遺骨混じりの土砂を基地建設に使うな

沖縄報告 4月18日
沖縄戦跡国定公園内の理不尽な石灰岩採取を止めよう

沖縄 K・S

熊野鉱山に対する
沖縄県の措置命令

 4月16日午後、沖縄県の玉城デニー知事は県庁で会見を開き、魂魄(こんぱく)の塔付近で戦跡公園内の森林を伐採して石灰岩の採掘に着手した熊野鉱山に対し、自然公園法に基づき風景を保護するために必要な措置命令を出すことを明らかにした。
 措置命令の内容は、①戦跡公園としての風景の保全や人道的な配慮から、遺骨の有無を関係機関と確認し収集に支障がないようにする、②周辺区域の風景に影響しないよう必要に応じ植栽等をする、③周辺植生と同様に植物群落を原状回復する、というものであり、さらに留意事項として、①戦没者の遺骨が混じった土砂は採取しない、②遺骨収集に関する法律、糸満市風景づくり条例を守り、必要な手続きを実施する、③着工届出書、完了報告書を提出する、とされている。
 そのうえで、県は熊野鉱山の業者に弁明通知書を送付した。業者の弁明を受けて県が最終的に措置命令に関して判断するのは4週間後の5月14日になる。
 
県の措置命令では戦跡の森を守れない

 ガマフヤーの具志堅さんと宗教者の会による1週間のハンストを契機に、沖縄戦犠牲者の血で染まった土砂を埋立に使うな!という声は全県的に広がった。遺族、白梅・ひめゆりなどの学徒隊関係者、各地の島ぐるみ、平和ガイドたちは、戦跡公園での理不尽な土砂の採取を止めよ、と声をあげ、県が採石業者の操業を止める強い措置命令を出すことを願った。操業を止めてこそ、遺骨が混じった土砂が埋立に使われることを止めることができ、戦跡公園の「鎮魂の森」としての景観を守ることができるからである。
県下の13市町村議会で「遺骨を含む土砂を採取しない」よう求める意見書が、全会一致または賛成多数で可決された。沖縄県議会も4月15日、全会一致で「沖縄戦戦没者の遺骨等を含む土砂を埋立に使用しないよう求める意見書」を採択した。
ところが、今回県が出そうとする措置命令は、「採掘を止める」という最も肝心な点に踏み込まなかった。
県は一体何をためらっているのか。自然公園法は、鉱業権、採掘権といった私的財産権を最大限保護している。業者から損害賠償請求を求められた場合不利で、金額も莫大になる、とも言われている。岩石や森林がつくる自然の風景の価値といった公共の財産は二の次とされる。沖縄戦跡国定公園を普通地域、特別地域に色分けし、普通地域では届け出をするだけで採掘が可能となるという自然公園法上の「合法性」こそが問題なのである。
沖縄戦跡国定公園を守ることに関心がない日本政府の官僚や政治家は、自然公園法に基づいて、熊野鉱山に鉱業権を与え採掘を許可した。沖縄戦の戦跡が壊され、戦争の記憶が残る森が破壊されても、彼らは良心の痛みを感じない。なぜなら、法律に基づいてやっているのだから。

 
中央政府に対抗する県行政独自の価値観を

 各種法律体系による中央集権支配の中で、沖縄県が自主的な自治行政を貫くのは非常に困難だ。振り返れば、「業者を差別してはならない」との条文を理由に、辺野古埋立のための本部塩川港の使用を容認した港湾法のときもそうだった。「辺野古反対が県政の柱」というスローガンはどこへ行ったのか。玉城知事は16日の会見で、「県が最大限取りうる行政行為で、これまでにない異例の判断だ」と述べた。日本政府の支配する法律体系という、いわば「同じ土俵」の中ではそうであるかもしれない。
地方自治体は中央政府と対等の立場にある、ということを美辞麗句に終わらせないためには、中央政府と同じ土俵の中にいて彼らの法解釈を受け入れていてはいけない。地方自治体独自の価値観に基づいて、独自の法律・条例を作り出すことに踏み出さなければならない。そうしなければいつまでたっても中央の下請けから脱することはできない。中央政府と対立することを恐れてはならない。
戦跡公園内の石灰岩の採取を禁止する。新たな操業は認めない。操業中の鉱山は期限を切って閉山する。このようにして、県民の価値観にもとづく法律を県議会がつくり県行政が実施することこそ自治の道である。県民の大多数の意思に基づく独自の県行政の実行は、県民の熱い支持を得るに違いない。

4.15 辺野古海上行動

カヌーに対する海保の
危険行為を糾弾する!

 沖縄県が4月12日から5月5日まで新型コロナの「まん延防止等重点措置」の対象となったのに伴い、オール沖縄会議は辺野古ゲート前、安和桟橋、本部塩川港、海上、辺野古の浜テントの各現場での抗議活動の休止を決めた。各現場では、各々責任団体の監視行動と自主的な市民による行動が続いている。
辺野古の浜のテント2を拠点とした海上行動も、規模を縮小し週4日、カヌーは10人までとして、抗議の声をあげ続けている。4月15日の行動には、平和丸など抗議船3隻とカヌー9艇が参加し、赤土土砂を積んだランプウェイ台船が着岸するタイミングに合わせて、K8、K9の2つの護岸での抗議・阻止行動を行なった。
ところがこの時、K8護岸の海上で、海保のGBがカヌーメンバーTさんにめがけて突っ込んできた。通称GB(ゴムボート)といっても、レジャーに使うゴムボートのような柔らかなものではない。硬質ゴムで周囲を被った、硬さは金属並みの高速ボートだ。胸を強打された強い痛みが胸から首、頭に至り、意識はもうろう、目まい、吐き気を訴えたTさんは直ちに救急車で病院に搬送された。現在通院治療中だが、記憶が途切れがちで、しばらく寝て過ごしていたという。
この日現場にいて一部始終を目撃したカヌーチームのKさんは自身のFBで次のように述べている。
「エンジンが2基も付いた180馬力のボートが、屈強な男性ですら0・2馬力程度の手漕ぎのカヌーを追い回し、落水させ、転覆させ、肉体を痛め付ける。今まで何人のカヌーメンバーが被害にあったことだろう」。
「何故力の差を考えて操船しない、と思うが、権力側にいる彼等は私達を制圧する対象とみなしているから、頻繁に事故を起こす。操船していた海保の良心は痛まないのだろうか」。
「お互いに紳士協定というか、暗黙の了解がある筈なのだが、権力が牙を剥けば手漕ぎのカヌーなどひとたまりもない。今は、怪我をさせられた同志の回復を願って待つ」。
海保が対峙する海上行動チームは新基地に反対する県民の総意を体現しており、海保はその民意を踏みにじる日本政府の強権・傲慢を体現している。海保のGBの操船者、指揮官は謙虚に、冷静に、慎重に行動すべきなのだ。4月16日付の新報によれば、第11管区海上保安本部は、当時の対応は「適切だった」と述べたという。何という無責任! ヘリ基地反対協は4月19日午後、中城海上保安部に対し抗議行動を行なう予定だ。海保は真摯に謝罪し、責任者を処罰せよ。

〈4・17 カヌーチームKさんの報告〉

 船三隻、カヌー10艇。二班に分かれ先行したカヌー4艇が大浦湾に入る2隻のガット船に抗議してからK9へ移動。1時間待機して、ランプウェイ着岸のタイミングでフロートを越える。4艇のカヌーに5艇のGBが貼り付き、思うような動きが出来なかった。
いつも待機中にGBの位置と、目指す場所と、漕ぎ出すタイミングを何度も頭の中でシミュレーションする。でもGBとカヌーのあまりの力の差でその通りに動けることは少ない。ましてわずか4艇ではなおさら。
拘束されGBに乗って移動中に強い雨が降って来た。K8護岸を見ると陸揚げが終わりそうだ。次に着岸する台船を阻止したいが、雨に濡れて震える身体では撤収するしかなかった。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(50)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。今号では、満州の昭和製鋼に勤めていて、敗戦、ソ連軍の進駐を体験した佐久田さんの証言を紹介する。1943年沖縄から昭和製鋼に一緒に行った83人のうち、生還することができたのは13人のみだったという。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。( )は原著のもの。

『西原町史』第3巻資料編2
「西原の戦時記録」(1987年発行)

佐久田浅吉  「満州製鉄所」


……ある日、宜野湾村野嵩にあった中頭郡職業安定所へ行ってみると、昭和製鋼から募集があった。私は今度の戦争は是非勝利しなければならないと思い、銃後の生産活動に参加したかったので、すぐに応募した。私たちは第四次採用であった。……
昭和十八年十二月八日、私たちは那覇港を出発した。私は単身で、妻子を家に残したままであった。……
工場には溶鉱炉があったので中は非常に熱かったが、外は零下何度という寒さであった。私はその工場の骸炭〔コークス。石炭を蒸し焼きして炭素部分だけを残した燃料〕課修理部で熔接の指導員をしていた。工場には多くの中国人労働者がいた。日本人の社員は、要所要所の部署につき、末端で中国人が働いていた。昭和十九年ごろになると、多くの中国人が徴用同然に連れてこられた。しかし、彼らはあまり働こうとはしなかった。また、日本本土の各地の製鉄所から多くの応援隊(労働者)を呼び寄せていた。その他、現役の兵士らも交代で、生産の応援にきた。
……私たちは中国人労働者と一緒に働いていた。私は、中国人からツオチュティエン(佐久田を中国語読みしたもの)と呼ばれていた。タバコの配給があると、私はそれを中国人労働者に分け与えた。居住区は中国人と日本人は別だった。鉄道より西側は満人街で、東側は日本人街であった。……
今度の戦争では、日本は絶対に負けない、と思っていた。しかし昭和十九年ごろになると、中国人から「日本はやがて無くなるよ。日本軍は弱い」などと言われ悔しかった。それでも私たちは平常通り、終戦まで働いていた。
満州でも昭和二十年八月十五日に終戦になった。その後、ソ連軍が進駐してきた。ソ連軍は、我々の工場にもきて、その機械設備の解体を命じた。私たちは、解体作業を3か月間(8月~10月)で終えた。ソ連軍は解体された機械を汽車で運び去った。……
終戦になって私は不安になった。このままここで、犬の餌食になるのか、カラスの餌食になるのか、……いつになったら故郷沖縄へ帰ることができるだろうか、あるいはもう沖縄へは帰れないかも知れない、と思ったりして不安な毎日だった。郷里に残した家族のことも心配であった。……
私たちは工場の解体作業を終え、ソ連軍に設備品を引き渡すと何もすることはなかった。食料品も少なく、生きていくだけで精一杯であった。私は社宅の寮で寝起きし、友人と二人でブリキ工などをしていた。私たちは市内の各戸を回り、即製のバケツやジョロなどを作って、それを生活の糧とした。終戦になると私は満人に偽装した。髭はぼうぼう、服は満人服をつけ、体は垢だらけであった。多くの日本人が満人に偽装した。中国人はそれを見分けるために、褌〔ふんどし〕をはいているかどうかで見分けた。……
昭和二十年の十二月ごろ、日本人寄留民協会から待機命令を受けた。中国人と争わないために、あまり外出はしなかった。……私は中国語が話せたので、街で中国人に会っても疑われなかった。……
昭和二十一年九月二十四日、沖縄に帰還することができた。第4次移民の83人から、無事帰ってきたのは私を含めて13人しかいなかった。ソ連へ捕虜として連れて行かれたものもいた。私たちは会社員だったので、捕虜として鞍山市に抑留されていた。県出身の看護婦も何人かがソ連軍に抑留され、旧満州製鉄病院でソ連兵の傷の手当をさせられていた。……
三年余も満州にいて今度の戦争を体験したが、最も印象深いのは、終戦直後、中国人に親切にされたことである。中国人は私たち沖縄人を琉球人と呼び、日本人と区別していた。中国人と琉球人は朋友(ポンユー)だ、と言って親切にしてくれた。琉球人は中国大陸から移動した民族だ、と言って友人あつかいした。また、終戦後、一か年余も満人に偽装して、ブリキ工をしながら悲惨な生活を送ったことも一生忘れることができない。

週刊かけはし

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