第20回全国大会コミュニケ

かけはし2006.9.25号

 日本革命的共産主義者同盟(JRCL)は、この八月に第二十回全国大会を開催した。大会の討論は「反資本主義左翼」の形成をどのように考え実践していくのかという点を中心に行われた。この課題で全同盟的討論をしたのは初めてである。
 第四インターナショナルは二〇〇三年の第十五回世界大会で「資本主義的グローバリゼーションのもとで押し進められた新自由主義的政策が行き詰まり始め、資本主義の危機が進行する」ことに積極的に対応していくために「第四インターナショナルの役割と任務・広範な反資本主義的プロレタリア党の建設」を決議し、社会運動の再組織化に挑戦していくことを確認した。
 わが同盟は第十八回(1999年)、第十九回全国大会(2002年)の討論を引き継ぎ、第四インターナショナル第十五回世界大会決議とわれわれ自身の討論を重ね合わせながら、昨年二月の十九期九中委で「新しい左翼組織の統合についての討論の呼びかけ」を決議し、同盟内外の闘う仲間との討論を開始した。大会はこの二年間の経験と教訓を集約し、次にステップ・アップする場であった。だが大会での討論を通して明らかになったのは、今日の国際情勢・国内情勢の中で「反資本主義左翼」をどのようにイメージするのか、新しい複数主義的民主的全国組織をどう考えるのか実践するにあたってわが同盟内には未だ大きな政治的幅があることが明らかになった。
 この闘いはこれまでわれわれが党に対して持ってきた概念の飛躍や転換を内包するものであるが故に、より多くの討論が必要なことは明白である。
 わが同盟は今秋の資本主義的グローバリゼーション反対闘争を始め、反改憲闘争、米軍再編に対する闘いの中で、再びこの課題に挑戦するために組織内、そして幾つかの左翼グループとの討論を続けていくことを確認した。
 第二十回全国大会は、新たな中央委員会を選出し、中央委員会は書記局を選任した。
 二〇〇六年九月

新しい左翼政治組織の形成に向けた実践的踏み出しを

――社会主義的オルタナティブのために(上)


 以下の文章は今年八月に開催された日本革命的共産主義者同盟(JRCL)第20回全国大会に、平井純一が提出した文書である。大会は討論の上に、この文書を採択に付さず、さらに討論を深めていくことにした。ここに討議資料として掲載する。(日本革命的共産主義者同盟〔JRCL〕書記局)

(1)われわれの「党」に対する考え方

 (a)

 われわれが、いま二十一世紀初頭に新しい現実に対応した「党」をどのように構想するかを論議しようとする時、革命党についてわれわれがどのように考えてきたのか、それをどのように転換することが必要なのかについて整理する必要がある。とりわけ、「組織内女性差別」問題を契機にした一九八〇年代の旧第四インター日本支部の危機と分裂、それと並行した一九八〇年代後半から一九九〇年代初頭にかけたソ連・東欧のスターリニスト官僚体制の解体を通じて、それがどのように突きつけられたのかを振り返ってみる必要がある。
 われわれの革命党概念は、一九一七年のロシア革命と、それによって建設された共産主義インターナショナル(コミンテルン)の最初の四つの大会を基礎にしたものであった。そしてスターリニスト官僚独裁体制によるボルシェビキ・レーニン主義の歪曲・解体に抗してこの「四つの大会」の原則を継承・発展させてきた左翼反対派と第四インターナショナルの立場に基づくものであった。
 それは、社会主義革命の前衛としての労働者階級を基礎にした「戦闘組織」としての党である。そして「分派の自由」をふくむ党内民主主義にもとづく「民主主義的中央集権制」に立脚して運営し、国際共産主義運動の歴史、論争、その教訓にもとづいた綱領・戦略・戦術の体系を主体化した「インターナショナルの一部」としての党を目指そうとすることを「原則」としていた。われわれの組織建設の軸には、そうした歴史的経験に据えられた世界社会主義革命に向かうイデオロギー的アイデンティティーと、現実の情勢をその立場から捉え、運動方針と組織建設方針を提起しようとすることが抽象的・一般的な原理としては共有されていた。

 (b)

 もちろんこうした認識は、組織の現実としては「建前」にとどまっていた。一九八四年の日本支部12回大会は、組織内女性差別問題と中核派による「内ゲバ」襲撃、そして現実の大衆運動状況における深まる困難と、政治的展望における対立がもたらした危機の中で、レーニン主義的党建設という「原理」と「大衆運動主義」的活動家集団という現実との乖離を、「原理」の側から突破しようとするものであった。しかしその矛盾を組織中心主義的に突破しようとする方針は、対立をより深刻化し、組織建設の破綻を顕在化させるものとならざるをえなかった。
 女性たちは「男も女もない党」という「建前」で現実の女性差別を隠蔽する組織のあり方を厳しく糾弾した。そして財政的自治をふくむ女性メンバーの組織的自治を求めていった。この提起は、女性差別を内包してきた「党」のあり方への厳しい批判であり、女性運動を「社会主義女性解放運動」として階級闘争と革命運動の一元性の中に位置づけてきた旧来の概念の根底的な見直しを要求するものであった。それは同時に、一九七〇年代以後顕著な形で登場してきた、それまでの政党・労働組合を機軸にした大衆運動の構造を超えるいわゆる「新しい社会運動」の多元性を、革命運動と党建設の中でどのように捉えていくのかを突きつけるものであった。
 こうした問題が、総評に体現された労働組合運動の急速な衰退と資本や国家への組み込みの進行、その背景にあった一九七〇年代の二度のオイルショックを背景にした戦後の資本主義の高度成長構造の終焉と産業構造の新たな再編を土台にしたものであることは言うまでもない。
 ソ連ならびに東欧労働者国家のスターリニスト官僚体制の崩壊は「社会主義の崩壊」と等値され、大衆の中での「社会主義」に対する信頼性を決定的に崩壊させた。新自由主義の全世界的席巻の中でサッチャーの言う「There is no alternative=TINA(市場原理と新自由主義的資本主義に対するオルタナティブなど存在しない)」というスローガンが抗しがたい圧力をもって労働者の意識をも規定する事態となった。
 われわれはそれを「ロシア革命を出発点とする社会主義と階級闘争」の歴史的サイクルが幕を閉じたものとして認識せざるをえなかったのである。アメリカの一極的世界覇権を印象づけた一九九〇-九一年の湾岸危機―湾岸戦争は、それを決定づけるものであるように思われた。

(2)九〇年代におけるわれわれの模索と左翼運動の再編・分化

 第四インターナショナル日本支部の「女性差別」問題と、女性メンバーの「女性解放グループ」結成とその後の「離党」、そして日本支部の分裂と第四インターナショナル第13回世界大会でのインターナショナル構成員資格の剥奪の中で、われわれは自らの組織建設の敗北という深刻な事態を受けて、その後の時代の激変に対処しなければならなかった。
 同盟の分派闘争は、一九八七年のプロレタリア派からのMELTの分裂を経て、一九八九年の同盟14回大会での最終的分裂に帰結した。14回大会をボイコットしたグループ(第四インターナショナル日本支部全国協議会→国際主義労働者全国協議会を結成)との対立は、直接的には同盟の組織性格をめぐる対立として現れた。「全国協」(労働者の力)は、同盟の民主的中央集権主義にもとづく全国組織としてのJRCLを解体・再編し、連合的組織に移行することを要求し、かつそれを自ら実践した。
 JRCLに残ったわれわれは、週刊機関紙「世界革命」の発行を軸にした同盟の全国的組織としてのあり方を防衛していくことを最低限の一致点としていた。同時に第四インターナショナルとの組織的連携・討論関係を維持し、インターナショナルの運動、討論から学び、共同していくことを追求した。
 われわれは労働運動、大衆運動の後退・再編の局面の中で、自らの課題を現実の大衆運動、統一戦線・共同行動との接点を可能なかぎり防衛し、それを通じて情勢の新たな局面、時代の性格をつかみとっていこうとすることに集中した。この過程はまさに「自覚的な経験主義」と言うべきものであった。
 われわれは階級意識の崩壊と大衆運動の衰退の中で、「平和主義的リベラル民主主義」という性格をふくんだ大衆運動に内在しつつ、そこからの「意識的独立性」を堅持すること(一九九五年16回大会)、あるいは「社会主義革命運動の再生」という目的意識と現実の大衆運動の間の大きな「距離」を自覚して、緊張感を持って「リベラルの罠」に陥らないようにしながら大衆運動との関係を発展させる必要があること(一九九六年17回大会)を確認した。
 それは当面のところ、旧来の大衆運動構造の周辺化の深まりの中でその継続性を防衛しつつ、大衆的抵抗運動の新たな局面を手繰りよせながら、「拠点」的闘争の経験をそこにつないでいかなければならないという問題意識によるものであった。また新たな市民的・地域的運動の可能性に注目しつつ、その必然的ともいえる「非政治性」に妥協することなく、欧州やラテンアメリカにおけるインターナショナルの経験的模索と自らを重ね合わせながら「社会主義革命」への目的意識をどのように発展させていこうとするのかという努力でもあった。われわれのこの時期の「自覚的な経験主義」が第四インターナショナルの闘いをつねに意識することによってのみ可能であったことの重要性に改めて立ち返る必要がある。
 「社会主義をめざす階級闘争」の歴史的一サイクルが終焉し、しかも新自由主義的グローバル資本主義がもたらす矛盾の中から、新しい階級的分化と政治的再編が明確な姿を持って現していないこの時期に、われわれはさまざまな運動への関与を現実との接点を維持する生命線としながら、自らの組織と機関紙を防衛するところに努力を集中せざるをえなかったのである。大衆運動・共同行動の分野では中核派、革マル派など内ゲバ主義の介入を阻止するためにも市民運動で活動する多くの人びとともに大きなエネルギーを傾注した。
 この間われわれは、一九九六年の第17回大会で規約改正を行って、旧来の民主主義的中央集権制の概念を柔軟化するとともに(行動にかかわる決定に対する反対意見者はその遂行について協力するよう要請されるが、決定は反対意見を義務的に拘束するものではない)と女性差別との闘いの義務を規定した。

(3)新しい政治潮流と政治組織について

 (a)

 一九七〇年代から始まった、従来の五五年体制、すなわち相対的に安定した選挙基盤を背景にした「保守」・「中道」・「革新」の政党関係の動揺は、一九九〇年代に入ってドラスティックな形で深まった。一九九三年夏の自民党の分裂による細川・非自民連立政権の誕生、それに続く一九九四年の村山自・社・さきがけ連立政権は、高度経済成長時代の政治・経済・社会関係の終焉に代わる新しい構造がいまだ生み出されない過渡期の産物であった。自民党の分裂による「新党」ブーム、一九九五年の統一地方選での「無党派」ブーム(青島東京都知事、横山大阪府知事の当選)、ローカル政党の試み(市民新党にいがたなど)がそれに続いた。
 新左翼政治グループや市民運動の中からは、一九八三年参院選の「無党派市民連合」を皮切りに、一九八六年参院選の東京・中山千夏選挙、一九八九年参院選の「原発いらない人びと」、一九九二年の反PKO選挙(東京での内田選挙)、一九九五年の「平和・市民」選挙が試みられた。しかし国政選挙での議会的足場を獲得することによって新潮流を形成しようとする試みは敗北した。
 ソ連・東欧における「社会主義」体制の崩壊の中で、新左翼諸政治グループの新しい共同と潮流化を企図した「社会主義政治連合」も一九九五年の「平和・市民」選挙の敗北以後、それぞれの政治展望の分岐によって停滞せざるをえなかった。全体としての左翼運動の後退の中で、新しい政治潮流をめざそうとする構想は、「護憲」政治勢力、緑の潮流、新しい社会民主主義、ローカル政治勢力化などのさまざまな傾向に分散することとなった。「大衆運動派」としてのわれわれも大衆運動構造そのものの先細りの中で、次の政治展望を見いだせないまま「大衆運動なき大衆運動派」にとどまってしまった。

 (b)

 われわれはこの困難な時代にどうかかわろうとしたのか。「社会主義の崩壊」と労働者の独立した階級意識の衰退、そしてアメリカの「単独覇権」と新自由主義の攻勢の中で、国際的にも左翼のかつてないほどの後退が進行していた。旧スターリニストの解体と「社民化」、社会民主主義の「社会自由主義」化が発展し、革命的左派は自らの存立基盤の危機の中で、「生き残り」をかけた闘いを繰り広げざるをえなかった。
 すでに一九八〇年代後半以後、欧州の第四インターナショナルでは一九六八年以後の展望、すなわち社共の左側の勢力を労働者階級の闘いが押し上げていくという急進主義的展望を伴った組織建設の展望の見直しが行われていた。そこでは複数の革命的左翼の存在を前提にした、政治的起源を異にする前衛的左翼組織の統合の可能性が模索されていた。ラテンアメリカでも一九九〇年代以後、キューバ共産党やニカラグアのFSLN、ブラジルPTをふくんだラテンアメリカ・カリブ海地域の左翼組織のネットワークによる「サンパウロ・フォーラム」の会議が定期的に開催されていた。
 欧州においては、ドイツ、スペインで旧毛沢東派との統合が試みられた。しかしそれは結果として失敗し、これら諸国のFI組織は分裂し、後退した。他方、イタリアではイタリア共産党の分裂から作りだされた共産主義再建党(PRC)にFI勢力は合流した。またポルトガルやデンマークでは、他の左翼潮流との恒常的選挙ブロック組織が形成され、議会内への進出に成功するなど、各国の状況に規定された複雑な経過をたどった。
 日本において一九九〇年代の状況はいっそう深刻であった。女性差別問題を克服できなかったわれわれの誤り、女性メンバーの離脱と組織の分裂、第四インターナショナルのメンバー資格の喪失という主体的問題に加え、労働組合運動の社会的規定力の崩壊、大衆運動自体の弱体化――これらの事態は、社会主義左翼の再結集と統合を構想することをきわめて困難にさせていた。
 その中で、新しい時代の「党」とは何か、それはどのような基盤の上で形成されるのか、社会主義革命運動の再生のためにどのような対抗的オルタナティブが問われているのか、こうした課題を現実の大衆運動の展望との関係で構想することを、われわれは先送りにしてきた。たとえ大衆運動構造そのものが日増しに衰退していたとしても、その運動に密着しながら可能性を掘り起こそうとする「大衆運動主義」としての選択をわれわれは敢えて行ったのである。
(つづく)(平井純一)