沖縄の闘いの構図は現在に続く

かけはし 第2650号 2021年1月25日

コザ反米暴動50年にあたって

沖縄報告 1月17日
沖縄 K・S

 1970年12月20日のコザ反米暴動から早いもので50年が経過した。沖縄市戦後文化資料展示館「ヒストリート」では、昨年10月から企画展「『コザ暴動』を考える―あれから50年―」を開催している(1月31日まで)。また、12月20日に向けて、「沖縄アジア国際平和芸術祭実行委員会」などが主催して、琉球新報社や沖縄市の「ミュージックタウン音市場」で写真展を開催した。新報の1階広場では、12月12日、MPを模した廃車を若者たちがひっくり返すパフォーマンスも行われた。新報、タイムスの地元2紙は連日紙面で取り上げ、様々な人の声を掲載し、暴動か騒動か、なぜ起こったのか、いかなる歴史的な意味を持つのか、などと問いかけた。50年という年月、半世紀が過ぎても色あせず、当時の人々だけでなく若者たちの関心を捕えている12月20日の出来事とはいったい何であり、どのような背景で起こり、いかなる結果をもたらして現在に至っているのか。

沖縄タイムス「噴出したマグマ―『コザ騒動』50年」(中)
今郁義さんの報告から

 地元紙に掲載された様々な論評の中で、沖縄タイムス12月17日付「噴出したマグマ―『コザ騒動』50年」(中)の今郁義さんの文章が、12月16日の糸満の金城トヨさん轢殺を糾弾する県民大会、19日の美里の毒ガス撤去県民大会、そしてその夜のステッカー張りと、当時の経過をたどって20日未明から明け方にいたるコザでの大暴動の端緒の様子を自身の体験をもとに生き生きと伝えている。
 少し長くなるが引用しよう。

 小一時間もたって中の町のコザ郵便局あたりにさしかかった時、軍道を挟んだ反対側のパレスホテル近くの路上に二、三十人ほどの人だかりがあった。「ゲラウェー、ゲラウェ―」と大きな声でやり合っている一群がいた。何だろうと私たちもほどなくその人だかりの一員になっていた。大きな黄ナンバー車を守るように二人のMPが群がる人々を追い払おうと居丈高に叫んでいた。すると人だかりの中から一人の男性が「車で人をひいておいて何か!」とつっかかった。私はその時、黄ナンバーが人をひいたのだとわかった。別の男性がさらに「イトマンを知っているか!」とMPにつっかかる。ブロークンな英語でMPにわめき散らす青年もいる。もとよりMPがこれらの人々の言葉を全てわかっている訳ではないだろうが、群衆の表情からして米兵が起こした交通事故が人々を怒らせていることだけは察しているようだった。
車の中の米人男性三人と二人のウチナーンチュらしき女性の表情はこわばっている。車を取り囲む人垣は増え、ボンネット側の数人が車を上下に揺する。大きな外車であるからおもしろいように揺れている。現場に掛けつけて来たコザ署の警察官が「警察が処理しますのですぐに解散してください」と警告するが「あんたらに何ができるか」という群衆の一言に苦笑いを浮かべるだけである。
上へ下へ、右へ左へと揺れる黄ナンバー車から米人たちがMPに助けられて外へ。彼らに直接手をくだす人は誰もいない。空車になった黄ナンバーは今にも横転しそうに揺れる。せーの!の掛け声とともに横転する黄ナンバー。どこからともなく「ガソリン!」「マッチ!」との声があがると、ほどなく車の前方から「グワー」と音を立てながら炎が夜空にあがっていった。数秒間だろうか。一瞬静寂が走った。見回すと群衆の数は100人をはるかに超していた。私たちがこの場に出くわしてからどれくらいの時間がたっているのだろうか。15分なのか一時間なのか。友人たちとも離れ離れになっている。
ゆっくりゆっくり車が近づいてくる。「黄ナンバーだ!」と誰かが叫んだ。と同時に群衆の波が大きく揺れて移動した。米兵らしき男が車から逃げる。男たちが黄ナンバーを押していって燃えている車にぶっつける。「ワーッ」と歓声があがる。歓声を合図のように群衆はいくつにも分かれて路上駐車をしている車から黄ナンバーだけを選んで引っぱり出す。押しながら走りだす。炎があがる。エンジンが破裂する。京都観光ホテル、パレスホテルに駐車している黄ナンバーも軍道24号線のほぼ中央で炎上。奇妙なほどの静けさと歓声が交錯しながら群衆はごく自然に南と北へ別れはじめた。

一夜限りの「沖縄革命」
米軍を恐怖に陥れた黄ナンバー108台の炎上

 その後、南は米軍のライカム・ハウジングエリアにいたる島袋十字路方面へ、北はゴヤ十字路から左に折れてゲート通りから嘉手納空軍基地第2ゲートへ、炎上する黄ナンバー車の数はますます増えていった。ちなみに、復帰後黄ナンバーはYナンバーに変わったが、当時の米軍人軍属関係のナンバープレートは黄色で、下の方に「KEYSTONE OF THE PACCIFIC(太平洋の要石)」と書かれていた。
当時コザ高の体育教師だった安里嗣則さんは「沖縄人は人間扱いされていない」「今日こそ米軍をやっつける」と街頭で訴え、MPに投石した。しかし、その後、米軍関係車両を焼き払いながら進んでいき、坂の下の方を見ると、米軍住宅地区近くで、武装米兵が銃を構えていた。安里さんは「死んだらいかん」とそれ以上進むことを制止したという(タイムス2020・12・21)。米軍報告書によると、午前1時35分「暴動」が発生したとして、数百人の武装米兵を出動させていた。
当時を回想して「戦争だと思った」「まるで解放区だった」「革命がおこったのではないかと思った」などと述べた人々がいる。ゲート通りに進んだ人々は第2ゲートを突破して基地内に突入しパス発券所、米人学校などに放火したが、警官隊と武装米兵に押し返された。ヘリを低空飛行させ、催涙ガス弾を発射した米軍に対し、蜂起した素手の市民たちはコーラやジュースのビンで作った即製の火炎瓶や投石で対抗した。
炎上した黄ナンバー車は米国政府の報告書では82台とされているが、当時、現場の約2キロの道を3往復して燃えた車を数えた新崎敬子さんによると、108台だったという(琉球新報2020・12・18、「女性たちのコザ騒動50年」)。現在西原町に住む新崎さんはその日、姪の誕生日祝いの帰り道、軍道24号(現在の国道330号)沿いのバス停にいる時、パトカーが猛スピードで通り過ぎ呉屋十字路方面に向かったのをおかしいと思い、現場に向かい現場の雰囲気にくぎ付けになり、最後まで現場を見届けることになったのだという。
玉城デニー知事のインタビューが新報2020・12・16の「コザ騒動50年」の記事に出ている。当時小学5年生だった知事は、ビジネスセンター通り(現在の中央パークアベニュー)から北へ100mのところに母親と2人で暮らしていた。20日の朝7時ごろ、友人と3人で胡屋十字路の方へ行くと、炎上した車が真黒になってオイルやゴムの焼ける臭いがあたりに充満していて、戦争が起こったような印象を受けたという。
腹話術師のいっこく堂さんは当時小学1年生。母親が中の町で「サンドウィッチショップたまき」という店をやっていて、客の9割が米兵だった。あの日の朝6時ごろ、兄と一緒に現場に行き、大人たちにまじって空き瓶や石を投げつけた。米軍はその後、外出禁止令を発動。コザの町から米兵の姿が消え、間もなくいっこく堂のお母さんの店は借金を抱えて店を閉じた(タイムス2020・12・17「コザ騒動50年」)。

 この夜の出来事は地元2紙に一面で伝えられた。新報、タイムスとも第一報は「コザで暴動」だった。当日深夜3時ごろ高等弁務官付きの一等特技官・主和津(シュワルツ)さんの車で現場を訪れたランパート高等弁務官はベトナム戦争の光景に重なるほどの騒ぎに驚き、裏道から引き揚げたという。高等弁務官はその日テレビを通じた声明で、この夜の沖縄の人々の行動を「暴動」「全くの破壊行為」として「ロー・オブ・ザ・ジャングル(ジャングルの掟)」と強く非難した。地元新聞の表現は、翌日から「コザ騒動」に変わった。琉球新報は「コザ反米騒動 政治問題に発展」(12・21)、沖縄タイムスは「基地の町コザで深夜の騒動」(12・20号外)と報じた。
全国紙は12月21日の紙面で、「沖縄コザ市で“反米暴動” 基地に乱入、放火 積もった怒り爆発」(毎日新聞)、「沖縄コザ市で反米騒動 米軍犯罪に怒り爆発 基地にも乱入、放火」(読売新聞)、「沖縄コザ市で反米焼き打ち 交通事故処理に群衆怒る 繁華街に5千人、けが人多数」(朝日新聞大阪本社)などと報じ、全国民の注目を集めた。

「暴動」か「騒動」か「焼き打ち」か?

 「暴動」か「騒動」か「焼き打ち」か? いまだ定まった呼び名はない。「騒動」ととらえる人々の主張は、「暴動と規定するのは支配者側の見方」であって、米軍当局の言うような無秩序な暴力行使「暴動」ではなく、圧政に対する正当な怒りの表明であったということであろう。実際、黄ナンバーを燃やす行動はよく自制されていて、積もり積もった米軍政に対する県民の怒りの爆発であったが、米兵個人を対象に無秩序に暴力をふるったり、店舗の掠奪をするものではなかった。人々の行動は「反米」という点で自覚的であった。また、黒人に対しては手出しをしなかった。
しかし、黄ナンバー車、MP車両、嘉手納基地ゲート内のパス発券所とミドルスクールに対しては、遠慮なく最大限の実力行使で放火し破壊したのである。恐ろしくも素晴らしい集団的な暴力行使ではないか。米軍当局が「Riot(暴動)」と非難したのは恐れの反映であり、あの日の行動がそれほどの衝撃を相手に与えたということなのである。だから、私は「コザ反米暴動」ということにためらいはない。
沖縄市の市史編集担当によると、市民からの「単なる騒動でいいのか」との強い声や米軍資料などを基に、暫定的にカギカッコつきで「暴動」と表現してきたという。「ヒストリート」も同様だ。あの日の行動に「騒動」ではたしかに軽すぎる。県民が自分で行動の意義を過小評価することになるなら、それこそ相手の思うつぼだろう。
「暴動」でも「騒動」でもない評価がある。小説『宝島』の著者・真藤さんは新報2020・12・20に掲載されたインタビューで「ある種の市民革命のよう」と述べている。「市民革命」、いい響きだ。戦後25年にわたる米軍による沖縄占領と米軍政支配の無法、累々たる犯罪の蓄積。琉球警察によると、1960年代の10年間、米軍人・軍属による事件・事故・犯罪が毎年千件前後、記録されている。ベトナム戦争の泥沼化の中で沖縄駐屯の米兵たちは荒れた。タクシーの乗り逃げは毎日。暴行事件、交通事故も日常茶飯事。米軍政はこれら米軍人・軍属の加害者を裁く上で、一貫して公平ではなく、被害者を救済することにも関心を持たなかった。しかし、県民は一つひとつの事件・事故・犯罪を忘れていない。忘れられない。そして、米占領軍と米軍政に対する怒りがマグマとなって蓄積された。
コザ暴動は、多くの人が感じているように「起こるべくして起こった」。権力者の理不尽な圧政のあるところ、必ず民衆によるさまざまな形の反撃が起る。沖縄も例外ではなかった。マグマが爆発しただけのことだ。もしまた、同様の事態が続けば、またマグマは爆発するだろう。「ヒストリート」の展示は締めくくりで、「『コザ暴動』は沖縄の怒りを表す象徴的な事件」と書いている。
当時属していた団体のビラにコザ暴動を「対米軍実力闘争」と書いたという今さんは、タイムス2020・12・13のインタビューで「米軍への一夜限りの蜂起」と述べている。コザの民衆の米軍に対する自覚的暴力に共感する論者は「蜂起」「決起」と意義付けることが多い。
とはいえ、「蜂起」というには国家権力の奪取が意識化されているものであろうから、過大評価は禁物である。自然発生的な蜂起でコザのメインストリートを支配し解放区を作り出した民衆の権力は、夜明けとともに消失した。コザ反米暴動は一夜限りの「沖縄革命」であった。朝を迎え、米軍基地では、暴動に参加した基地従業員も米兵も何事もなかったかのように出勤し仕事についたという。

コザ反米暴動がおこった復帰直前の情勢

 当時、1972年沖縄返還は既定の事実だった。12月20日のコザ反米暴動に先立ち、11月10日には沖縄で初めての歴史的ゼネストが10万人が参加して貫徹され、決起集会が行われた与儀公園には数万人の人々が結集し、勢理客の米軍基地までデモ行進をした。当時与儀公園は現在のように金網や花壇の区画などで整備されておらず、何もない、だだっ広い広場だったので、大人数が集まる集会には都合がよかったのである。復帰運動の蓄積、教公二法阻止闘争、全軍労の波状的なストライキなど1960年代の闘いの高揚を背景とし、米軍政と日本政府に対し全島ゼネストを打ち抜くまでに上りつめた力関係は県民一人ひとりの気持ちの中に「沖縄をなめるなよ」という強い自覚と自信を植え付けた。沖縄の情勢は水温に例えるなら、沸騰していたのだ。
にも拘らず、相変わらず支配者然として米兵の飲酒運転による轢殺事故を無罪にする米軍たち。人権蹂躙を繰り返して恥じるところのない米軍たち。しかも、核兵器と毒ガスを県民が知らない間に大量に持ち込み、毒ガスもれ事故を起こしても責任をとろうとしない米軍。こうした米軍に対する強い怒りが政治的な自信に裏付けられて県民の気持ちの中に根をはっていた。
12月20日のコザの民衆による米軍に対する徹底的な暴力行使はこうした情勢の中で起こったのである。
しかし、米軍は「左翼が群衆を扇動して起こした暴動」ととらえ、琉球警察は「騒乱罪」を適用して首謀者探しに躍起となった。その結果51人が「騒乱罪」で送検され10人が起訴されたが、「騒乱罪」の立証はできず、4人が「放火」「器物破損」で執行猶予付きの有罪判決を受けた(1975・6・17、那覇地裁)。4人はその場にいた数千人の、いや沖縄県民100万の代表であり、身代わりだった。復帰協は最後までこの裁判を親身になって支えた。
嘉手納警察署の警部補C・Kさんは、「騒擾罪」の捜査を担当することになり、法律を勉強した。「首魁」「首謀者」「実行犯」「人の数」「組織化」「武器の種類」など騒擾罪のキーワードが、「人の数」を除いて当てはまらない。特別なリーダーがいない、みんな素手で武器もない、ということから、騒擾罪の適用はできなかったと述べている。この警部補は「真相を解明ししかるべき処置をとるのが捜査官の心理」だとしながら、反面ウチナーンチュとして心のどこかに「シタイヒャー(よくやった)」という感情がある、とも述べている。
NHKのETV特集「沖縄が燃えた夜~コザ騒動50年後の告白~」が2020年12月19日に放送された。今さんはこの番組に出演して、その夜どこで何をしたのかありのままを告白し、黄ナンバー5、6台を燃やしたと述べている。「騒乱罪」「放火」「凶器準備集合罪」などと犯罪視される中で、「黄ナンバー車をひっくり返した、燃やした、投石した」などと告白することは勇気がいる。50年目にして初めて公にあの夜の行動を証言した今さんはその理由を「何もかも正直に語ることが、逮捕・起訴され有罪判決を受けた4人の名誉を回復することにつながる」と語った。

現在にいたるコザ反米暴動の衝撃

 コザ反米暴動の衝撃は、県内外のウチナーンチュにも大きな力を及ぼした。当時大阪にいた金城実さんは、事件の報に接し「シタイヒャー!ウチナー!(やったぞ!沖縄!)」と思わず叫んだという。金城さんが魂の彫刻家になる決意を固めたのもこの事件からだったといい、「沖縄戦と米軍支配での抵抗の歴史。自己決定権への先駆的役割を担ったのがコザ事件ではなかったのか。民衆の抵抗こそ、非暴力不服従の『蜂起』ではないだろうか」(タイムス論壇2020・12・16)と書いた。
コザ反米暴動は日米両政府に衝撃を与えた。あれだけの大暴動に対し、米軍は武装米兵を出動させたが、武力鎮圧の手段をとらなかった。発射された銃は実弾で、手の甲を打ち抜かれた男性もいたが、主に、群衆を解散させようとしてMPが空に向かって放ったものであった。もし米軍が鎮圧に実弾を使用するという選択をしていたら、多くの死傷者が出る惨劇を生んだであろう。そうなれば、「核付き返還、基地自由使用返還」を隠蔽する佐藤首相とアメリカの欺瞞は吹っ飛んでいたかもしれない。
すでに1年半後に沖縄返還を控えているという情勢の下で、米軍も直接鎮圧を控えたのだろう。仮に、この暴動が1950年代に起こっていたなら、銃剣とブルドーザーの暴力支配の絶頂にあった米軍は血の弾圧を選択していたかもしれない。
現実には、米軍は沖縄県民の反基地闘争に対する取り締まりを復帰後の日本政府の役割にする選択を行い、県民もまた、本土復帰を通じて日本の一部の沖縄県を実現し、そこから基地撤去に向かう戦略を選択したのであった。そして現在にいたるのである。
その意味で、現在の沖縄の闘いの構図はコザ反米暴動からつながっていると言える。

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