5月のカレンダー「勤労感謝の日」(上)
イ・ファンミ(労働者歴史「ハンネ」企画局長)
全世界の労働者のメーデー
最初の世界労働節闘争は1890年5月1日だ。アメリカで1886年5月1日から「1日8時間労働」を要求してストライキ闘争を繰り広げた労働者たちが、鎮圧警察の銃撃を受けて死亡した。この日を記念して、第2インターナショナルは1890年5月1日を「世界労働者階級の国際的なデモ・闘争の日」と定めた。その日、すべての国、すべての都市で同時に「1日8時間労働」を要求するデモを行うことにした。世界労働者の日、メーデー闘争はこうして始まった。
日本統治時代の朝鮮でも、過酷な労働現実に直面して労働者たちが自ら闘争に乗り出した。1920年代初頭から第一次世界大戦を通じて莫大な利益を蓄積した日本の独占資本が朝鮮に進出するにつれて、労働者が急増していた。労働者たちは朝鮮労働共済会(1920年)、朝鮮労働連盟会(1922年)などを経て、朝鮮労農総同盟(1924年)を結成した。自主的な組織を結成した労働者階級のストライキ闘争として、1920~1925年の間、労働者階級のストライキ闘争が相次いだ。
労働者たちは1920年からメーデーを祝うようになった。日帝の封鎖がひどく、記念式を行えない場合は、同盟ストライキやデモ、行進、檄文散布、講演会など様々な形でメーデーを記念した。1923年には、メーデー記念行事が日帝の封鎖で中止されると、ソウル中央キリスト教青年会館で講演会を開き、2000人余りが集まった。 日帝の監視と弾圧はますます強化されたが、労働者たちは全国各地でストライキ闘争と記念行事を行った。メーデー闘争で毎年無数の労働者が負傷し、逮捕され、拘束された。そうすればするほど、メーデー闘争は労働者だけでなく、朝鮮民衆全体の行事に拡大し、民族解放運動の重要な部分として定着した。 そして1945年、解放を迎えた。
解放後の全評の発足、そして1946年の最初の労働節
日帝が撤退すると米軍が入った。 日本がアメリカに変わっただけで、労働者の苦しい生活は変わらなかった。労働者たちは、より組織的な力が必要であることに気づき、組織的に団結し始めた。
ついに1945年、朝鮮労働組合全国評議会(全評)が発足した。全評は講座や教育などを配置し、発足後初の労働節を綿密に準備した。解放後初めて迎えた1946年のメーデーは、自由と平和への期待に満ちていた。全評が5月1日、朝鮮共産党、京城地方評議会と共同主催でソウル運動場野球場にて行ったメーデー記念式には20万人が参加した。ソウルだけでなく、仁川、富川、堤川、大邱、大田、三陟、白川、利川、春川など全国で記念式典が開かれた。この日の闘争で労働者の団結と階級意識はさらに高められた。
一方、大韓独立促進労働総連盟(大韓労働総連盟)は1946年3月10日に発足した。当時、労働者の絶対的な支持を受けた全評を崩すため、李承晩など新しい支配勢力と資本家が急造した団体だ。大韓労働組合は「私たちは血汗不惜(血と汗を惜しまない)で労資間の親善を期す」という綱領を掲げた。大韓労働組合は以後、この綱領を忠実に履行した。労働者を踏みにじり、国家権力の労働統制、資本の労務管理の役割を果たした。 その見返りに大韓労働組合の指導部は政治的出世を保証された。
1946年9月と1947年3月に全評の全国ゼネストが起こった。米軍はストライキを破壊し、鎮圧の過程で死者まで発生し、数百人が負傷し、数千人が検挙され、全評組合員は解雇された。
米軍政庁の暴圧的な弾圧で労働運動は萎縮した。1947年の労働節記念式は、日帝強占期と同様、当局と警察の目を避けて奇襲デモの形式をとった。それでもソウルの南山には30万人が集まった。清州では数万人が十五回も奇襲デモを行い、夜には山の上で松明を上げて万歳を歌った。慶州、光陽、長興、順天、潭陽、鉱山、羅州などでは警察と衝突し、数十人の死傷者が発生した。労働者たちは解雇とテロに悩まされながらも、労働節闘争を展開することで、農民、市民、青年、学生、知識人の支持と参加を引き出した。 同年、大韓労働組合は米軍政の絶対的な支持の中で組織を拡大していった。労働節にはソウル運動場で李承晩の祝辞を聞きながら記念式典を行った。
1948年、韓国単独の憲法国会構成のための国会議員総選挙(5月10日)を10日前に控えた中、米軍政は全評のメーデー集会を不許可にした。大韓労働組合だけがソウル運動場で「単独選挙支持」を叫び、労働節記念式を行った。8月15日、大韓民国政府が樹立されると、李承晩は全評を違法と規定し、自ら大韓労働組合総裁を務めた。この時から大韓労働組合は李承晩の政治的動員部隊として忠犬を装った。
1959年から「メーデー」ではなく「労働節」
韓国単独政府を樹立した1948年から1957年まで大韓労働組合がメーデー記念行事を主管した。大韓労働組合内部の派閥争いが激しかった1949年と韓国戦争の時期である1951~1952年を除き、毎年盛大に李承晩崇拝イベントを行った。
休戦の議論が交わされた1953年の労働節には、大韓労働組合の幹部だけが参加した記念式で「北進統一なしには労働者の生きる道もない」という決議文を採択した。「北進統一」決議文は1955年まで労働節のたびに採択された。1956年には第3代大統領・副大統領選挙(5月15日)を控えた労働節に「今回の選挙で労働者の恩人である李承晩博士を絶対支持する」と決議した。忠実な大韓労働組合の支持と、改憲などで1956年、李承晩は再び執権に成功した。
李承晩は1957年、「メーデーは共産怪盗党のプロパガンダの道具として利用されているので、反共産主義者である私たち大韓の労働者が祝える真の祝日が制定されるように」と大韓労働組合に労働節の日付変更を指示した。
大韓労働組合が新しい日付を定める根拠として、「労働者と関係があり、由来が深い日」、「春か秋で労働者が一つの祝日として楽しめる良い季節」、「国内行事と重複を避け、政治と関係なく純粋性を持つ労働節」という3つの原則を定めた。そうして自分たちの発足日である「3月10日」を新しい労働節として提案し、政府はすぐに承認した。
翌1959年3月10日、「第1回労働節記念大会」がソウル運動場で開かれた。記念式に出席した李承晩に向けて、大韓労働組合は「尊敬する閣下、今日は文字通り閣下が普段誰よりも大切にしてくださった労働者の祝祭日です。 (中略)今日、私たち労働者同志が一堂に会して(中略)喜びを分かち合うことができたのは、閣下が与えてくださった政治の賜物であることに感謝しないわけにはいきません」という内容の「李大統領に送るメッセージ」を採択した。
大韓労総は国際自由労働者連盟の事務総長にメッセージを送り、労働節の日付を変えた理由をこう説明した。「過去、5月1日のメーデーを慶祝記念してきましたが、これは赤色共産主義国家間で共通して記念される日であり、自由と平和を愛する大韓の労働者代表は、暴圧的で残酷な共産党と同じ日に一緒に楽しむことはできないという意図のもと、(中略)大韓の真の民主的労働者が共産党と全評を打倒し、民主的な大韓労働者の総集結体である大韓労働総同盟を創立した3月10日を韓国の労働節として祝い、記念することにしました」。
1963年「労働」が消えて「勤労者の日」へ
その後、大韓労働組合総連合は1960年11月、民主的な労働組合運動を展開してきた「全国労働組合協議会(議長金末龍-大韓労働組合総連合脱退派)と統合して「韓国労働組合連盟」(韓国労連)を結成した。 しかし、1961年5・16軍事クーデターが勃発した。 クーデターで政権を握った朴正煕は5月23日、韓国労連を強制解散し、数百人の組合幹部と活動家を逮捕・拘留した。 そして8月30日、「労働組合を再組織化することに伴う政府側の立場」に基づき、韓国労働組合総連盟(韓国労総)を結成した。
(「労働者歴史「ハンネ」」より)
【次号ヘつづく】
朝鮮半島通信
▲金正恩総書記は5月5日、第5回全国分駐所長会議の参加者と記念写真を撮った。
▲金正恩総書記は5月8日、元朝鮮労働党中央委員会書記の故金己男氏を弔問した。
▲尹錫悦大統領は5月9日、「低出生対応企画省」(仮称)を新たに設置すると発表した。
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