沖縄報告 5月30日

辺野古新基地を白紙撤回し
米海兵隊は沖縄から撤退せよ
沖縄 K・S

沖縄基地の全国比率を50%以下に!
玉城知事が上京し、日本政府に要請

 玉城デニー知事は5月27日、1972年5月15日の沖縄の日本復帰から来年で50年になるのに先立ち、沖縄の米軍基地の割合を現在の70%超えから50%にするよう求め、上京して岸防衛相に要望書を手渡した。
 夕方のテレビニュースを見た友人Kさんは、政府の答えが「やるべきことは辺野古埋立が先だ」というものだったことに怒りをあらわした。岸防衛相は「日米の現行の取り決めを実施して負担を軽減する」というが、返還が決まっている米軍基地をすべて返還したと仮定しても、沖縄基地の割合は1%減って、69%になるに過ぎない。
 米軍基地の縮小を熱望する県民の願いが反映された、「50%以下に」という玉城知事の要望に日本政府はまともに向き合っていない。戦後、沖縄が米軍によってどれだけ苦しめられたか。命を奪われ、傷つけられ、土地と海と空を奪われ、安全を脅かされているのは単に過去の話ではない。現在に続く毎日の日々の問題なのだ。自国政府が自国民の要望を軽視してはばからないのは、日本の政治の不幸だ。安倍、岸兄弟をはじめ、国家権力を掌握する政治家たちはもっと謙虚になれ! 国民に対し、沖縄をはじめ地方の人々に対し、海外の国々に対し、素直に耳を傾けよ!
 「沖縄の米軍基地の全国比率を50%以下に」というのは、今年2月16日の沖縄県議会定例本会議で、玉城知事が県政運営の所信を表明した中で、明らかにしたものである。玉城知事は、「県議会でこれまで二度沖縄の海兵隊の撤退をはかることを全会一致で決議していることを重く受け止め、米軍専用施設の比率を全国の50%以下にすることを目指す」と述べたが、米海兵隊の撤退について言及していない。
 実際、海兵隊の撤退がなければ、50%以下にはならない。そういう所から、「具体策がない」「根拠があいまい」などという批判が投げかけられているが、「比率50%以下」というのは、誰でも肌で感じることのできる当然の数字ではないか。50%以下にするにはどうしたらいいか、政府と役人と国会がよく考えよ。
 沖縄県基地対策課の2018年発行の『沖縄の米軍基地』によると、2017年3月31日現在の日本全国の米軍専用施設の面積は約2万6400ha、沖縄は約1万8600ha、沖縄以外の日本は7800haである。沖縄の海兵隊の面積は、米軍基地全体の70%、約1万3100haを占める。海兵隊がなくなれば、沖縄の米軍基地は約5500ha、全国比率で40%余りまで落ちる。海兵隊以外の沖縄のすべての基地をなくしたとしても、約63%。したがって、比率を50%以下に落とすためには海兵隊を撤退させる以外ないのだ。
 米軍は沖縄戦と共に沖縄に上陸し戦闘し占領し居座った。多くの国民は76年前の沖縄戦にも米軍の沖縄占領にも責任がない。しかし、米軍に追随し、沖縄基地固定化を進める現在の日本政府に対しては責任を負っている。国民は自分たちの選んだ政府に対し、その政府が行う政策に対し、無責任であることはできない。来年は沖縄の本土復帰50周年を迎える。沖縄を軽視し踏みつける日本政府を退陣させよ!

戦争の記憶が刻まれている3~6月
凄惨な沖縄戦は誰のためだったのか?


 1945年3月の米軍の慶良間上陸から始まる沖縄地上戦の記憶は、戦後76年経た今日でも、明確に刻まれている。
 3月26日 米軍の慶良間諸島上陸
 渡嘉敷島などで「集団自決(強制集団死)」
 4月1日 米軍の西海岸上陸
 4月2日 チビチリガマの惨劇
 嘉数高台など第1防衛線での激戦
 前田高地など第2防衛線での激戦
 安里・真嘉比など第3防衛線での激戦
 5月22日 首里城地下司令部での日本軍参謀会議
 首里城から摩文仁への撤退開始
 6月23日 牛島司令官・長参謀長の自死
 6月の今頃の時期は住民10数万人が避難していた沖縄島南部に、米軍との戦闘に敗れた日本軍将兵数万人が逃げ込み、軍民混然となった戦場での戦闘の継続により、多数の住民が命を失っていった。犠牲者たちの家族、親戚、遺族、子孫たちはこの戦争の日々を忘れていない。いや、忘れられない。
 第32軍ナンバー3の八原博通高級参謀が中心となり打ち出した「戦略持久戦」は、のちに米軍からは「すぐれた戦術」として評価されたというが、内実は、天皇と大本営の戦争引き延ばしの要請に応えただけで、住民や兵士たちの命を全く顧みないものだった。沖縄戦がこれほどまでの人的物的被害と破壊をもたらしたのは、まさに、この「戦略持久戦」すなわち、負け戦を引き延ばし、米軍を沖縄に長く足止めするという戦術にあった。
 元毎日新聞の藤原健さんは、琉球新報2021年5月22日に寄せた記事で、5月22日の地下司令部壕での第32軍傘下の参謀会議で「喜屋武半島への撤退」を決めたことが、「ありったけの地獄を一つにまとめた沖縄戦」に住民を引きずり込んだ、と指摘し、その目的は「国体護持」であり、沖縄を捨て石にするものだったと述べている。
 全くその通りである。
 天皇を守るために十数万の県民の命を奪い傷つけ自然を破壊しつくした沖縄戦の日本軍、首里城地下の司令部壕を戦争犯罪の歴史遺産として残そうという動きが行政、市民運動の両面から活発になっている。第32軍司令部壕の保存・公開を求める会は現在、数カ月前に作成した地下司令部壕のジオラマの展示を各地で巡回して進めている。今年1月、沖縄県に設けられた第32軍司令部壕保存・公開検討委員会は2度の会合を開き、保存・公開に向けた検討を進めている。
 首里城地下の司令部壕は必ず保存・公開しなければならない。首里城は地上の世界歴史遺産と地下の戦争遺跡が一体となって共に公開されてこそ、平和な世に歴史文化を発信することができるのだ。

緊急事態宣言下で続く現地行動
辺野古埋立に拍車をかける菅政権


 沖縄県の緊急事態宣言は6月20日までとなっているが、辺野古、安和、塩川、海上の現場では、連日、当番の団体による監視行動と自主的な市民による抗議行動が続いている。
 米軍に奉仕することにのみ汲々としている菅政権は、コロナのまん延と抗議行動の縮小をチャンスとばかり、埋立を加速している。琉球セメント安和桟橋に山積みされていた赤土土砂はほとんど空っぽ状態になった。すべて辺野古に運ばれたのだ。
 桟橋の出口近くには、アカバナ(仏桑花、ぶっそうげ)がぽつんと咲いていた。友人のHさんは、このアカバナを見て、山原健二郎(高知県出身の衆議院議員)さんの詩を思い出したという。

 仏葬花
 そこには咲くな
 そこは基地
 汝が紅は
 沖縄のもの
 
 本部塩川港では、これまでの台船に加えて、5月26日からベルトコンベアー2台が稼働し始めた。10台近くのダンプが常に行き交い、現場は混乱した。県土木事務所は「平等な取り扱い」の建前を理由としながら、その実、荷捌き場の広い部分を特定の業者に占有させるという不公平な港湾行政を行っている。地方自治体を支配する中央政府の論理に完全に取り込まれてしまっていることに気が付かない。「辺野古反対が県政の柱」などというスローガンが泣く。沖縄の自主的な自治行政をつくり上げよ。詳しい経過は、ブログ『チョイさんの沖縄日記』をご覧いただきたい。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(52)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。
 戦争の加害と被害は一体である。始まりは日本軍の海外派兵・アジア侵略であったが、敗戦による幕切れは沖縄戦と広島・長崎の原爆、満州とシベリアの苦しみに帰結した。敗戦後、ソ連軍による武装解除とシベリア連行・強制労働を体験した沖縄出身兵はかなりの数に上り、悲惨な捕虜生活の体験を記録した証言も多い。
 今回紹介する宜野湾市の宮里さんは、1941年、32歳で召集されて満州に派遣され、シベリアで3年間の過酷な捕虜生活を送った。沖縄に帰ってからは、CIC(アメリカの対敵諜報部隊)に呼び出されて思想調査をされたことを記している。引用は原文通り、省略は……で示した。

『宜野湾市史』第3巻 資料編2「市民の戦争体験記録」(1982年)

宮里亀太郎
「極寒のシベリアで重労働」


 私が召集を受けたのは昭和十六年で、32才の時であった。入隊したのは熊本県の西部第21部隊、野砲兵第6連隊であった。いわゆる7000部隊の前身部隊であった。
 7000部隊というのは満州で変名された連隊名だが、全員がシベリア行きになるという苦痛を受けた隊でもあった。……
 収容所(ラーゲリ)生活は、軍隊生活にさらに輪をかけたようなものであった。軍隊生活は「お国のために働いているのだ」という気持ちがあったが、収容所では何も目的もなかった。極寒の山奥で、ただ敵国のために無駄な労働をしているということだけであり、これが精神的にこたえた。
 最初は、自分らが寝泊まりする宿舎建設からはじまった。宿舎建設といっても、人が住む家をつくるといったようなものではなく、非常に雑な家であった。クギもないので、ハリガネをクギの長さにオノで切って使った。
 私たちはシベリアで三年間、捕虜生活を送ったのであるが、ここで大変こたえたのは、寒さと重労働と食料の問題であった。……
 ノルマは一人で1立方メートルの木を伐採して積んでおくことであった。それを見張り人が計り、合格点をつけるのである。二人一組であるため、それを二人分作らなければならなかった。ノコギリも二人で木をはさむように向かい合って座り、交互に引っ張って木を倒すのである。……
 この仕事は、収容所から3キロほど離れた山奥で行なったが、身体の弱い人は炊事班にあてられた。だが山奥で働く人はその人たちの分までノルマを課せられたのである。このノルマの算定は月単位で決められ、ノルマを果たした人は月に三日間の休暇を与えられた。私はこの休暇の日はソ連人の家の棚を作る仕事をして、タバコをもらったりしたことがある。
 食事はあまり栄養のあるものは与えられなかった。最初は、全部私たちが輜重車に積んで運んでいた日本軍の食糧を少しずつ配給されたのである。朝食と夕食の主食は、野菜をいろいろごった煮した上に米をパラパラ入れたものであった。ちょうど沖縄のボロボロジューシー(雑炊)のようなものだったが、米粒はもっと少なかった。しばらくするとトウモロコシが主食になった。
 こんな生活は貧しかった沖縄でもなかったのではないか。人間という品位がすべて打ち消され、動物なみの環境でも生きることができるのだという見本を見せているようなものであった。
 そんな中でも、若い人々を呼び集めて思想教育をしていた。私たちの年齢になった者はそれから免れたが、いったん収容所を出るという時は「赤旗」の歌を覚えさせられた。……この歌を覚えないものは出所させないということであったので、無理に覚えたのであるが、沖縄に帰った時はもう忘れていた。
 帰還したのは昭和二十三年十一月二十三日であった。ナホトカから船に乗り、舞鶴で船を降り、それから沖縄に向かい久場崎に着いた。
 沖縄に来てからは、私はずっと米軍の基地で働き、定年退職するまでそこにいたのであるが、最初は米軍は何の警戒もしなかった。だが、しばらくして那覇の垣花にあるCIC(アメリカの対敵諜報部隊)に呼び出されて思想調査をされた。私は別にシベリアに行ったことを誰にも言っていなかったのだが、CICはどうして調べたのか、私を呼びつけていろいろ調査したのである。「ほかにシベリアに行った人はいないか」とか、「現在ソ連のことをどう思っているか」などいろいろ聞かれた。ウソ発見器のようなものも二回ほどかけられた。……
 しかし今から考えると私の戦争体験というのは、ただ飢えとの闘いだったのではないかと思ったりする。とにかくいやな戦争であった。

週刊かけはし

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