辺野古新基地を白紙撤回し軍拡政策の無限ループ抜け出よ

沖縄報告 4月25日
沖縄 K・S

4月28日とは何の日?

 4月28日がまもなくやって来る。といっても、4月28日って何の日? という若い人たちもいるかも知れない。戦後米軍による沖縄の占領と分断を経験した世代にとっては、4月28日は特別な意味を持っており、4・28沖縄デーというと、沖縄の本土復帰闘争の焦点となった闘いの日であり、与論島近くの北緯27度付近での海上集会、日本本土各地での連帯の催しなどが開催された。1960年代末から70年代初めにかけて、東京の晴海埠頭では、沖縄からの代表団を迎える歓迎デモが取り組まれた。「B52撤去・渡航制限撤廃」という沖縄のコールの新鮮な響きを記憶している人たちも多いだろう。
 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した。ソ連、中国が参加しない、いわゆる単独講和であったが、日本は国際的に独立国としての地位を回復する一方、沖縄は米軍の直接軍事占領下に留め置かれた。米軍が沖縄を分断し軍事支配を継続する上で、天皇と日本政府の積極的な支持があった。
 
天皇メッセージとは?

 1979年公開されたアメリカの外交文書に、いわゆる天皇メッセージがある(沖縄県公文書館所蔵)。1947年9月、昭和天皇が側近の宮内府御用掛・寺崎英成を通し、沖縄の長期占領を希望することを口頭で伝えたものである。GHQの政治顧問シーボルトが要旨をまとめ、「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」と題した書簡に添付し米国政府に報告した。
 
 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。天皇の見解では、そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護を与えることになる。……
 さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島々)にたいする米国の軍事占領は、日本の主権を残したままでの長期租借―25年ないし50年あるいはそれ以上―の擬制にもとづくべきであると考えている。天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野望を持たないことを日本国民に納得させ、また、これによる他の諸国、とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。
 手続きについては、寺崎氏は、(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の二国間条約によるべきだと、考えていた。寺崎氏によれば、前者の方法は、押しつけられた講和という感じがあまり強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある。

 こうしてスタートした日米関係が、米軍を絶対的支配者とし、沖縄をはじめ全国の基地の自由使用と自衛隊の従属を内容とする日米同盟として今日まで継続している。
 1972年5・15沖縄返還の年の秋、沖縄海兵隊の米本国への統合が検討されたという。海兵隊は、兵隊の数も、基地面積も、犯罪の多さでも際立っている。その海兵隊がいなくなるというのなら沖縄県民にとって歓迎だ。しかし、日本政府が「慰留」した。

モンデール氏の証言

 また、先日亡くなった米国のモンデール元副大統領は1996年、橋本首相と普天間基地の返還合意を発表したことで知られているが、2004年の普天間基地の返還合意に向けた交渉経過に関する米政府内の口述記録によると、「彼ら(日本政府)はわれわれ(沖縄駐留米海兵隊)を沖縄から追い出したくなかった」と証言している。いくら口先で「沖縄の負担軽減」を唱えても、沖縄基地を固定化している共犯者は日本政府なのだ。
 もういい加減、断ち切ろう。天皇と日本政府の指導者たちは、アジア諸国との対抗の中で米軍と一体化し、いわば「狼の衣」を借りて安心したいだけなのだ。そうしている間に、日本はますます斜陽化し没落し誇りのない国になっていく。国境なき記者団が4月20日発表した今年度の世界各国の報道自由度ランキングで、日本は一つ順位を下げて67位となった。みんなは危機意識を持たないのか?
李鶴来さんが亡くなった。追悼

 先月下旬、元BC級戦犯とされた在日韓国人の李鶴来(イ・ハンネ)さんが亡くなった。李鶴来さんは1942年、17歳の時、「創氏改名」の「広村」の名で朝鮮半島から動員されてタイに派遣され、「泰緬鉄道」の「捕虜監視員」という日本軍軍属として配属された。そして捕虜虐待の容疑で、戦犯裁判で死刑判決を受けた。日本の戦争犯罪のために連合軍によって戦犯として起訴された朝鮮人は148人。うち23人に死刑が執行された。独房で絞首刑を待ちながら、死刑台に仲間を見送った李鶴来さんはその後減刑され、スガモ・プリズンに送られた。
 ところがサンフランシスコ条約が成立すると、「外国人」として、日本の法的保護の外に放り出されるという理不尽を体験した。その後、スガモで70人の仲間と共に結成した同進会を中心に、日本政府に対する根気強い要請を長年続けてきたが、李鶴来さんが最後のひとりとなっていた。
 「同進会を応援する会」の内海愛子(恵泉女学園大名誉教授)さんや遺族の関係者、超党派の日韓議連のメンバーたちが国会内で、李鶴来さんを追悼して「外国籍BC級戦犯者問題解決のための早期立法を願う集い」を開いた。日本は自身の戦争犯罪をいつまで無視しほうかむりを続けるのか。詳しくは、李鶴来『韓国人元BC級戦犯の訴え―何のために、誰のために』(梨の木舎、2016年)。
 天皇制国家の戦争犯罪を反省しないこと。日本の指導層が米軍と一体化し続けること。この二つは同じ事である。

辺野古の浜でアピール行動

破綻した辺野古埋立
工事を中止せよ!


 4月24日土曜日午前、ヘリ基地反対協議会主催の海上アピール行動が辺野古の浜(松田ぬ浜)で行われ、62人が参加した。予定していた海上でのアピール行動は、台風2号による高波のため、浜で行われたが、カヌーメンバーはいつものようにウエットスーツに身を包んで集まった。

米国内でも湧き上がる辺野古困難の声

 埋め立ては破綻している。軟弱地盤の改良工事をはじめ、大がかりな変更申請を行わなければならないという事実そのものが埋め立て工事の破綻を示している。日米会談で「唯一の解決策」と強弁しても、アメリカからも疑問が出ていることをタイムスの特約記者・平安名純代さんが次のように伝えている。

 米議会調査局(CRS)は最新報告書で新基地建設を「物理的に困難」と指摘した。米政府監査院(GAO)が3月に公表した報告書で、国防総省が環境的要因で工期に大幅な遅れが生じていることを認めたとして、「複雑な問題」に直面していると記した。保守系シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)も、工期の度重なる延期や工費の高騰に言及し「完成の見込みは低い」と書いた。
 日本の政治の悪弊の一つは、いったん決めた国策は何があっても変えない、ということだ。戦前の戦争の数々の局面、原発、干拓、最近ではオリンピックがそうだ。硬直した国家指導層の態度が国民大多数を不幸に陥れる。辺野古埋め立てを中止せよ。新基地建設を白紙撤回し、軍事拡大政策の無限ループから抜け出よ。

沖縄県が防衛局に105件の質問状

 沖縄県は4月22日、沖縄防衛局に対し、埋め立て設計変更に関して「より詳細に確認すべき事項がある」として、質問状を送付した。内容は、軟弱地盤の力学的試験の必要性、地盤の安定性、ジュゴンや生態系への影響、汚濁防止膜の除去率の問題、など計105件にのぼるといい、5月11日までの回答を求めた。その上で沖縄県は、埋立変更申請に対する最終判断を下すことになる。時期は5月中旬以後になろう。沖縄県は変更申請を認めない。政府防衛局は埋め立て工事を断念せよ。
 また沖縄県の知事公室は、2015年、翁長雄志知事の時にアメリカに設置したワシントン事務所の6年間の活動報告書をまとめた。それによると、昨年度面談した米国関係者は587人、初年度の190人の3倍以上に増えたという。米国での活動は簡単ではないだろう。しかし、沖縄県が新基地反対の民意を背景に、日本政府に対抗する独自の地方政府として立場を明らかにし働きかけることは非常に貴重で意義ある行動だ。沖縄は決して屈しない。米国は辺野古新基地建設をあきらめ、沖縄駐留米軍を撤退させよ。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(51)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。今号では、満鉄に勤務していて徴兵され、ソ連軍との戦闘を経て捕虜となりシベリア抑留生活を送った宜野座村の仲間さんの体験を紹介する。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

「宜野座村誌」第二巻 資料編1「移民・開墾・戦争体験」(1987年発行)

仲間清
「満鉄入社とシベリアでの抑留生活」


 私は昭和十七年(1942)二月十日に、満州国にあった南満州鉄道株式会社「満鉄」に入社しました。県立農林学校時代に募集があり入社試験を受け合格したのです。……満州に行くようになった動機は、戦前の封建的な家族制度の下で四男の立場から進路を大陸の満州に求め満鉄に志願したのです。向こうで骨を埋めるつもりで行きました。
 満鉄で二か年余り働いて二十歳になったので徴兵検査を受けました。昭和十九年五月一日、自動車輜重兵として満州第7574部隊に入隊しました。……
 この教育隊の訓練中に第一線に動員され、牡丹江の近くで、敵のソ連兵と300mの近くまで接近し、まる三日間猛烈な戦闘にも参加しました。……ソ連の大型戦車を封ずるために、一度だけですが、肉薄攻撃といって20キロ火薬を抱きかかえ、兵隊もろとも戦車に突入して自爆する場面を目撃したことがありました。
 この頃から私は、戦争について怖いという気持ちはおこりませんでした。小隊での沖縄県人は私一名だったし、沖縄は玉砕したというし……。それで砲弾が耳の側から飛んで行っても、私は怖いという気持ちはおこりませんでした。ただ、どうせ死ぬならいい服を着て死のうとする心が働いて、一日三回衣服やふんどしを着替えたこともありました。……
 ソ連との戦況で、もはや日本軍が勝てないという見通しがついたものですから我々の小隊長は、30キロメートル後方に堅固なる陣地があるので、そこまで後退してから戦うんだと言って、昼夜歩き通しでそこに向かいました。行軍の途中、敵の飛行機によって多くの人馬がやられていきました。そして、その堅固な陣地に着いた直後にソ連軍が進攻して来て、いきなり包囲され、武装解除、身体検査、所持品の没収がなされました。その時、上官は敗戦の詔書が下ったことを知っていたので、「抵抗するな」との命令でした。収容された場所は、オオドカシというところです。そこには九月二十日頃まで収容され、ソ連のきびしい捕虜管理の下でソ連への入国の準備をさせられました。ソ連は、捕虜に強制労働をさせる計画で、作業の大隊が編成されました。貨物列車に乗せられてスイフンガ国境を越えてシベリアの収容所に送られたのです。……
 収容所は丸太で周囲が囲まれ四隅に監視台があってそこで銃を持った衛兵が見張りをしていました。作業は線路を敷くための枕木の伐採をしたり、線路の地ならしで、毎日続きました。冬の作業は大変で零下30度までは作業をさせられましたが。30度以下になると休みでした。毎日、体力検査があり、一級から三級に分けられ、三級は軽作業に当てられました。体力に応じた作業の分量があり、作業の能率に応じて翌日の食料分量が決められました。……「働かざる者は食うべからず」の考えでやっていました。食べ物は、黒パンにスープ、粟、たまに、米もありましたが、肉類は口にしたことはありませんでした。収容所での食料は満州から運ばれて来た元日本軍の食糧が主だったと思います。私は二十三、四歳で若かったので体力もあり丈夫でしたが、年輩の方々は飢えと寒さで倒れて死ぬ人が多かったと聞きました。収容所は人里離れた山の中にあったので、一般のソ連人、女、子供も見たことがなかったです。
 ……そうこうしているうちに、日本人捕虜300名の中から15名帰れるとの話があったが、はじめは信用できなかったです。しかし内心、15名だけだからほんとかも知れないと思ったりもしました。この時の選考の条件として、よく働いた人、百姓出身、思想的に大丈夫というのが条件でした。私もそれに該当したのか15名の中に入りました。……ソ連出国時にもきびしい取り調べがありました。たまたま軍隊時代に兵隊をいじめた下士官と元部下がいて、「こいつは軍隊時代に我々部下をいじめた奴だから日本に帰すな」と要求が出され、ソ連はその要求を受け入れて、とうとう帰されなかった人もいました。元下士官は土下座してわびたが、結局、許されなかったのです。
 我々は昭和二十二年十月二十日にナホトカを出港してから十一月九日に北海道の函館に着きました。……

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