「沖縄自治・自立論」再考

「経済的自立」と資本のグローバリゼーションをめぐって

平井 純一

論議を深めるべき方向性

沖縄の「自治・自立」をめぐる論議が、沖縄の反基地・反安保闘争の中で一つの重要なテーマになっている。私は、本紙三月二十五日号の小論(「沖縄自治・自立論を考える??『国民国家の枠組み』を侵食する『完全自治』への可能性」)の中で、「自治・自立」論が成立する背景について考えてみた。
 その文章で私は「平和と非武装をめざすことなくして『自立経済』の発展はないとする沖縄県の要求」を実現するために共に闘う必要があること、また「自立的経済発展の要求がそれ自体としてはブルジョア的なものであり、開発にともなう環境破壊や、貧富の差の拡大などの社会的諸矛盾を生み出すこと、あるいは資本によるアジアにおける権益確保のための競争の出撃拠点となることにわれわれはもちろん自覚的でなければならない」が、「それを理由にヤマト国家からの『沖縄自立』の要求に留保条件を付すことは誤りである」ことを訴えた。
 また、「沖縄の民衆が自覚的に選択しはじめたヤマトからの『自立』が資本主義の成長センターとしてのアジアに参入するブルジョア的『発展』の道となるのか、それとも……資本主義体制の打破への道となるのかは、『成長するアジア』が不可避的に生み出す中国、台湾、フィリピン、ベトナムなどの若い労働者階級人民の闘い、そして日本の労働者階級人民の国際的闘いの展望と密接に連関している」「沖縄の闘いの帰すうはアジアの階級闘争、民衆運動の国境を超えた新しい結びつきにかかっている」と主張した。
 ふじいえいご氏は本紙五月二十日号の「沖縄六カ月闘争総括についての問題提起」の中で「『沖縄自立』を徹底的に承認すること、この方向性を推進する立場にさえ立つこと、全国組織であるならば沖縄地方組織の独自性を認めること。『沖縄自立による基地撤去』の方向の確立」を主張した。彼はまた「新しいアジア革命の展望をどのように示すか」が沖縄の闘争の今後にとって決定的である、と強調している。
 この点で、私はふじい氏の論点とほぼ同一の問題意識に立っている。その上で、この「自立」論を具体的なものにしていくためには、前号に掲載された沖縄の運動主体(とりわけ労働運動)の現状についての長井氏の冷静な批判的評価にふまえて方針をたてていく必要があるだろう。
 問われていることは「沖縄の自治・自立」という時、ムード的にではなく、運動主体のきわめて困難な現状を見据えつつ、どのような中長期的な展望と基盤のもとでそれを提起していくのかということである。

「政治的自立」と「地方主権」

 「自治・自立」論を構想していくとき、問題を二つの側面に分けることができる。第一は、いわば「政治的自治」にかかわるものである。それはたんなる現存の国家制度の下での行政的自治の拡大にとどまらず、主観的には国民国家的な中央統治体制を掘り崩す方向性を持った「地方主権」の主張である。
 「地方主権」には当然、国家の政策に対する拒否権もふくまれるだろう。そしてその主張は、独立主権国家の創設を意味する「沖縄独立」論ないしは「自決権」論とは異なった形で提起されている。この点は私が本紙三月二十五日号で引用した「キト宣言」(全文は『コロンブスと闘った人びと』大村書店刊所収)でも述べられている「国民国家の枠組み」の中での「完全自治」論と共通している。
 もちろんそれは既存の国家への「行政的自治」の拡充・積み上げと矛盾するものではない。しかし自治の拡充が、国家の政策と衝突し、住民自身の自治運動と結合して国家の統治機構を侵食していく力関係を形成していくとき、従来の「国家?地方自治体」の関係ではくくられない新しい局面が作りだされることになる。二〇一五年までの米軍基地全面返還を求める「アクションプログラム」が内包しているのは、住民自治の立場から「地方政府」が中央政府の軍事・外交政策を拒否し、その変更を強制する方向性である。
 それは「沖縄県」の「特別自治区」ないし「自治共和国」化と主権国家の「連邦」化をめざすベクトルであるが、世界的に見てもこの流れは拡大しており、二一世紀に向けた未来構想として意識的に目標とすることができるだろう。アイヌ民族の「特別自治区」要求もふくめて、ブルジョア日本国家の中央集権的編成原理を解体していこうとするこの方向は、われわれの社会主義的オルタナティブの中にも積極的に組み入れる必要がある。
 かつてわれわれが沖縄の「反帝労農自治政府」のスローガンを掲げたとき、それはベトナム革命を先頭とするアジア革命の中で沖縄と日本の革命を一体的に展望しようとするものであった。今日、そうした革命戦略を描きだすような状況は存在しない。「自治・自立」の制度化は、それ自体としては日本の帝国主義国家体制を打倒するものではない。しかし、現に沖縄民衆の反基地の闘いの中から一定の必然性をもって登場しつつある「自治・自立」要求の中から、日本国家に対する闘いの戦略を導き出そうとすることがわれわれに求められている。
 ここで「自治・自立」論と「独立」論との関係について付言すれば、一部の人々から発せられている「独立」スローガンも必ずしも「主権国家としての沖縄」を創設せよというものではないし、現実に沖縄内部からそうした「民族国家」要求がそれなりの広がりをもって提示されているわけではない。レーニン的な意味で言えば、「民族自決権」は「分離独立のすすめ」ではないし、われわれも今日の状況下で「独立沖縄国家」のスローガンが妥当性を持っているとは考えない。しかし「自治・自立」要求の中では一定の条件下で過渡的に「独立」が問題になる可能性があることをも、われわれは理解する必要がある。

「経済的自立」の国際的展望

 「自治・自立」の第二の側面は「経済的自立」である。沖縄の経済構造は、確かに復帰以前のような米軍基地への直接的依存の構造にはない。しかしそれに代わって、「基地周辺整備資金」や「特定防衛施設周辺整備調整交付金」(いわゆる“思いやり予算”をふくむ)、「国有提供施設等所在市町村助成交付金」といった米軍基地が存在するゆえの政府からのバラマキ資金、沖縄「復興開発」を名目にした巨額の政府支出によって経済が支えられているのである。
 沖縄経済は、米軍基地の存在がもたらす経済的マイナスを多額の政府支出によって補われながら、国家財政に依存する性格を深めている。「沖縄経済は五〇%の財政資金と、一七%の観光収入を主体とした構造になっていて、商品の輸移出による稼得は一四%にすぎない」(『経済』96年1月号、来間泰男「米軍基地と沖縄経済」)のである。
 復帰後の沖縄「復興開発」は、本土資本によるリゾート開発(ホテル、ビーチ、ゴルフ場の乱立)のための公共土木事業に資金を投入し、それがもたらす生活環境の汚染によって農漁業が破壊され、地場産業が衰退していくプロセスでもあった。この中で製造業への沖縄への移転も進まなかった。そしてバブル期に進められた観光開発も、現在ではホテル、リゾートビーチ、ゴルフ場の建設計画の多くが中途で放棄されている。
 確かに膨大な国家資金の投入によって、沖縄県の一人当たり所得は大きな上昇を見たが依然として全国で最低であり、失業率は最高である。こうした経済的困難の打開策として、沖縄県の「アクションプログラム」は、基地返還の跡地を足場として空港、国際リゾート、学術・文化交流拠点の建設による「成長するアジア」と結んだ「国際都市形成構想」を提起している。
 五月三十一日に沖縄県は「国際都市形成構想素案」を発表した(「沖縄タイムス」6月1日)。「素案」によれば県を「北部広域自然交響都市圏」、「中南部広域国際連担都市圏」、「宮古広域国際エコ・アイランド交流圏」、「八重山広域国際ネイチャー・アイランド交流圏」の四圏域に分け、「那覇一極集中の県土構造を是正し、中南部圏を核に相互に連携しあう自立ネットワーク型の県土構造」を目指すものだとされる。
 その「国際都市ネットワーク」構想では、日本、韓国、中国、台湾、ASEAN、太平洋島しょ国群、アメリカとの間の「平和交流」「経済・文化交流」の結節機能を沖縄が果たし、台湾や中国福建省との「蓬莱経済圏」構想が描かれている。また東南アジア地域への「人づくり協力」等のセンターとしても位置づけられている。「交通物流ネットワーク」は那覇、浦添、宜野湾に作られ、「臨空都市拠点」は嘉手納飛行場一帯に建設される。
 「構想」はこの間の沖縄「開発」の延長線上に、それをアジアに向けて飛躍的に発展させようとするものであろう。この点ではたとえば本土の日本海側自治体が構想する「環日本海経済圏」構想などと同一の発想に基づくものである。中国、ベトナムなどもふくめたアジア諸国との資本主義的・市場経済的成長との結合による沖縄経済の発展プランは、「経済的自立」にとって国際的展望が不可欠であることの現れである。

「新自由主義」と対決する闘い

 「自立」が閉鎖的な自給自足(アウタルキー)経済によって実現されるというのが反動的な幻想にすぎない以上、民衆の側からする「自治・自立」論もまたその国際的展望を構想しなければならない。この観点からして、われわれは沖縄県による「国際都市形成構想」をどのようにとらえるべきなのだろうか。
 おさえておく必要があるのは、このプランが資本のグローバリゼーションと新自由主義的な「発展」を前提にしたものであることである。多国籍資本の経済活動にとって妨げとなる一切の「規制」を撤廃し、「構造調整プログラム」を通じて第三世界諸国の政治体制を支配し、教育・福祉支出を削減し、労働者の諸権利を剥奪し、環境や民衆の生活様式を破壊して貧富の格差を拡大してきた市場原理万能の「新自由主義」政策が、この「構想」を結局のところ支配することにならざるをえないであろう。
 それは中国においても、フィリピンにおいても、ベトナムにおいても、他のASEAN諸国においても、労働者人民の抵抗と反乱を抑圧することによってのみ成立する「発展と開発」を意味する。資本力の乏しい沖縄の地元ブルジョアジーは、この開発プランの主役となることはできない。
 沖縄においても復帰後の、本土資本を中軸とした「開発」による環境・生活の破壊に対して、持続的な批判と抵抗の運動が少数の人々によって担われてきた。行政・資本の側からする「経済的自立」の名による「新自由主義」的な発展のベクトルに対して、労働者・民衆運動は、それに対決する中から自らの「自治・自立」の展望を獲得していかなければならない。
 一九九〇年の「キト宣言」は、「国民国家とその下にある社会を根底的に変革せねばならない」「現行の資本主義体制を打破し、あらゆる形態の社会的・文化的抑圧と搾取を一掃しないかぎり、自決権と完全な自治は獲得できない」と高らかに主張した。すなわち「革命なくして自治はない」という原則宣言である。
 今日行政サイドから語られる沖縄の「自立・自治」論は、ブルジョアジーの「経済的自立」の願望とないまぜになったものである。「基地の撤去」と資本主義的「経済自立」はワンセットで提示されている。しかし、「新自由主義」の枠組みと民衆的「自治・自立」の願望は必ずや全面的に衝突せざるをえない。
 たしかに今日の国際情勢は「キト宣言」の語る意味での「完全自治」の展望を極度に困難なものにしている。「現行の資本主義体制」を打破するような「自治」の主体を、実際の運動の中から築きあげようとすることは短期的・中期的には考えられない。
 しかし「新自由主義」経済の破壊的作用に対する部分的な「規制」という「現実主義的改革」案が成立しえない以上、「成長するアジア」が生み出さざるをえない労働者民衆の「新自由主義」に対する国際的抵抗の中に、真のオルタナティブを見いだす以外にない。
 そこでは帝国主義「本土」の労働者運動の再組織化が、核心的な任務となる。沖縄民衆の反基地・反安保の闘いと連帯し、日本国家からの沖縄の政治的な「自治・自立」を支援する闘いは、同時に資本主義的な「成長のアジア」の結節環としての沖縄の「経済的自立」構想から独立した「新しい道」の模索を必要とするのである。

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