悪辣な政権に対し、1990年3月には放送労働者が立ち向かった
全国ゼネストの発端となったKBS放送制作拒否闘争
イ・ファンミ(労働者歴史ハンネ企画局長)
政権のマスコミ掌握陰謀が招いた闘争
尹錫悦政権が初めてではない。政権が変わるたびに「公共放送支配」論争は繰り返される。偏向性論争→社長交代→放送掌握」の悪循環はすべての政権で続いている。
盧泰愚政権は発足直後、特別監査カードを通じてKBSに手を差し伸べた。1990年3月、維新政府の青瓦台の広報担当を務めたソ・ギウォンを社長に任命したのだ。KBS労働組合は「政権の忠犬が再びKBSの社長になることはできない」という立場を発表し、ゼネスト闘争を展開した。
盧泰愚政権はしっかりとマスコミを支配し、支配イデオロギーを構築してきた。 特に後に行われる地方選挙(1991年)と大統領選挙(1992年)において権力を再び掌握するための基地としてマスコミを道具化していた。1989年の安企部と警察による「ハンギョレ新聞」編集局の強制捜査、「京郷新聞」組合幹部5人の強制解雇に続くKBSの組合破壊の試みもその延長線上にあった。これは、盧泰愚政権が1989年初めに発足し、放送構造改編を推進していた「放送制度研究委員会」が1990年4月に出した最終報告書に「財閥などへの民営放送許可」と「MBC民営化」などの内容が含まれていることからも分かる。
このような状況は、ストライキ闘争を後押しした。1989年初めから進められてきた政権の放送乗っ取り陰謀に対する不満が深まったのだ。放送労働者を屈服させようとする行為に対する不満も爆発した。さらに、闘争現場に公権力まで投入することで、放送局と放送人の自尊心を完全に踏みにじられた。怒ったKBS労働者は闘争に乗り出した。
闘争開始の際の具体的な目標は、盧泰愚が任命したソ・ギウォン社長の退陣であったが、本質的な目標は、マスコミ掌握陰謀に立ち向かう全民衆の民主言論守護闘争であった。
ソ・ギウォン退陣から民主報道の擁護へ
1988年5月に組合を結成したKBSの労働者たちは、放送民主化運動を具体化していった。KBS労組は1989年3月に「光州は語る」を制作・放送し、「朝鮮大学生イ・チョルギュ死亡事件」に対する国会真相調査特別委員会の活動の生中継を要求し、断食座り込みまで行った。危機感を感じた盧泰愚政権はナイフを抜いた。
検察は1990年1月、芸能PD6人を背任収賄容疑で拘束し、放送人の倫理性に致命傷を与えた事件が発生した。当該PDたちはその後、検察によるつるはしによる殴打、ウサギ跳びの強要などの過酷な捜査によって、公訴事実が操作されたと暴露した。
2月には、監査院がKBS職員に支給した正当な法定手当を「予算変則支出」と決めつけた。 この事件は、政権の意向を受けたマスコミの歪曲報道で、KBSが労使合作で34億ウォンを横領したかのように世間に広まった。
これを口実に政権は、放送民主化に好意的だったソ・ヨンフン社長に圧迫を加えた。ソ・ヨンフン社長は結局、3月2日付で辞任し、ソウル新聞のソ・ギウォンが落下傘人事によって社長に就任した。ソ・ギウォンは、1989年のソウル新聞労組のストライキに強硬な態度を取った人物でもある。KBSでは新社長の就任とともに、軍事政権時代の統制放送に回帰しようとする動きがあちこちで見られた。
労働組合は2月29日、「KBSに対する陰謀工作を糾弾する」という声明を発表し、本社民主広場で組合員緊急総会を開き、「KBS非常対策委員会」を組織した。続いて、ソ・ヨンフン社長の辞表が受理された3月2日から徹夜の座り込みに突入した。組合は毎日、非常総会、闘争報告大会とともに、非常代議員大会、部署・支部・分会別討論を継続した。連日1000人余りの組合員が闘争に参加した。3月6日にはマスコミ労連所属の組合員800人余りがプレスセンター前で集会を開き、市内10カ所で大衆宣伝戦を行った。翌日、無所属のイ・チョル国会議員が「KBS事態の真相報告書」を通じて、ソ・ヨンフン社長退任前の政府の外圧と安保部の介入疑惑を提起した。 しかし、「ハンギョレ」と一部の地方紙を除くすべての中央メディアは報道を行わず、無視した。
闘争がやや小康状態に入った4月3日、理事会による3回目の投票の結果、ソ・ギウォンが社長に任命されたというニュースが伝えられた。組合は「KBS非常対策委員会と執行委員会の連席会議」を開き、座り込みを拡大した。4月4日、「ソ・ギウォン社長就任拒否全社員署名」を皮切りに、社長の出勤阻止闘争を展開した。徹夜座り込み41日目の4月11日、ソ・ギウォンが警察50人と幹部職員100人の護衛のもと、社長室への奇襲進入を試みたが、組合員によって阻止された。
公権力投入で闘争拡大
4月12日、ソ・ギウォンは再び警察と幹部職員の護衛を受け、地下道のエレベーターから社長室に奇襲進入した。社長の出勤を阻止していた6階の組合員らは殴打され、6階から玄関前までトンネルを作り、組合員117人を強制連行した。組合員たちが強制連行された直後、第2会議室で100人の警護する中、社長就任式が行われた。
4月13日、4000人余りの組合員が集まって「全国非常社員総会」が開催された。南ハンガン研修院で研修中だった11期社員70人余りも研修を中断して参加した。総会の最中も護衛220人余りが5―6階に常駐していたが、組合員たちは経営陣の退陣まで無期限制作拒否と座り込み闘争を行うことを決議した。教養局、企画制作局、ラジオ局など送出技術部を除く制作者全員が同日午後6時を境に制作拒否を決議し、1000人余りが徹夜の座り込みを開始した。
ストライキによって「KBS9時ニュース」は4月12日から臨時スタジオで放送された。当時9時ニュースのアンカーだったパク・ソンボム報道本部長が社員のストライキ報道要求を無視すると、組合員がスタジオに入り抗議したため、9時ニュースはクロージングもできないまま12分で終了したこともあった。
4月17日には取締役2人が「ソ・ギウォン社長の任命提案は外圧によるものだ」と暴露した。平社員を中心に始まった闘争には、部長・次長まで参加し始めた。そして釜山と昌原の幹部級社員まで、社員の放送民主化のための努力に全面的な支持を表明した。社長の運転手は運転を拒否し、社長秘書室の職員17人も勤務を拒否した。出勤阻止闘争は22日まで続いた。22日、「放送民主化争奪と4・19記念短縮マラソン大会」が開かれる一方、CBS労組も同盟制作拒否を決議した。
4月23日、KBS事態に対する政府談話が発表されたが、それは事態の本質を無視・誤魔化す内容であった。全国非常対策委員会(非対委)は午後からソ・ギウォン社長とチェ・ビョンリョル公報処長官の退陣を求め、無期限徹夜ストに突入した。CBSの労働組合も同調して徹夜ストに入った。マスコミ労連は52社のマスコミ社執行委員会を緊急招集し、積極的な連帯闘争を決議し、執行部の徹夜闘争を開始した。4月24日にはKBS記者たちが緊急記者総会を開き、自ら特集を制作・放送することを決議した。タレント300人余りも闘争を支持する決議を発表した。
4月25日、警察が非対委委員11人に対する出席要求書を出したが、全従業員の団結をさらに強固にすることと経営陣退陣方針に変わりがないことを確認した。事態解決のための対話努力も並行し、放送正常化など局面転換は政府の対応によって判断することを最終決定し、全社員の緊急総会に報告した。
4月27日、KBS部長団が放送正常化の即時実施、社員の要求貫徹、公権力の再使用不許可などを盛り込んだ決議文を発表し、幹部職員らも全面的に同調した。同日、放送作家115人までが声明を出し、KBS社員の闘争を積極的に支持する中、公権力再投入説が出始めた。
政権の策略「先行放送正常化」圧倒的否決
4月28日、KBS本館周辺に1800人余りの警察兵力が配置された。ソ・ギウォンとパク・ソンボムはずっと社内で動向を注視していた。チェ・ビョンリョル公報処長官が「4月28日午後2時までに放送と社内秩序を正常化しなければ、必要なすべての措置を講じる」と通告したため、公権力投入が迫っていることが明らかであった。このような中、KBS/PDたちは経営陣が退陣しない場合、連帯して辞表を提出することを決議した。
そんな中、この日、キム・ヨンガプ元総務処長官と委員会が会談を行った。会談の結果、「5月14日までにソ・ギウォンを辞任させるという前提で、4月28日付で座り込みを解除し、4月30日から放送を正常化する」とし、この事項を4月30日午後2時の社員総会で承認することにした。キム・ヨンガプは実質的な権限もないのに協議に臨み、策略を働いたのだ。4月30日、委員会が上程したキム・ヨンガプ案(放送正常化)に対して、3000人余りが参加した全国社員総会において2408人が反対し、圧倒的多数で否決された。
盧泰愚政権は、自分たちの工作が圧倒的な票差で挫折すると、わずか2時間後にKBSに公権力を投入した。全労協が宣言したゼネストを1日前に控えた状況で、闘争の拡大を遮断するための策略でもあった。同日夜11時15分頃、19個中隊3000人余りの兵力が本館に突入し、座り込んでいた組合員333人を強制連行(7人拘束)した。
これにより、民主広場の座り込みと闘争は事実上終結した。しかし、KBS労働者たちは公権力投入が迫る最後の瞬間にも、政府の欺瞞的な「放送正常化案」を否決させた。これにより、MBC、CBSをはじめとする全メディア界に闘争を広げる起爆剤となり、5月の全国ゼネスト闘争の土台を形成した。
放送3社連帯制作拒否闘争
警察兵力がKBSを完全に支配し、集結しようとした明洞聖堂まで封鎖されると、組合員たちはMBCに移動した。
5月1日、全労協所属のソウル地下鉄労組がKBSの公権力投入に抗議して無賃乗車闘争を展開するなど、全国各地でゼネストと労働節闘争が激しく行われた。MBC労組は全面的な制作拒否に突入した。1時期限を5月6日夜までとし、19の地方MBCも非対委の決議により制作拒否に入った。4月23日から無期限徹夜座り込みをしていたCBS労組も同日、制作拒否に突入し、通常放送を中断して音楽だけを流し始めた。同日午後、KBS組合員1000人余りはMBC内の「民主の地」広場で「公権力再投入糾弾及び放送同志連帯出陣式」を行った。歴史的な放送労組の連帯闘争が本格的に始まったのだ。
KBSの委員会は2日から、本部をMBC労組事務所に移して共闘体制に入った。5月2日にも「拘束同志の釈放要請と盧泰愚政権糾弾大会」など連帯集会が続いた。MBC経営陣は両社の連帯闘争を阻止するため、5月4日からKBS社員のMBCへの出入りを封鎖した。警察はこの夜、100人余りの兵力をMBC労組事務所に投入し、チョン・ヨンイルKBS非対委委員を強制連行した。これに対し、全国のMBC社員は5月5日が祝日にもかかわらず、糾弾集会を開催した。そして報道の自由を抹殺しようとする盧泰愚政権に対抗するため、さらに強力な闘争を誓った。 しかし、MBCの委員会は5月6日午後3時に対策会議を開き、6時間にわたる激論の末、「とりあえず予定通り7日午前0時を境に制作に復帰し、より強力な番組制作闘争を展開する」ことを決定した。これにより、連帯制作拒否闘争は6日ぶりに一段落した。
一方、5月4日、キム・チュソク新任非対委委員長を中心に組織を再整備したKBS社員たちは、MBC労組事務所に「亡命政府」を設置し、5月18日の制作復帰に至るまで、「マスコミ民主化と国民の放送のための国民ウォーキング大会」(5月12日)、「ソ・ギウォン退陣100万人署名運動」(5月14日)、「全社員大同制のための民主広場奪還闘争」(5月17日)などを粘り強く継続した。
KBSの公権力投入をきっかけに史上初の放送社連帯制作拒否闘争を展開したが、事前に準備できなかった闘争の限界も明らかになった。MBC労組は制作拒否期限の延長問題をめぐって意見が対立し、委員会の分裂と執行部の総辞職につながった。
事務専門労働者、「盧泰愚打倒」を叫ぶ
放送4社が放送史上初の連帯制作拒否に突入したにもかかわらず、盧泰愚政権は7月14日、国会本会議で放送関連3つの悪法を通過させた。しかし、この過程で議会民主主義を抹殺した反民主的横暴が赤裸々に露呈し、3党共闘の本質を国民に認識させるきっかけとなった。放送関連法の通過で野党議員が議員職を辞任する事態にまで発展した。
多数の毒素条項を含む公報部の放送構造改編案が発表された直後から、KBS労組はMBC、CBS、PBCなどと共同で「放送法改悪共同対策委員会」を結成した。その後、放送4社は全労協、国民連合、野党、在野団体とともに、政権の放送構造改編の不当性を知らせ、世論の批判的な雰囲気の拡散を図った。
KBS闘争は、盧泰愚政権が造成した公安局の中で、民族民主運動陣営と労働運動陣営が再び立ち上がるきっかけを作った。また、国民に盧泰愚政権の放送乗っ取り陰謀を暴露することで、国民的運動を呼び起こしたという点で大きな意味がある。KBS闘争をきっかけに発足した業種別労働組合会議が開催した「KBS労働組合弾圧糾弾大会」で、1987年以来初めて、組織化された事務専門職労働者が「盧泰愚政権打倒」を叫んだ。
参考資料
- KBS労働組合、『KBS 1990年4月放送民主化闘争白書』(1991)
- 全国労働組合協議会白書発刊委員会、全労協白書3巻『全労協の旗の下の総進軍(1990)』(2003)
1990年4月16日KBS本館(提供:労働者歴史『ハンネ』)
朝鮮半島通信
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