貴重な海の環境をこわすな

沖縄報告 11月15日
辺野古だけではない! 陸にも海にも軍事施設つくるな

沖縄 K・S

11.8

「なぜ今、那覇軍港移設か?」講演会に80人

那覇にも浦添にも、どこにも軍港はいらない!

 一一月八日(日)午後、那覇市の真和志農協三階ホールで、浦添西海岸の未来を考える会主催の「みんなで学び・考え・行動しよう なぜ今、那覇軍港移設か?」が開かれ、雨の中、約八〇人が参加した。
はじめに、亀山統一琉大農学部助教授が二〇ページに及ぶ資料を基に講演した。

亀山助教授の講演要旨

 沖縄本島にはもうほとんどイノーは残っていない。(イノーとは沖縄の言葉で、サンゴ礁の端から陸地の間の浅い海、礁池・礁湖のこと。「海の畑」を意味し、魚貝類、海藻など海の幸を採集する場となってきた)。航空写真を見てほしい。軍港移設予定地の海は、唯一残存する自然の浅い海域であることが分かる。今残された数少ない自然の海を守り抜かなければ、沖縄の原風景は永遠に失われてしまう。キャンプ・キンザー地先のイノーは、学術的な価値はもちろん、観光・産業の資源となる潜在力は大きい。
浦添の軍港が造られたら、米軍が世界で起こす戦争の拠点になるだろう。また、軍港は浦添だけでなく沖縄全体の発展を阻害する。冷戦後の世界で進んだ米軍の削減は日本でだけ行われなかった。DMDC(Defense Manpower Data Center)発表の二〇一九年三月のデータによると、米本国外の駐留米軍数一七万三〇三二人の国別順位は、左記の通りだ。
日本が群を抜いて多い。沖縄の米軍は遠征のために駐留している。米国が自国の国益のために自由に基地を使い、経費の多くも日本が負担することこそ、米国にとっての「日米同盟」の必要理由だ。日米地位協定と密約で米国は日本・沖縄を勝手気ままに使い続けている。
辺野古新基地反対の一点で保革を越えて団結してきたことは沖縄の運動の財産だ。しかし、辺野古以外の基地問題に口をつぐむべきではない。二〇歳の女性暴行殺害に抗議して開かれた二〇一六年六月の県民大会では、海兵隊の撤退を要求した。那覇軍港・浦添軍港に疑問を持ち、NO!と言うのは当然の権利であり、次世代への責任でもある。

米本国外の米兵駐留数
DMDC 2019年3月発表
①日本   56,134
②ドイツ  35,116
③韓国   25,884
④イタリア 12,903
⑤イギリス  9,173
⑥グアム   6,321
⑦バーレーン 4,270
⑧スペイン  3,395
⑨クウェート 2,092
⑩トルコ   1,648

比嘉瑞己県議が報告

遊休化している軍港は
無条件で返還せよ!

 引き続いて比嘉瑞己県議が講演した。比嘉県議は、一九七四年日米両政府が移設条件付きの全面返還に合意して以降の移設問題をめぐる経緯、関連組織の那覇港管理組合と移設協議会、県議会の動きなどについて話した。
それによると、九月議会では、軍港移設問題が大きく論議された。沖縄・平和(8人)と共産党(7人)が軍港移転に反対、てぃーだネット(7人)は退場、与党の会派おきなわと野党の自民、公明、旧維新が賛成したという。比嘉県議は「浦添軍港移設は、基地負担軽減にならない。遊休化している軍港は無条件で返還すべし」と述べた。
また、一〇月一〇日、加藤官房長官が来沖した際、玉城知事が「移設と切り離して、那覇軍港の返還を」求めたことは当然だと付け加え、「世論は変化する。それは沖縄の歴史が証明している。世論を広げ政治を動かそう」と締めくくった。
そのあと、意見発表と質疑が行われた。那覇市議の前田千尋さん、浦添市議の伊礼悠記さん、「カーミージーの海で遊び隊」の浪岡光雄さん、日本山妙法寺の武田上人が発言した。
最後に、浦添西海岸の未来を考える会の里道さんが、「一〇月に会を立ち上げて以降、毎週金曜日に安波茶交差点でスタンディングをしている。LINEには七〇人が参加している。必ず軍港を止める」と決意を述べた。

11.10~11

安和現地行動

 先週、先々週と天候不良のため、海上行動ができない日が多かったが、一〇、一一日の両日はカヌーチームが安和桟橋で海上行動を行い、それぞれ一時間から一時間半、運搬船の遅れをもたらす成果をあげた。
一一日水曜日、入口ゲート前では、午前中二〇~三〇人、午後七~八人が倦まずたゆまず、ノボリとプラカードを手に土砂搬入ダンプに対する抗議を続けた。機動隊による規制が目立って厳しくなった。少しでもダンプの前に立ちはだかると、機動隊の規制が入って十数人の警官が出動し、「ダンプの前に立ちふさがる危険行為はやめてください。安全な歩道上で抗議をしてください」とマイクで言うのだ。この日は辺野古・大浦湾の海上が荒れて土砂搬入がすすまないためか、午後二時ごろにダンプの搬入は途絶えた。

〈カヌーチームTさんの報告〉

11・10(火)安和桟橋

 参加はカヌー八人、自由行動一人、ゴムボート一隻。
桟橋に停泊しているガット(赤土)輸送船の喫水線の位置から、午前九時四〇分ごろに出航と推測した。時間的にそれほどの余裕がなかったが、全員が慣れたメンバーだったので手ぎわよくことが運び約一時間一〇分粘ることができた。久しぶりの安和行動の割には大きな成果だと思う。

11月7日(土)、8(日) カヌー教室


久しぶりで海に出た。
教室は工事現場と違って緊張感がほぐれ楽しい。
辺野古の海は青く澄んで美しい、ここでカヌーを漕げる事は最大の喜びである。この美しい海を多くの人に味わってほしい。

11.12

控訴審第1回口頭弁論

森の映画社・県議会取材拒否事件


三年前の七月、沖縄県による岩礁破砕差し止め訴訟の審議が沖縄県議会であった際、森の映画社の取材を県議会(当時、新里米吉議長)は認めなかった。森の映画社が県議会の対応の誤りを問いただすため那覇地裁に提訴した裁判は、沖縄県を被告とする損害賠償請求事件として二年にわたって争われたが、今年八月、原告敗訴の判決が出た。その間、森の映画社は県政記者クラブ、県議会記者クラブに加盟し、本議会、委員会も自由に取材できるようになった。
判決は、森の映画社が報道の自由・取材の自由を有する報道機関であると認めたが、記者クラブに加盟していない報道機関には取材させなくても構わないという内容だった。森の映画社の藤本監督は「単に森の映画社だけの問題ではない。日米政府を相手に闘う沖縄県、沖縄県議会はもっと開かれた場所になり、沖縄の声をもっと広く伝えてほしい」と控訴に踏み切った。
その第一回口頭弁論が、一一月一二日午後、福岡高裁那覇支部(大久保正道裁判長)で開かれ、支援の市民二〇人以上が集まった。法廷ではまず、原告の藤本監督が意見陳述を行った。
藤本さんは裁判の経緯を振り返りながら、「どこの国でも記者証があれば取材拒否をしない。沖縄県議会がこうした閉鎖的な対応をしてはいけない。全国三八の自治体は傍聴者に、県議会の鳥取、三重、大分を含め、自由な録音・撮影を認めている。(早稲田大学マニフェスト研究会調べ)。記者クラブに加盟していないメディアに取材・撮影を認めている自治体も多い。公開性の遅れた県議会が改める事を強く願う」と述べた。
審理はこの日で終わり、判決は来年一月二一日と指定された。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(38)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。引用は原文通り、省略は……で示した。

東風平町史『戦争体験記』(1999年発行)

野原正栄
「大陸戦線に参加して」



……この度の検査では、どこの誰が甲種合格したなどと、村中の評判となり、合格した当人たちも自慢げに肩で風を切り大道を闊歩して、年下の自分たちの羨望の的であった。十八才にもなり、体力にあまり自信のなかった私は、沖縄でこのような貧しい生活ときつい農作業ばかりしては体力の向上もおぼつかないので、何とかして体をもっと大きくする方法はないものかと考え、両親の許しをもらい大阪に渡り、一年半程軍需工場に勤めてきた。沖縄より食生活もよく、肉体的にも楽になり、その甲斐あってか背丈も伸び体重も増えていた。しかし、まだ満足するまではいかず、来年に迫った徴兵検査で果たして大丈夫だろうかと気にしていた。二才年下の弟の清昌は、私と違い早熟で体も大きく海軍志願兵として一足先に入隊することになった。
弟に負けては面白くないとなおさら不安な気持ちだったが、昭和十五年五月、検査の結果は見事甲種合格し、望みが叶い飛び上がらんばかりに喜んだ。……
西部18部隊への入隊通知を受け、昭和十五年十一月下旬、多くの村民の激励に送られ勇躍出発した。鹿児島の37師団歩兵227連隊所属となった。本隊はすでに北支戦線に参加していた。私たちはここで二か月間程度基礎教育と訓練を受けることになった。……
明けて十六年一月本隊への合流のための出発命令があり、朝早く地元の人々の見送りを受け、軍用列車で鹿児島を立った。福岡の門司港で乗船、深夜の出発で運命が待ち受けている大陸へ向かった。……
北支河北省のターク―に上陸した。初めて踏みしめた大陸の雪は寒々として寂しい感じだった。隊列を整え貨車に乗り込み揺られ、周りの景色も見えぬまま一昼夜の後、山西の本隊に到着した。四方累々たる山に囲まれた所で、野戦の兵舎は内地とは全く違い、中隊毎に分散しているので営内という感じがしなかった。……
昭和十八年の四月の初め、春大行作戦が決行され連隊もほとんど全員が参加した。この時も険しい山岳戦の連続で、敵の反撃も激しく、自分たちの頼みの無線機も破壊され、所属していた中隊の方向も見失い、気が付いたときには敵の包囲の中にいた。夜間のことで作戦指揮も思うようにいかず、こちらの兵力の少ないのを見くびった敵は遮二無二機関銃や迫撃砲を撃ちまくって白兵戦の状態になった。
私が通信相棒の真世田君と小さい掩体(えんたい)に身を伏せているとき、近くに落ちた迫撃砲の炸裂で一瞬背中に強い衝撃を受け「やられた」と思った。しかし、背負っていた小銃が破損しただけで体には異常なく助かったが、真世田君は鉄帽も吹き飛ばされ折り重なるようにして血だるまとなってあえいでいた。声をかけたが間もなくこと切れた。
「天皇陛下万歳」なんて言えません。あれは戦争賛美の歌の文句です。その後も敵の攻撃は続いた。しかし、夜の明ける前には急に静まり、すっかり明けた時は敵の姿は影も形もなく消え去って、まるで夢から覚めたようだった。……
銃は戦死した彼のを携行することにした。大隊長も戦死し、代わって中尉が指揮を執り多くの負傷者と戦死者の遺体収容作業をし、ダビに付し懇ろに弔った。
戦友真世田君の遺骨も自分のハンゴウに分けて入れて屯営に持ち帰り、本隊に引き渡した。無事に鹿児島の親元に届いた事でしょう。……
昭和十八年の末に山西から河南に移駐した。……完全武装の行軍は非常に苦しく、後で入隊した初年兵など落伍者が続出した。思い出してもあの強行軍に耐えたのを自分ながら感心している。幼少の頃から鍛えられた体力と軍事教育で強い精神力を叩き込まれた事があの厳しさにも耐えられたのだろう。……
大規模な桂林攻略戦も終わり、昭和二十年一月更に南下し支那と仏印の国境を通過した。……一部の部隊は南下を続けてマレー半島に行った。……八月終戦の報を受けた。

週刊かけはし

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