民意に従い、新基地建設・埋立を中止せよ

かけはし 第2656号 2021年3月8日

沖縄報告 2月28日
県民投票2周年を迎えて

沖縄 K・S

2019年新基地・埋立の是非を問う県民投票

 主権在民。大多数の人々は、戦後政治の主権者は国民・住民だということを小中高校の授業を通じて習ってきた。天皇制のもとでの対外侵略と軍事警察支配の戦前の政治に対する反省と否定の上で、国民主権のもとで民主主義と人権が保障されるのが戦後政治である筈だった。今、日本の政治の主権者は国民であると言えるか?
 2019年2月24日に実施された、辺野古新基地建設のための埋め立ての是非を問う県民投票からちょうど2年を迎えた。

2019年2月の県民投票の結果

 2年前の県民投票(2019年2月15日~24日)の結果は次の通りだった。
有権者数         115万3591
投票数          60万5394
投票率    52・48%
賛成    11万4933(19・0%)
反対    43万4273(71・7%)
どちらでもない 5万2682(8・7%)    無効    3497 (0・6%)

 埋め立てについて示された県民の意思に従うのが民主主義ではないか。現実の政治は学校の授業で教える内容とは違っている。主権在民ではなく、政府を動かす政治家・官僚が民意に反して国家権力を行使する。彼らには、数年に一度の選挙で選ばれたということ以外には何も正当性もない。にもかかわらず、権力をかさに着て政府を私物化して恥じないのだ。

玉城知事がコメント

 県民投票2年に当たって、2月24日、玉城デニー知事は「地方自治法に基づき制定請求された条例により実施されたものであり、県民の意思が直接確認されたという点で民主主義的に重要な意義があります。これにより明確に示された辺野古埋立てに反対する民意は、重く尊いものです。国は、対等・協力な関係にある地方公共団体の自主性・自立性を確保するという地方自治の観点からも、この重く尊い民意を尊重しなければならないはずです」と指摘し、「辺野古に新基地は造らせないという決意を新たにし、県民投票で示された民意に応え、我が国の民主主義と地方自治を守るため、全身全霊で取り組む」と述べた。
また、普久原朝日さんの写真展「県民投票から2年 あのときの沖縄『政治』と若者たち」が那覇市で開催された。辺野古県民投票の会の元山仁士郎さんなどが参加するオンラインのイベントも開かれた。県民投票で示された県民の意思を日本政府は無視し続けているが、県民投票が実施され県民の意思が示されたという事実が埋もれることは決してない。辺野古新基地NO!埋め立てSTOP!の根拠になり続けていく。

破綻した埋め立てに固執する政府防衛局

 政府防衛局は破綻した辺野古・大浦湾の埋め立てに固執し続けている。この一週間も本部半島からの土砂運搬、K8・K9護岸からの陸揚げと辺野古側の埋め立て区域への投入をフルに進めてきた。また先日、辺野古側の②-1に続き、②のかさ上げ(3・1mから4mへ)に取りかかることを沖縄県に通知した。沖縄県の緊急事態宣言が2月28日に終了すれば、オール沖縄会議による現地行動が復活する。辺野古、安和、塩川、海上の現地では再び最大限の行動が展開されていくだろう。
「沖縄から伝えたい米軍基地の話」の冊子を発行した沖縄県は、このほど、ユーチューブ用に発表した。全6話の第1回目とのことだ。検索は、①沖縄県のHPを開け、②左欄の辺野古新基地建設問題最新情報をクリック、③関与取り消し訴訟の上告、県民投票2年のコメントに続いて、動画のサイトがあるので、クリックすると、ユーチューブに移行する。
この間沖縄各地で危険な低空飛行を繰り返している嘉手納基地のMC130特殊作戦機が2月23日、山口県岩国基地に緊急着陸した。理由は、空中給油中に給油装置が破損したことだという。5年前の名護市でのオスプレイ墜落は、給油中にMC130機と接触したことが原因だった。米軍機の低空飛行は沖縄だけでなく、横田など米軍基地のある所ではどこでも増加している。全国の自治体で、沖縄とともに、米軍機の勝手気ままな訓練に反対する声をあげなければ、米軍と米軍に追随する日本政府の国民を犠牲にする軍事政策を止めることができない。
アメリカでも沖縄県のワシントン事務所が米国の政府、議員に沖縄の声を訴え続けている。2月24日には、カリフォルニアのバークレイ市議会が、辺野古新基地に反対し計画の即時中止を求める決議を賛成5、棄権4で採択した。県内外、国内外で闘い続けよう。

2.23 浦添西海岸を守る学習会に100人
亀山琉大助教授が講演

2月23日午後、浦添市社会福祉センターで、浦添西海岸の未来を考える会が主催して、先の浦添市長選挙を振り返り今後の軍港反対運動の取り組みをテーマにした講演会が開かれた。司会は考える会の里道さん。亀山統一(のりかず)琉大助教授が約1時間20分にわたって、用意した資料に沿って講演した。

〈亀山統一さんの講演まとめ〉

 那覇軍港は1976年に返還合意されたが、その後も低頻度の使用が続いている。古く浅く狭い軍港だ。
沖縄県、那覇市、浦添市で構成する那覇港管理組合は民港についての組織なので軍港の議論はしていない。民港計画の策定後、軍港移設協議会(防衛省、内閣府、国交省、県、那覇市、浦添市、那覇港管理組合。2001年設置)で軍港の位置や形状を協議する。
昨年8月、米軍が軍港位置の「南側案」を拒否し、「北側案」で進める方針を防衛省が那覇港管理組合に伝達。浦添市長も「北側案」の受け入れを表明。玉城知事はその後、官房長官に対し、那覇軍港が遊休化しているとして、移設前の先行返還を要求した。
ここで言う「南側案」「北側案」はいずれも、関係機関の調整のための仮のものであって、政府、自治体のいずれも那覇港の拡張案、軍港の規模・形状について決めたものは何もない。この点で、「海上ヘリポート」「軍民共用空港」「V字型滑走路」などと次々具体案が示され、それらに対する民意が問われた辺野古とは全く異なる。
米軍はすでに沖縄に軍港を持っている。東海岸には大型の強襲揚陸艦も着岸可能なホワイトビーチがあり、弾薬埠頭として天願桟橋、さらに金武町のレッドビーチもある。
キャンプ・キンザーの返還・跡地利用は沖縄の未来を左右する大問題だ。政府案では、海兵隊が国外移転し、キャンプ・キンザーが全面返還されるころ、返還地の目の前の海域を埋め立て、軍港をつくるということになる。跡地利用が台無しになるのではないか。
キャンプ・キンザーの跡地利用、那覇港湾の将来計画、那覇軍港の返還問題の全体像について、民意を反映して一から検討する必要がある。キャンプ・キンザーの返還は、汚染除去や地籍の明確化などで長期間かかることは避けられない。計画を検討する時間は十分にある。地方自治、民主主義に基づいて、市民参加で計画を進めることが大事だ。
浦添市長選挙を振り返ると、当選した松本市長は軍港問題に全く言及しなかった。選挙期間中も「軍港が欲しいと思っている浦添市民は一人もいない」と発言した。つまり、軍港移設の是非を問わなかった松本市長の当選は、軍港移設の容認を意味しない。
逆に、伊礼候補は「軍港反対」をはっきり争点として打ち出した。画期的だ。辺野古に続いて、浦添でも「新基地NO!」「海まもれ!」の運動が立ち上がったと言える。長い闘いになるが、その第一歩を踏み出した。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(46)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。『県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む~沖縄出身兵100人の証言~』に採録されている証言についてはこれまでほぼ紹介した。これから何回かに渡って紹介するのは、採録されていない証言の数々である。今号では、中国での戦争にあけくれた西原町の呉屋さんの体験をとり上げた。
引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

『西原町史』第3巻資料編2「西原の戦時記録」(1987年発行)
呉屋良光

 「中国各地を転戦」
 昭和十三年一月、千葉県の習志野戦車第2連隊に入隊した。二か月余の訓練後、昭和十三年四月に北支(中国北東)の太沽(タークー)砲台へ上陸した。……
四、五日後、天津をめがけて進撃し、そこを無血占領した。そこから南下し、済南市の近くで約2週間の戦闘の末、ようやく黄河の手前にあるカササギ山を占領した。……
トウ県を少し過ぎると、泰山というものすごい山があった。今の石敢當の由来になっている山である。泰山石敢當といって、矢を突き刺すほどの大きな山であった。……この山の攻撃は戦車ではできなかったので、戦車から降り、鉄砲を持ち、歩兵と一緒に共同作戦を行なってそこを占領した。……
徐州を占領したのち、帰徳(キトク)へ進撃していった。そこから、開封の戦闘に参加した。その時、私は初めて負傷(左腕を弾が貫通)した。私は、軍人精神をたたきこまれていたので「これぐらいの傷はなんでもない」といって、その晩、野戦病院へも行かず、傷口を包帯布で巻き、左腕を三角巾で首にかけていた。私は、傷を負いながらも、戦車のハッチから上半身を出し、双眼鏡を片手に戦車を指揮した。
鄭州へ進撃するころまでには左腕の傷口はふさがり、ほとんど治りかけていた。鄭州でまた、右足の大腿部を打ち抜かれてしまったので、衛生兵を呼び、戦車の中で傷の手当てをしてもらった。そこから、信陽、老河口、宣昌と進撃して慶門までたどりついた。そこは最前線であった。……
昭和十六年五月、……私たちは中原会戦が終わると同時に、青島に集結した。青島から弾薬・大砲・戦車等を輸送船に積み、そこを出発した。……長崎からの船と船団を組むため、九州西方海上を往復していた。……船はそこからフィリピンをめがけて航行した。……
米軍はバターン半島とコレヒドール島(マニラ湾にある島)に立て籠もっていた。日本軍は……海軍と陸軍の合同作戦でこの島を攻略することに成功した。……
私たちは再び、広東へ上陸し、衡陽、長沙と進撃して行った。私は第一次、第二次長沙作戦にも参加した。……桂林にはB29の発着基地があった。そこを占領しないことには八幡製鉄所があぶないというので桂林を攻撃することになった。……
昭和十八年、連隊の近衛歩兵第1隊へ転属になった。……昭和十八年九月に満期になり沖縄へ帰ってきた。
しかし、十九年四月、再召集され、満州の7000部隊(関東軍)の683部隊に配属された。私たちの任務は鞍山市にある昭和製鉄所を守備することであった。私はそこで終戦をむかえた。……満州飛行場・鞍山の機械工場等はソ連軍に戦果として接収された。その撤去作業には日本軍捕虜とソ連兵が従事した。工作機械はすべてソ連へ持っていかれた。私は、日本兵5人とソ連兵3人の計8人で、南満州と北満州間の列車警備にあたった。……最後には、我々も捕虜の身なので、いずれソ連へ連れて行かれるものと思い、5人一緒に逃亡した。
逃亡の途中、何万人という日本の開拓移民団の避難民に会った。女の人々は髪を剃り落とし、男装をしていた。子供をおんぶし、他の子供たちは手を引いて線路の上をトボトボと歩いていた。戦争に負けるということはこんなにも悲惨なものかと、腸が煮えくり返るほどくやしかった。この日本人避難民らの食糧事情は惨めであった。線路近くの柳の木に、自分の子供を縛りつける夫婦を見た。その夫婦は、振りかえり振りかえりしながら子供から遠ざかって行った。子供は泣き叫んでいた。両親は食糧もないので、誰か(現地の中国人)が子供を拾いあげることを期待していたのであろう。逃亡中の捕虜の身である私にはどうすることもできなかった。
ソ連兵は、難民の中から女の人を見つけ出すため、男装した女の人の乳房のところに手を当て、そして女の人を見つけると引っぱり出して暴行した。
私たち5人の日本兵は南満州から逃亡すると、軍服を脱ぎ捨て民間人に変装した。半年ほど現地人の農家の日雇人をしながら暮らしていた。昭和二十二年、葫芦〔コロ〕から一般引揚者と一緒にLST船(米海軍の戦車揚陸艦)で佐世保に帰ってきた。

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