派遣労働者と団結したNWA労組ストライキ闘争の今日的意義
寄稿 イ・ファンミ(労働者歴史ハンネ企画局長)
(労働者歴史『ハンネ』の紹介)
労働者歴史『ハンネ』は長年、労働運動に関する資料のアーカイブ化に取り組んできた。2019年1月、歴史展示室の開館に伴い、それまでのソウル市内の事務所から郊外の一山に事務所を移転して今日に至る。労働者歴史『ハンナ』の代表は、民主労総の前身団体である全労協委員長であったヤン・ギュホン氏である。(「かけはし」編集部)
あの時も、問題は“派遣制”だった
1987年7~8月燃え広がった労働者大闘争の花火が鎮まりかけていた9月、米国企業であるノースウェスト航空労働者がストライキに乗り出して100日間の闘争をした。
米国航空会社のソウル支社韓国人労働者が今から35年前にすでに“派遣労働”の問題を社会的に提起して、正職員と派遣労働者が一つに団結して連帯したという点で非常に意味ある闘争である。
1947年韓国に就航したノースウェスト航空(NWA)は当時国内労働市場の特性を隅々まで活用して莫大な利潤を残していた。 もちろんそれは労働者の労働力無限搾取で可能だった。
“正職員と派遣職分けた労使管理”に反発
“派遣労働”問題は深刻だった。NWAは毎年新規職員30~40人を募集し1~2人だけ正職員として採用して、貨物・旅客・整備部に合格した人は何らの説明なしに韓国産業安全株式会社(KSC)という用役会社に入社させた後NWAに派遣した。結局NWA採用試験に合格してNWA所属職員とまったく同じことをNWAでしているのに、月給はKSCから受けるという異常な構造だ。
大学卒業後入社した3年次の場合、NWA職員は基本給(週給)40万ウォンに年600%のボーナスを受ける一方、KSC所属職員は基本給21万ウォンに年400%のボーナスを受けた。 それでもKSCは賃金総額の20%を用役料として搾取した。
NWAは頻繁な発着による延長勤務の大部分を超過勤務手当が安いKSC職員に押し付けた。
会社側は派遣職員には「不平なしに働けばNWAの正職員として選択する」と圧迫して、NWA職員には「派遣職より月給を二倍も受けながらなぜ不満が多いのか」と抑圧して巧みな二元的労使管理で両方の労働者全体の労働力を搾取した。
一方外国人との格差もひどかった。 NWAの韓国人女性乗務員の初任給は27万ウォンだったが、アメリカ人女性乗務員の初任給は80万ウォンだった。
正職員と派遣職員に対する差別はあまりにも久しい慣行なので、KSC労働者は1965年11月にもストライキ闘争を展開したことがある。 1985年夏にはNWA労働者全体が集団無断欠勤闘争をしたが、不合理な構造を解決するには力不足だった。
空港で座り込み闘争、他の外国会社に拡散
1987年労働者大闘争が活発になるとすぐにNWA労組も反撃に乗り出した。
労組は9月1日△KSCをNWAとして完全吸収△基本給50%、賞与金100%上乗せ△搭乗職員の海外医療保険実施など17の要求案を会社側に正式に提出した。
しかし会社側は答えを出すどころか日本支社に勤めていた米国職員と韓国職員らをソウルに呼んで業務を任せた。
遂にNWA労組員はKSC派遣労働者とともに9月9日9時から金浦空港でストライキ座り込みに突入した。
会社側はすぐに座り込み場の電話線を切って、盗聴装置を設置する一方、組合員が入社する時に推薦書を使ってくれた指導教授らにまで手紙を送って虚偽事実を流布した。
怒った労働者40人余りが9月14日、国際線2階貨物と事務室に押しかけて門を閉ざして座り込みを始めた。 引き続き17日には70人余りが国際線2階のノースウェスト出国手続き場で“2元的労使関係撤廃’を要求して沈黙デモをした。
組合員はこの日予定された労使協議の場所と時間を会社側が一方的に変更して時間だけ費やすのに抗議して、胸に“PRAGILE(破損主義)”と書いたステッカーを貼り付けて‘X”表示したマスクをつけたまま座り込みを続けた。
NWAのような労使管理体制を採用して64人のKSC派遣職員を使っている日本航空(JAL)韓国職員も“2元的労使関係撤廃”など7項目を要求して9月18日から同調ストライキに突入した。
他の外国企業であるフライングタイガーで働く韓国人労働者も激励金を送ってきた。
NWAで起こっている労働弾圧は他の外国系会社で働く韓国労働者もまったく同じようにありうることだったので共感したのである。
NWAに引き続きJALストライキまで長期化すると、すぐに韓国に就航している他の外国航空会社ではこれまでタブーとしてきた労組結成を許容したり処遇改善を約束する雰囲気が形成された。1960年ソウル就航以来労組を認めなかったキャセイパシフィック航空(CPA)ソウル支店は韓国人職員の労組創立を容認して、ユナイテッド航空(UA)ソウル支店も超過勤務手当新設とともに賃上げを本社に建議した。
報復措置に立ち向かって再ストライキ…全組合員断食まで
一方9月25日からは会社側の弾圧がさらに露骨化した。 NWAは航空機就航を全面中断して、職員給与の3分の1だけ支給して賞与金支給も中断した。
しかし労働者は揺れることなく闘争を続けて10月9日、NWAで働くKSC職員34人について19人は1987年末までに、15人は1988年末までに正職員として採用されることで合意を成した。これより先立って10月7日JAL労使も63人のKSC職員を1989年末まで段階的に正職員として採用されることで合意した。
NWAとJALが合意に乗り出したのは、1988年オリンピック特需を控えてソウル黄金路線を諦めたくなかったためだと解釈された。 特にNWAはその年の12月に就航予定であったデルタ航空を意識するしかなかった。
しかし合意してから三日もたたないうちにNWAはストライキ座り込みに参加した旅客部正職員13人全員を貨物部に、貨物部のKSC職員4人は旅客部とする人事措置をして旅客部にはKSC職員28人だけ残すようにした。
NWA労組は直ちに反発した。 労組は10月15日会社側に「報復措置に対する是正要求書」を発送、正式に業務区分を要請した。内容は△報復人事13人の旅客部還元配置△今後このような紛糾の予防措置として明確な業務区分△個人人事は当事者の意見を最大限尊重して業務可能な分野で配置△再ストライキに対する不利益禁止などである。
要求に会社が応じないのでNWA労組は10月27日臨時総会を開いてKSC職員代表とともに5人が無期限断食座り込みに突入した。 11月5日からは組合員133人全体が断食座り込みに合流した。一方座り込み場中央に大型太極旗を掲げると政府関係者が来て「太極旗は嬉しい時だけ掲げることになっているのに私的な問題で太極旗を使えば法にかかわる」と「君達は独立運動家か」と冷やかしとともに太極旗を取り除く事件が起こりもした。
断食10日目が超えると組合員が倒れ始めた。 この時大学をたった今卒業して入社して日本で研修を受けた14人が帰国して断食座り込みに参加することで士気はまた高まった。 しかし会社側の態度は変わらなかった。NWAは交渉を全面拒否したまま運航中断措置を11月末から12月末までに延長する一方、座り込みを中断すればすぐに賃金を出すと懐柔した。
賃金を全くもらうことができないまま闘争を続けてきたが12月に入ってストライキ離脱者が一人二人でると座り込み団は決断を下した。 労組は12月18日会社側と△KSC職員を1988年末まで段階的に全員吸収△賃金は17~25%引き上げ(下厚上薄)に合意してストライキを終了した。 また会社はストライキ闘争を理由に報復しないと約束して、1次ストライキ期間賃金も支給することにした。 再ストライキに入った主要原因だった業務区分明示化は遂に成り立たなかった。
ノースウェスト航空労働者の闘争は外国企業の慣行のようになっていた高圧的で一方的な労務管理に一撃を放つことで社会的に大きい影響を及ぼした。
一方ノースウェスト航空を始めとしたシティ銀行、フレアファッションなど40あまりの外国投資企業労組は以後1988年12月11日に全国外国企業労働組合協議会を結成して組織的な権利保障闘争に乗り出した。
注
1 NWAは1926年設立、2010年デルタ航空に合併された米国航空会社。
2 KSCは1975年7人の警備専門用役業者として出発、1987年に職員が2千人ほどに増えて新韓銀行、東西食品、駐韓米大使館の警備用役を引き受けた。 社長のファン・ホンシンは陸軍予備役所長出身でNWA韓国支店長を務めたことがある。
朝鮮半島通信
▲朝鮮中央通信は9月3日、金正恩総書記が北中機械連合企業所と重要軍需工場を現地指導した、と報道した。
▲韓国政府は9月7日、初の日本で発行する円建て債・円建外債を起債した。
【訂正とおわび】かけはし前号(9月11日号)4面沖縄報告「関東大震災の秋田・三重・沖縄出身者が殺された検見川事件」の殺された人の名前、「真弓次郎」を「真弓二郎」に、「儀間次郎」を「儀間次助」にそれぞれ訂正し、おわびします。
9月18日号、8面「韓国はいま」で、
寄稿 イ・ファンミ(労働者歴史ハンナ企画局長)、(労働者歴史『ハンナ』の紹介)、労働者歴史『ハンナ』をそれぞれ「ハンネ」に訂正します。(編集部)
The KAKEHASHI
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