1988年第1回全国労働者大会

血で書いた「労働者解放」

イ・ファンミ(労働者歴史『ハンネ』企画局長)

団結と連帯の象徴―労働者が作り上げた伝統

 「11月13日!全国の労働者兄弟が夜を徹して、続々と到着した。1万人に膨れ上がった隊伍が、延世大学の野外劇場において、1千万人の労働者の苦難と恥辱の象徴である現行の労働悪法の完全撤廃を宣言した。大会に続き、独裁政権と独占資本のどんな妨害策動にも屈することなく、必ず汝矣島国会議事堂まで進軍することを誓う先鋒隊長の宣誓と30人余りの労働者兄弟の血書で幕を開けた平和大行進は、2時間余りにわたって「打倒民政党」「解体全経連」「労働悪法即時撤廃」というスローガンとともに、団結した全国労働者の一糸乱れぬものであった。その後5万人に膨れ上がった大衆は、警察の卑劣な妨害工作を粉砕し、汝矣島国会議事堂まで進撃した。その後亡国の民政党と全国経済人連合会を糾弾する労働者の闘争決意は、独占財閥と独裁の巣窟である汝矣島を揺るがした」(「全国労働法改正闘争経過報告文」より)。
 1988年11月12日の夜から、延世大学校は労働者の隊列と叫び声でいっぱいになった。キャンパスは一面労働者の旗で覆われ、野外劇場は足の踏み場もなかった。そこに立つ労働者の胸は揺れ動いた。爆発しそうな熱気は、翌日も街中に広がっていた。労働者たちは大声でスローガンを叫びながら汝矣島まで行進した。全国労働者大会は、1988年の労働法改正闘争をきっかけに始まった。それ以来、毎年11月、全泰壱烈士の命日に1年間の闘争を集約する全国労働者大会が労働者自身の伝統として組織された。全国労働者大会は、労働者の要求を明確な闘争目標とし、組織的にも一段階発展するきっかけとなる団結と連帯の象徴であった。全国労働者大会は労働者の祭りであり、闘争の場でもあった。

1987年改正法、労働者の団結・闘争の制限深刻

 1987年を経験した労働者たちは、7、8、9月大闘争の力を1988年の賃金引き上げ闘争と労働法改正闘争につなげようとした。そして組合は日常的な交流を強化し、連帯を通じて地域労働組合協議会を組織し、組合弾圧阻止闘争を展開した。1988年上半期の賃金引き上げ闘争が半ばを超え、労働法改正闘争の必要性が本格的に提起された。5月1日、延世大学で開かれた「世界労働者の日記念労働3権獲得首都圏労働者大会」はその始まりだった。1987年11月に改正された労働法は、7・8月の大闘争の影響で、労働組合設立や労働争議の条件を多少緩和したが、依然として労働者の団結と闘争を厳しく制限した。実際、1988年に入って10月18日まで発生した労働争議1657件の81・1%に達する1343件が脱法争議によって行われた。労働者たちは3~4月の賃上げ闘争の初期には法的手続きを意識したが、資本家との力比べが激化して闘争が拡大するにつれ、法律を守ることはほとんど不可能と悟った。5月に入ると警告状発行、連行・拘束など労働者弾圧が急増した。ついに労働者たちは、賃上げや組合弾圧など当面の直接的な問題を掲げた闘いを超えて、弾圧の手段である労働法改正闘争にまで踏み込まなければならないことに気づいた。そして労働法改正闘争のための本格的な準備が開始した。

全国闘本を結成し労働法改正闘争を本格化

 1988年10月6日、全国労働法改正闘争本部(全国闘本)が結成された。大田で開かれた「労働法改正全国労働組合特別委員会」と全国労働運動団体協議会の「労働法改正特別委員会」が参加した「第3回労働法改正全国代表者会議」は、「全国闘本の構成」とともに「11月13日、ソウルで全泰壱烈士の精神を継承する労働悪法改正全国労働者大会の開催」を決定する。そのほか、労働法改正のために△10月9日から全国的な署名運動△登山大会・雄弁大会・決議大会などの集会△定期国会中の野党3党総裁との懇談会主催△諸般の反民主悪法改廃闘争のための政党・社会団体懇談会の推進などを決定した。決定に基づき、1988年10月9日、3つの地域で「労働法改正闘争のための全国労働者登山大会」を行った。1万人余りの労働者が首都圏は北漢山、嶺南圏は華王山、中部湖南圏は大屯山に登った。午前登山に続いて午後2時、3つの地域で同時に「労働法改正のための全国労働者決議大会」と「署名運動出陣式」を続けて開催し、大会の統一性を高めた。当時、登山大会の広報のためにポスター3500枚、ステッカーとチラシ各1万枚を全国に配布し、地域別に横断幕を作成して掲げた。頂上から叫んだ「労働悪法改正」「労働三権獲得」の声は全国に響き渡った。登山大会は圏域を単位として全国の闘争を結びつける役割を果たした。この日から全国的な署名運動に突入し、労働法改正のための大衆闘争が始まった。署名運動は11月13日の全国労働者大会と21日に集中し、10万人の署名を突破するという驚くべき成果をあげた。

大衆闘争の幕開けー全国労働者大会の開催を決定

 登山大会を成功裏に終えた全国闘本は、労働法改正を目標に全国労働者大会の組織化過程を一歩一歩進めていった。10月20日には、労働悪法改廃闘争を全体民主勢力の要求である「国家保安法など諸般の反民主悪法撤廃闘争」との結合が行われ、全民衆的な闘争戦線の創出のための「反民主悪法改廃闘争のための政党・社会団体連席会議」が開かれ、声明の採択後に実務チームが組織された。全国闘本は10月28日、ソウルで代表者会議を開き、全国労働者大会の前夜祭と本大会の日程を確定した。また、11月13日以降の闘争方針と関連し、労働法改正に反対する政党・議員に対する集中対策、事業場別総会、集団退社などコンプライアンス闘争、時限ストなどの方向性が熱心に議論され、地域単位の議論が継続した。10月29日と30日に展開した労働法改正と労働運動弾圧粉砕闘争には全国で5千人余りが参加した。11月2日午後6時30分には、「労働悪法改正、労働組合弾圧阻止を求める大会」を行った西労協所属組合の代表者60人余りが、野党3党である平和民主党(平民党・金大中総裁)、統一民主党(民主党・金泳三総裁)、新民主共和党(共和党・金鍾泌総裁)の党舎を回り、断食座り込みを行った。翌日、仁労協所属組合の代表者12人が座り込みに加わった。 そして11月4日、座り込みを解除し、組合員2500人余りが参加した行進と集会は、汝矣島の夜を労働者のスローガンと歌で最高潮に達した。

前夜祭、夜明けまで全国から参加行進が続いた

 1988年全国労働者大会は11月12日夜、延世大学での前夜祭で幕を開けた。夕方8時、「全泰壱労働賞」第1回受賞者はクォン・ヨンモクだったが、現代エンジン闘争で拘束中だったため、父親のクォン・チュホンが代わりに受賞した。夜11時には組合員2千人余りが参加した中、「全泰壱烈士の精神継承、労働悪法改正全国労働者雄弁大会」が開かれ、ソウル、仁川、釜山、蔚山、富川、全北など全国から選抜された9人の演者が参加し、仁川日雇い労働組合所属のハ・ジェホが1位「労働者解放賞」を受賞した。翌日の午前2時には先鋒隊の発隊式が行われた。地方から上京した隊員は続々と到着していた。午前3時頃には馬山・昌原地区から800人余り、午前7時頃には現代重工業組合員600人余りなど、全国各地から労働者・学生が続々と延世大に集結した。一方、夜11時から全国労働組合代表者会議が行われ、全国100余りの事業場の組合委員長と20人余りの労働運動団体の代表が参加し、11月13日の大会戦術と闘争方針を確定した。

本大会、5万人余りが一声「悪法撤廃」

 11月30日午前10時、徹夜し、あるいは夜明けに到着した5千人余りの組合員は疲労の様子もなく、事前決議大会として開かれた「労組弾圧粉砕全国労働者大会」に参加した。
 午後1時から「全泰壱烈士精神継承労働悪法改正全国労働者大会」本大会が始まった。入場式だけで1時間以上かかるほど多くの参加者が延世大学野外劇場を埋め尽くした。4万人の組合員は一丸となって「労働悪法を撤廃して労働者解放を早めよう」などのスローガンを叫び、2時間にわたる集会を続けた。集会を終えると、「労働者解放」と書かれた血書を前に掲げ、汝矣島に向かって行進を開始した。午後3時30分から始まった行進は、「民主主義の獲得」「労働運動を弾圧する軍部独裁を終わらせよう」「全斗煥を拘束し、盧泰愚を退陣させよう」「全経連を解体し、民政党を打倒しよう」などのスローガンを叫びながら、汝矣島国会議事堂まで2時間続いた。午後6時、国会議事堂前で開かれた「亡国民政党糾弾および労働悪法改正を求める大会」にはさらに大勢が集まり、5万人を超えた。午後8時には全経連前で「労働悪法改正に反対する独占財閥糾弾大会」が各団体別に開かれた。圧倒的な規模に圧倒され、大会中、手も足も出せなかった警察は、帰宅する労働者の後方から攻撃した。白骨団の暴行に労働者たちは永登浦駅前で激しい街頭闘争で対抗した。

500人余りの民主党社屋での座り込み闘争

 1988年の全国労働者大会は労働者に確かな自信と闘争熱を吹き込んだ。全国労働者大会を終えた直後、勢いに乗って、馬山・昌原・晋州など嶺南圏の組合委員長を中心に24人が民主党社での座り込みに突入した。全国闘本は11月15日、緊急代表者会議を開き、野党3党に「妥協なく労働法改正案を貫徹せよ」と要請した。22日には全国の労働組合・労働運動団体の代表者50人余りが集まり、△全国先鋒隊500人民主党社屋での座り込み△12月1~3日、事業場別総会を経てコンプライアンス闘争△12月3日、全国同時報告大会△12月3日以降、労働法改正闘争評価と討論会などを幅広く組織することを決議した。
 実際に11月28日、500人余りで構成された「全国労働法改正闘争先鋒隊」をはじめ、全国労運協の代表らが座り込みに参加した。同代表らは△翌日午前7時から党務完全封鎖△総裁面会△記者会見△党社前での座り込みと大衆広報の実施を決定した。続いて翌日の記者会見で代表らは、労働法改正に対する民主党の明確な党の方針を明らかにするよう、改めて要求した。
 これに民主党は暴力で答えた。11月29日に青年党員による暴力が行われると、代表らは党総裁の公式謝罪と暴力当事者の処罰を要求した。暴力は翌日も続き、青年党員は2度も座り込みに乱入して暴力を行使した。そのような状況の下でも粘り強く座り込み闘争を続けた結果、座り込み5日目の12月1日に金泳三総裁との面会が実現した。そして金泳三が△暴力行為への謝罪と被害補償△「労働組合法3条5号の完全削除」「上級団体複数組合の許容」党論提示△12月5日までの法案上程などを約束したため、座り込み隊は解散式を行った。

自信を得た労働者階級、全国的な結集開始

 この時期まで労働運動内で労働者の生存権と労働運動の発展を抑圧してきた労働法を改正しようとする努力は無数に展開されたが、ほとんど国会請願レベルから抜け出せず、制度改善運動にとどまっていた。しかし、全国労働者大会を頂点として着実に進められた1988年の労働法改正闘争は、様々な面で以前とは違った。1988年の労働法改正闘争は、法条項の改正には失敗したが、意識・組織的な面で多くの成果を残した。11月13日の全国労働者大会を通じて「全国の労働者は一つ」という労働者の意識と連帯闘争の重要性を明確に認識したことが何より重要である。これにより全国の労働者は、その後の闘争を続ける自信を得、共同要求である労働法改正闘争を通じて団結した力の偉大さを実感したのである。こうして始まった全国労働者大会は、毎年同じ時期に1年間の闘争を集約する労働者の伝統として定着した。意識的な成果を獲得し、そして組織的には全国のすべての労働者組織が総集結した全国闘本を立ち上げることで、労働者階級闘争の組織的中心を作り出すという成果をあげた。民主労組運動は組織的な次元において開始段階に入りつつあり、それは団結した力で闘うときに可能であることを、労働者は自ら証明した。このような組織的覚醒は、その後の全労協の建設につながっていった。

「労働者解放」の血書を掲げて延世大学から汝矣島まで行進する労働者(労働者歴史『ハンネ』)

朝鮮半島通信

▲朝鮮中央通信は11月25日、金正恩総書記が国家航空宇宙技術総局の平壌総合管制所を訪問し、偵察衛星の運用準備状態を点検し、24日に撮影された航空宇宙写真を目視したと報道した。
▲金正恩総書記が11月26日、龍城機械連合企業所を現地指導した。
▲朝鮮で11月26日、道、市、郡の人民会議の代議員選挙が実施され、金正恩総書記が選挙に参加した。
▲朝鮮中央通信は11月28日、金正恩総書記が27日と28日、国家航空宇宙技術総局の平壌総合管制所から偵察衛星の運用準備について報告を受けたと報道した。

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