の帝国主義支配階級がその危機の発現をコントロールすることができないという事実を露呈したものであった。「9・11」は、グローバル資本主義の支配の下で累積的に促進された抑圧と不正の構造の暴力的爆発だったのであり、「9・11」をそれ以前の帝国主義支配の矛盾と切り離して語ることは誤りである。しかし、「9・11」は、新自由主義的グローバリゼーションを背景にした帝国主義の政治の暴力的・非民主主義的あり方を一挙に浮上させる契機となったのであり、その意味で「9・11」以後の国際政治情勢は、明らかに大きな変化を見せたのである。
アメリカの対アフガン戦争は国連や国際法といった「国際秩序」の枠組みを完全に無視するものだった。さらに「テロとの戦い」は、アメリカやEUなどの「民主主義」諸国において「普遍的な価値」とされていた人権や民主主義の諸制度を破壊し、アラブ系などの移民に対する排外主義の嵐を解き放った。政治的な反対派や潜在的「テロリスト」と見なされた容疑者が監視、逮捕され、裁判も受けずに長期投獄され、盗聴・検閲が公然と合法化されるといった、あからさまな人権侵害が先進「民主主義」諸国であたりまえのものとされている。キューバにある米軍グアンタナモ基地に移送されたアルカイダ兵の処遇は、その典型である。
かくして、ブッシュの「対テロリズム・グローバル戦争」が解き放った力学は、帝国主義諸国における「民主主義と人権」を建前にした政治システムが、危機管理と「社会秩序の防衛」を第一義的なものとする露骨に強権的で反民主主義的なシステムに置き換えられているという現実をもたらしているのである。
(3)ブッシュの「対テロ戦争」戦略は、イスラエル・シャロン政権のパレスチナ自治政府を破壊し、パレスチナ人民の抵抗闘争そのものを「テロリスト」として根絶する全面戦争への道を正当化させることになった。いまやシャロン政権は、パレスチナ自治政府の存在や1993年のオスロ合意で承認された「パレスチナ国家」の展望そのものを壊滅させることを射程に入れた虐殺戦争を遂行しているのである。そして、その戦略の最大のよりどころがアメリカ帝国主義にあることは言うまでもない。
「9・11」は、コロンビアにおいてもフィリピンにおいても武装反乱勢力との「和平プロセス」を逆転させた。いまやアメリカの直接の軍事的介入と支援の下で、これら諸国における反政府武装勢力との内戦がエスカレートし、ぼう大な犠牲者・難民が新たに作りだされている。
さらにブッシュは2002年の年頭教書で、「対テロ戦争は始まったばかりだ」と強調してグローバル戦争の拡大を宣言した。そこでは「北朝鮮、イラン、イラク」が「悪の枢軸」として名指しされ、「テロ支援国家」とされたこれら諸国への戦争に備えることを公言している。そしてイラクのサダム・フセイン体制を打倒する新たな侵略戦争の準備を着実に推し進めているのである。
重大なことは、こうした「テロ支援国家」に対する「先制攻撃」が主張され、その際、核兵器の使用も辞さない新たな戦争戦略が採用されていることである。ブッシュ大統領、ラムズフェルド国防長官は、ウォルフォビッツ国防副長官など米国防省内の好戦的タカ派グループと結びつき、「9・11」によって国際的にも「正当化」された軍事的「単独行動主義」を強化しつつ、EU、ロシアなどの同意を取り付けながら、明らかに戦争のエスカレーションに突き進もうとしている。
こうした戦争への衝動は明確な展望に裏付けられたものとはいえない。とりわけ、イスラエル・シャロン政権の対パレスチナ全面戦争の容認と「ポスト・フセイン」の展望のない対イラク戦争への踏み込みは、アラブ諸国との独自の利害関係を持つEUや、ロシア、中国との間での矛盾を拡大し、ブッシュの戦争政策に対する不信感を作りだすことは間違いない。しかし、アメリカの21世紀における世界戦略は、唯一の超大国としての覇権に対する潜在的脅威と見なされるすべての諸国、勢力を、それが現実の「脅威」となる以前に「除去」しようとするものである。それはブッシュに限られたものではなく、まさに「世界秩序の形成者」であることを自負するアメリカ帝国主義の「国益」でもあることは、規定の方針なのである。
こうしてアメリカは、自らの軍事的イニシアティブを前提とした「一国行動主義」をさらに前面に押し出しながら、他国に「国際協調」という名の軍事的追随を強制する政策を追求し続けるであろう。当面の戦争の焦点がイラクであることは間違いない。だが同時に中・長期的には最大の「潜在的対抗勢力」である中国を抱え、朝鮮半島や中台問題などの紛争要因を抱えた東アジア・太平洋におけるトータルな覇権の防衛にアメリカが最大の関心を寄せていることを忘れてはならない。
そしてこの東アジア・太平洋のアメリカ帝国主義の「秩序」にとって、最も重要な同盟者こそ日本にほかならない。小泉政権が推し進めてきた「戦争のできる国家体制」作りの要点は、こうしたアメリカの軍事行動を共同で担うことのできる体制の構築にある。われわれは、こうしたアメリカ帝国主義のグローバル戦略、日本帝国主義を動員した東アジア・太平洋の新たな秩序形成の論理に対抗しうる労働者・市民の闘いを国際的に作りだしていくことが問われている。
3 小泉政権の歴史的性格
(1)小泉純一郎政権は、森政権の末期症状に対するフラストレーションの代償としてかつてないほどの「国民的人気」を獲得した。マスコミは「旧来の自民党政治の破壊者」として彼を持ち上げ、TVのワイドショーは彼の一挙手一投足を追いかけ、政権支持率は一時90%というかつてないレベルにまで達した。
小泉への支持の高まりは、十年を超える経済的危機とリストラ・失業、「右肩上がりの経済成長」神話の崩壊による社会不安の高まり、政官財ゆ着に基づく利権分配構造に依拠していた戦後自民党政治の機能不全と相次ぐ「新党」ブームの消滅などによる、人びとの現状に対するせっぱつまった危機感を裏返し的に表現したものであった。グローバル資本主義の利害は、さらなる「構造改革」と規制緩和の推進を促した。ブッシュ新政権の下でアメリカ帝国主義が主導する世界的・地域的な軍事安全保障体制への「責任分担」の履行を求める内外からの圧力もいっそう強まった。ソ連・東欧の「社会主義」崩壊と労働組合運動の抵抗力の喪失による新自由主義的グローパリゼーションへの対抗理念の不在が、そうした小泉のデマゴギッシュな「パフォーマンス政治」への期待を高める結果になった。
小泉政権は、かつてない人気に支えられて、支配階級にとっての懸案を一気に解決しようとする攻撃を開始した。小泉の年来の持論である郵政3事業の民営化をアドバルーンにした「聖域なき構造改革」という徹底した民営化・規制緩和・リストラ路線の貫徹、「痛みに耐える」ことを国民に強制する公的福祉の解体と「自己責任」による「優勝劣敗」の競争原理、首相公選制を突破口とする憲法改悪の加速化と首相に権限を集中した強権主義的危機管理システムの構築、、ブッシュ政権の国務副長官に就任したアーミテージを中心とする研究グループ(「国家戦略研究所」)の報告で強調された「集団的自衛権」発動の容認などがそれである。それは、新たな国家主義意識の発揚を不可避的に伴ったものであり、小泉は「新しい歴史教科書をつくる会」の反動的な歴史・公民教科書を容認し、靖国公式参拝を強行した。
この上で小泉自民党は2001年6月の東京都議選と7月参院選に圧勝した。森政権時代の長野県知事選での田中康夫知事の当選や千葉県知事選での堂本暁子知事の当選に示された、市民の「無党派」民主主義的感覚は、小泉ブームの中で後景に退かざるをえなかった。
(2)「9・11」は、小泉内閣の軍事的対米支援の踏み込みと有事法制=「戦争ができる国家体制」への移行のテンポを早めることになった。周辺事態法によっても残されていた多くの制約を突破し、海外における自衛隊の集団的自衛権の行使を事実上可能にさせる方向への踏み出しである。
昨年十一月に成立したテロ対策特措法は、「湾岸戦争では軍事支援できなかった」という支配階級のトラウマを克服するためにアーミテージが語ったとされる「ショー・ザ・フラッグ」という言葉を意識的に利用し、「我が国が国際的なテロリズムの防止及び根絶のための国際社会の取り組みに積極的かつ主体的に寄与する」という口実で、地球上の全域におけるグローバル戦争への軍事的加担を正当化したのである。このテロ対策特措法は、公然たる憲法破壊の法律であることは、政府・与党も事実上認めている。そうした既成事実の上に、さらに昨年末での中国の「排他的経済水域」内での海上保安庁による「不審船」撃沈事件をも材料にしながら、今年四月には有事法制3法案が上程されるに至った。
有事法制3法案は、「周辺事態法」や「テロ対策特措法」と連動させて自衛隊の参戦を発動し、それを契機にして「国民の自由と権利」を罰則を伴って制限し、戦時体制の構築と住民の戦争動員を強行しようとする本格的な戦争法案である。それは国際的な規模での国家・社会の軍事化を日本においても貫徹し、国家統治体制の本格的な強権化をうながす意図に貫かれていた。小泉政権は、高い支持率とアメリカの「対テロ戦争」を支持する国際的な流れに乗って、「備えあれば憂いなし」のキャッチフレーズで支配階級の「懸案」である有事体制形成への扉を大きく解き放ったのであった。
(3)しかし、小泉政権の高い支持率は2002年になって急降下し、一転して小泉政権はダッチロール現象に突入することになった。小泉本人とならぶ内閣の二枚看板であった田中真紀子外相の解任、鈴木宗男問題などのスキャンダルの続発によって、少数派派閥出身の小泉首相のイニシアティブは大きく後退し、党内運営もままならぬ状況が深刻化していったのである。
特殊法人の解体や郵政民営化などの「聖域なき構造改革」路線は、自民党内多数派を占める利権派「抵抗勢力」の圧力によって「骨抜き」を強制された。そして郵政・健保とならぶ重要法案だった有事法制3法案も、法案そのものをめぐる与党内の意見の相違と「不備」、さらには防衛庁の情報公開請求者リスト作成問題などによって、ついに今国会での成立が不可能になってしまったのである。
われわれは昨年7月参院選直後に、小泉内閣の展望について次のように予測した。
「小泉人気が、これまでの3カ月のような形で持続することはありえない。とりわけ『構造改革』の痛みが、多くの労働者・市民に降りかかり、深刻な経済的危機のなかで遂行される『不良債券処理策』がデフレスパイラルを促進する時、ブームは着実に鎮静化していくに違いない。『小泉改革』が中央・地方の利権分配構造を少しでも脅かすものとなった時、政官財のゆ着構造にどっぷりとひたった橋本派をはじめとした自民党内勢力からの、『改革』への『総論再生・各論反対』的抵抗が拡大していくことも確実に予測されることである。/小泉・自民党の求心力は分解せざるをえないだろう。小泉がその言葉通りに既定の方針を貫徹しようとする限り、圧倒的人気に支えられた小泉『改革』路線に従ってきた自民党内諸派閥が、『面従腹背』の姿勢をなげうって抗争を再開することは避けられない。その展開次第では、小泉が『抵抗勢力』との闘いのカードを切って、早期の『解散・総選挙』のシナリオを採用する可能性も残されている」(「危機に直面する小泉の新自由主義『構造改革』と国家主義を突き崩す闘いを」、「かけはし」01年8月13日号)。
この構造は、小泉首相本人の政治的イニシアティブのいっそうの低下を伴って現実のものとなった。アメリカ経済の「バブル崩壊不況」の第二段階が始まっており、それはアメリカ経済に支えられた世界資本主義経済を深刻な恐慌局面に追いやる可能性がある。とりわけ日本資本主義にとって、その影響は甚大である。その時、ポスト小泉をめぐる抗争がいっそう政治の表面に浮上することになるだろう。
(4)取り沙汰されている「石原新党」構想をふくめて、当面する政党再編がどのような形をとるのかについては具体的に予測しえない。
しかし重要なことは小泉「構造改革」路線の頓挫は、決して小泉内閣が追求した路線の放棄を意味するものではないということである。グローバル資本主義に対応した新自由主義路線を徹底化させ、アメリカ帝国主義のアジア・太平洋軍事戦略に自らを組み込んで「集団的自衛権」を行使し、「戦争ができる国家体制」の確立と憲法改悪を実現しようとすることは支配階級にとって避けられない選択である。新たな政党再編の軸はそうした戦略的目標によって形成されるだろう。
この中で、より強権的で排外主義的な勢力と、よりリベラルで「分権主義」的な、あるいは市場原理主義の「行き過ぎ」を規制しようとする勢力との分岐も作りだされるだろう。われわれに問われていることは、こうしたグローバル資本主義とアメリカによって主導されるグローバル軍事戦略の枠組みを前提とした分岐を超える戦略的方向性に挑戦しようとする運動と政治勢力を、現実の闘いの中で着実に作りだすための努力なのである。
4 新しい階級関係と労働者・市民運動の分岐
(1)小泉の「構造改革」路線は、10年以上に及ぶ日本資本主義の底無しの不況とグローバル資本主義の危機のいっそうの深まりの中での今日のブルジョア支配階級の総路線を戦略的に体現したものである。それは、医療・年金・福祉・教育などの「公的支出」をいっそう削減して市場主義的競争原理に委ね、「規制緩和」やリストラの名の下に大量の失業者を排出し、無権利の不安定雇用を全面的に導入し、労働条件や実質賃金を切り下げるものであり、労働者階級・市民の犠牲の上に、グローバル競争の中で生き残りをはかる資本の利害に基づいている。
それは、1980年代以後すでに20年以上にわたって大規模な「集団的抵抗」の闘いを解体されてきた日本の労働組合運動に残された最後の「既得権」を消滅させるものとならざるをえないだろう。小泉が推し進める新自由主義的構造改革路線は、徹底した「能力主義」にもとづく「優勝劣敗」「自己責任」イデオロギーを普遍化させ、戦後の国際的な労働運動、市民運動が闘いの中で蓄積してきた平等、公正、社会的連帯、人権などの理念をも「時代おくれ」なものとして放棄する方向に向かいつつある。
「9・11」以後の「テロとの闘い」を名目とした「民主主義」的帝国主義諸国における「裁判ぬきの拘留」などの強権主義的な民主主義的諸権利の破壊、難民や移住労働者に対するレイシズムそのものともいえる排除は、小泉政権の「有事」国家体制作りの中にも貫かれている。「国民」としての国家への服従が「日の丸」「君が代」などを通して「自発的」「内面的」な形をとって誘導されるとともに、警察的な「監視」と「管理」の網の目が日常的に強化されていく事態が作りだされていく。石原都知事の「不法入国中国人」を「犯罪者」「治安攪乱要因」として住民の排外主義をあおる一連の発言や、「住基ネット」を通じて現実化される「国民総背番号」体制は、小泉政権が推し進める新自由主義「改革」とセットの「戦争国家」体制作りの構造的な一環を形成しているのである。
(2)「連合」指導部は、こうした新自由主義と新たな国家主義の攻勢を通した労働者階級の諸権利剥奪、失業と不安定雇用の全般化、超長時間労働と「サービス残業」に有効な反撃を行うことができないばかりか、イデオロギー的にもそうした資本の攻撃を補完する役割を果たしつつある。
しかし、既存の労働組合運動が敗北と屈服を繰り返す中で、労働者階級の不満と抵抗の基盤はいまだ社会的・集団的な形をとってはいないとはいえ、確実に醸成されざるをえない。
日本の「伝統的労使関係」の安定性の基盤であった大企業における終身雇用制と年功型賃金制度はすでに崩壊し、パート、派遣などの無権利・非正規雇用形態が、公務員と民間を問わず急速に拡大している。「雇用均等制」や「男女共同参画社会」がうたわれる中で、こうした雇用形態の変化と結びついて事実上の男女差別賃金はむしろ拡大している。労働者の実質賃金はすでに着実に低下しつつあり、年金・医療制度等の福祉の改悪、税制改悪などを通じて、社会的な貧富の差の拡大と「底辺への競争」が進行し、「豊かな社会」の幻想は解体している。
こうした旧来の労働組合運動の存立基盤そのものを大きく揺るがす新自由主義的な社会再編の中で、連合から全労連をもつらぬいて労働組合運動の新しい戦略の模索が始まろうとしている。たとえば、「オランダモデル」の「ワークシェアリング」が資本の側からも連合指導部からも大失業時代の新たな雇用モデルとして提示されはじめている。しかしそれが、正規・パート労働者間の賃金・権利の差別を固定化した上で導入されるものである限り、労働者の賃金と権利を押し下げ、不安定正規雇用の解体をいっそう促進する口実にしかなりえないことを指摘しなければならない。
新自由主義的な社会再編に対する失業と権利破壊に対する労働組合の集団的抵抗闘争の復権を企業主義と一国主義を超えてどのように作りだそうとするのか。左派労働組合が挑戦すべきこの課題に、われわれはともに取り組んでいかなければならない。
国労の闘う闘争団は、国労執行部が「四党合意」を受け入れ、それを批判する人びとを排除するというきわめて困難な条件の中で、原則的な闘争を堅持し、リストラ・失業に対する社会的闘争としての普遍化をめざしている。郵政全労協や電通労組全国協などの独立・少数派組合は、今日の民営化、リストラ、権利剥奪の攻撃に対する抵抗の拠点を作りだすために奮闘している。昨年に行われたフランスSUDの招待・交流の活動は、こうした闘いを反グローバリゼーションの観点から国際的な展望をもって作りだす方向性を打ち立てるものであった。
われわれは、ヨーロッパ、アメリカ、韓国など今日の国際的な労働者運動の貴重な経験を積極的に共有化しつつ、連合など既成労働組合運動の流動化の可能性にも着目しながら、新たな社会的労働運動のための拠点をめざさなければならない。
労働者が具体的な闘争経験を通じて、階級的団結の必要性と労働組合運動を「再発見」し、政府・資本と対決する全国政治闘争の必要性を「再発見」するための契機となりうるキャンペーンが決定的に必要である。今日の有事法制=戦争国家体制づくりと対決する労働組合レベルのナショナルセンターを超えた共同闘争の経験は、そうした観点からいってもきわめて重要であり、20労組を軸にした闘いの構造を発展させるためにわれわれは全力をつくす必要がある。
(3)新自由主義的グローバリゼーションと「戦争ができる国家体制」づくりが進められる中で、NGO、市民運動、女性運動などの側も新たな再編と分岐に直面している。
ヨーロッパ「緑」が、社民党主導政権に参画する中で「人道主義的介入」という名の下にユーゴスラビアやアフガニスタンへの戦争を積極的に是認したことは、その一例であった。国際協力NGOグループの中には、帝国主義国家による新たなグローバルな軍事介入には沈黙して、事実上各国政府の侵略的対外政策を「市民」的に補完する役割を果たす傾向も生み出されている。政府とNGOの「パートナーシップ」論に基づく「参加・提言」方針が、そうした傾向を支えるものとなっている。
「官僚支配の打破」「官から民へ」を合言葉に、小泉政権が推進する「聖域なき構造改革」に期待し、それを市民の側から支え、「応援」する流れも生み出されている。政治的には民主党と結びつくことになるこうした「市民」的流れは、一方では小泉内閣の戦争国家体制づくりや憲法改悪を批判しつつ、「小泉改革」そのものについては官僚やそれと癒着したゼネコンなどの「権益政治」を打破するという観点から、積極的な評価を与え、そこに新しい「市民派政治」の可能性をつかみとろうとしているのである。
新自由主義を「市民」の側から推進しようとするこうした流れは、資本のグローバリゼーションを「不可避」なものとして受容するところに根拠を持っている。その主張は、小泉の「聖域なき構造改革」が「公正で平等で透明な社会」を市民サイドから実現する「チャンス」と捉えているようである。
しかし言うまでもなく、小泉内閣が推進する「構造改革」は決して労働者・市民の民主主義的スペースを拡大・定着させるものではない。それは決して既得権を持つ者の特権を廃止し、市民が自らの「創意」に基づいて自由に参入する「公正」な「機会の平等」をもたらすものではない。
新自由主義が実現するのは「強者」である資本の独裁であり、「弱者」としての多数の労働者・市民はあらかじめ排除されている。そこでは労働者・市民の民主主義的スペースは極度に圧縮され、少数者による上からの権威主義的な決定が強化されていく。ごく少数の経営指揮者に意思決定が独占されている今日の大企業の「トップダウン」方式が、全社会化されていくことになるのである。首相公選論者であり、首相権限の集中をめざす小泉の「改革政治」の手法にそれが表現されている。
われわれは何よりも、小泉の「構造改革」路線による失業と雇用破壊、公共的社会支出の切り捨てに対決する行動的な抵抗を組織するとともに、「守旧派」的抵抗ではない労働者・市民の民主主義的自治に基づくオルタナティブを対抗的に獲得していく道を目指さなければならないのである。
そのための核心的な闘いは、資本のグローバリゼーションに対する労働者・市民の多元的な抵抗を行動として結合する反グローバリゼーションの運動を社会的に発展させることにある。ATTAC-Japanなどの運動が目指そうとしているそうした目標を定着させるためにわれわれは全力をつくさなければならない。
(4)われわれは、資本の新自由主義的グローバリゼーションとグローバル戦争に対する労働者・市民の闘いを、グローバルな「平和・人権・公正・民主主義」を実現するという価値意識に基づいて推進していく。それは、「平和・人権・公正・民主主義」という普遍的な価値をそれを否定する現実に抗して追求するための指針であるとともに、社会主義のための闘いににとって現存する大きな溝を埋めていこうとするものである。
資本のグローバリゼーションは多国籍企業の独裁であり、そこでは資本の利潤の無制限な追求にとっての一切の制約を「市場原理と自由競争の絶対性」によって撤廃することが至上の目標となる。その際にふみにじられるのは「国民国家の主権」だけではなく、民衆の自己統治としての民主主義的主権であり、民衆の尊厳そのものなのである。
新自由主義的・軍事的グローバリゼーションがふみにじるものは、「第三世界」の人びとの権利と公正だけではなく、帝国主義諸国に住む民衆のそれでもある。そのことは、「テロとの闘い」の名の下でのブッシュのグローバル戦争において、そして小泉の「武力攻撃事態法案」において、如実に示されたことであった。
かくしてわれわれは、新自由主義とグローバル戦争に対決する抵抗と、「もう一つの世界」をめざすオルタナティブをグローバルな「平和・人権・公正・民主主義」という方向で推進していくことによって、グローバリゼーションに対する闘いを「もう一つの資本主義」の枠内で構想しようとする限界を、ねばり強く克服していこうとする。この闘いを、グローバリゼーションの枠組みそのものを否定するラディカルな反資本主義の論理、そしてスターリニズムをトータルに否定した社会主義再生の論理へと発展させるために意識的な闘いを進めていかなければならない。
「一国的護憲平和主義」の立場で今日の資本のグローバリズムに立ち向かうことはできない。「人道的介入」や「国際貢献」の論理で進められるグローバル戦争と対決することはできない。さまざまなNGOグループ、平和運動、環境保護運動、フェミニスト運動やマイノリティーの運動とともに、われわれは今日の国際的で多元的なイニシアティブの一翼を担い、「平和・人権・公正・民主主義」の価値を、社会主義革命運動の再生へとつなぐ「かけはし」とするために闘おうとするのである。
5 国際主義的反資本主義左翼潮流の形成に向けたわれわれの課題
(1)第18回大会の政治決議でわれわれは、将来における反資本主義左翼の組織的結集の展望を射程に入れる必要性を提起しつつ、「しかし、それは労働組合運動や社会運動の抵抗勢力としての再建と相関関係にある」こと、「当面、われわれはそうした反資本主義政治勢力形成のための左翼の政治的・組織的再結集のイニシアティブを発揮する状況にはない」こと、そして「今日の日本の状況においては、労働運動や社会運動の中での共同と討論関係の蓄積を通じて、信頼関係を作りだしていくためのきわめて初歩的な段階にしかない」ことを確認し、「反資本主義的オルタナティブを担う政治勢力を形成する条件を作りだしていくために闘わなければならない」と述べた。
それは、反資本主義左翼潮流に向けた闘いが、いまだ初歩的準備段階にすぎないことを強調するものだった。今日、左翼勢力の主体的状況は、18大会当時と比較して大きな変化があるとはいえない。しかし同時に、われわれは「反資本主義的左翼」のための具体的挑戦を彼岸化するのではなく、それを今日的にどのように意識的に推し進めるのかとして課題を設定しなおさなければならないのである。
(2)国際主義的な反資本主義左翼=社会主義左派潮流の形成は、日本の労働運動や市民運動・社会運動の今日置かれているきわめて困難な状況の中で、新自由主義的「構造改革」や「戦争ができる国家体制」に対する抵抗と反撃をどのように作りだしていくかというわれわれが一貫して追求してきた課題とセットのものであり、その中での共同闘争の構造を防衛し、発展させていくことを不可欠の条件とすることは言うまでもない。
われわれは、首都圏、関西など全国各地において、現にさまざまな市民運動の重要な役割を担っている。こうした共同戦線の枠組みが、今後の大衆運動の発展のなかで依然として重要な役割を果たすことは明白である。われわれの同志たちが果たしているこうした機能をメンバー個人のものから、組織全体の取り組みへと強化し、さらにそれを全国化していかなければならない。この共同戦線の中で、首都圏のアジア連帯講座など、われわれの活動家組織の建設と強化が独自に進められなければならない。また、たとえば首都圏においてはアジア連帯講座としての独自の闘いとともに、共同行動全体への責任をもった関与がこれまで以上に求められている。
同時にこうした大衆運動を、今日の新自由主義的グローバリゼーションとグローバル戦争に対する国際主義的な運動に発展させていくイニシアティブを、われわれは主体的に発揮していかなければならない。たとえばATTAC-Japanの運動の各地での広がりと発展のために、組織として責任をもった対応をすることは、われわれに飛躍を強制するものである。
言うまでもなくATTAC-Japanは、新自由主義的グローバリゼーションと軍事的グローバリゼーションに対する広範な共同戦線的で行動的な組織として建設されなければならず、その組織性格は徹底的に多様性と自律性を尊重するものでなければならない。われわれは、反グローバリゼーション運動が「もう一つの、よりまし資本主義」を求めようとする流れをふくむものであることを確認する。それ自体は直接に社会主義的オルタナティブへの指向によってくくられるものではない。
しかし、ATTAC運動を多元的な柔軟な性格を持った広範な抵抗の運動として作り上げるためにも、またその運動の中から反資本主義的オルタナティブを追求する意識的な主張を発展させるためにも、われわれはその当初の段階から組織的な責任ある対応が求められる。多元性とラディカルさの指向の双方に、われわれのイニシアティブが必要なのである。
反グローバリゼーシヨンの運動は、労働運動、反戦平和運動、環境運動、消費者運動、医療・教育・介護などの地域・自治体運動、巨大開発反対の運動、女性・青年の運動、外国人などマイノリティーの権利防衛の運動、国際的なNGO運動などのきわめて広い分野の活動をその対象領域にするものであり、そうであればこそセクト主義を排した共同戦線を作りだす能力とトータルな観点が求められる。そして、そこにおいてこそわれわれの組織的努力の一段の強化が必要とされることを自覚しなければならない。
(3)反資本主義的左翼の形成をめざすわれわれの闘いは、こうした反グローバリゼーション運動の形成を軸にして、労働運動や社会運動の集団的な抵抗の力を再構築することを基礎に、さまざまの政治グループとの政治・組織的な共同・協力関係を築き上げていくことを射程に入れたものである。
「自治・連帯・共生の社会主義をめざす政治連合」は、1990年代において既成政党から自立した「市民派」政治勢力の登場を大きな目標として設定し、1995年の「平和・市民」の参院選挙などの選挙活動を取り組んできた。しかし「平和・市民」選挙の敗北、市民新党にいがたが提起した「市民派全国政党」の結成とそれによる国政選挙などの構想が頓挫した後、そうした共通の政治目標を建てることができないまま分岐を深めている。とりわけ小泉「構造改革」への態度の取り方についてさえ、違いが顕在化しているのである。政治変革の目標をヨーロッパ「緑」にならった「緑の政治」に置くフロント、「社会主義」という問題設定そのものを放棄し「ローカルからの変革」を焦点にすえた工人社(自治・連帯・エコロジーをめざす政治グループ蒼生)と、われわれとの政治的ベクトルの相違は、深まっている。
われわれは社会主義政治連合に結集する諸政治グループとの大衆運動や選挙方針をふくめた討論・協力関係を重視しなければならず、政治連合そのものが今後に果たす役割について積極的提起を行っていく必要がある。しかし現在の分岐の性格からして、社会主義政治連合総体が新たな反資本主義左翼の再編成に向かうイニシアティブを発揮すると考えることはできない。
われわれは、ヨーロッパの一部の諸国に見られるような旧スターリニスト共産党の一定の規模をもった分裂を背景にした左翼再編という展望を当面の可能性の問題として立てることはできない。もちろん労働運動、憲法改悪や戦争国家体制に反対する運動の中で、一定の範囲で共産党との協力関係が発展することはありうるし、われわれは統一戦線的にそうした活動を積極的に進めていかなければならない。また、共産党内で指導部の右翼的・官僚主義的方針に批判的な流れが、少数ではあれより明確な形を取って浮上する可能性も排除できない。しかし、反資本主義左翼潮流形成において問われていることは、われわれ自身のイニシアティブをどのように作り上げていくかというプログラムである。
(4)そうした新しい左翼的イニシアティブのための構想の中で、旧第四インター日本支部系(組織としては国際主義労働者全国協議会と第四インターナショナル日本支部再建準備グループ)の再統一の可能性をさぐっていかなければならない。労働運動、反グローバリゼーション運動などの大衆運動上の諸課題、国際活動などの討議・協力関係を基礎に、相互の信頼関係を確立し、定期的な協議を行っていくことを可能なかぎり追求していかなければならない。
同時にわれわれは、旧第四インター日本支部以外の他の政治グループとの関係でも、どのような協力・共同関係の形成がありうるのかの討論を開始する必要がある。
(5)今日の政治グループ、大衆運動の動向と評価……(略)……
(6)新自由主義的グローバリゼーションの危機とブッシュが解き放ったグローバル戦争の論理は、とりわけアジアにおいて第四インターナショナルに結集する同志たちとの共同の闘いを強化する必要をわれわれに迫っている。とりわけ、中・長期的な情勢の中で、アジア・太平洋地域の持つ比重がますます重大になっている中で、われわれの組織と運動の建設をアジア規模での国際的な闘いと結合して進めることが求められている。
われわれがこの間、作り上げてきた台湾・香港との共同の初歩的経験を発展させるとともに、フィリピン、韓国、インドネシア等との結びつきの可能性を意識的・計画的に追求していかなければならない。こうした国際連帯活動を共同戦線的に組織し、あるいは既存のネットワークに参加していくことも必要である。
そのためにも、国際的活動を担うことのできる活動家を計画的に形成していくことが重要である。アジアにおける革命的インターナショナルの手がかりを現実のものとしていくために闘おう。