沖縄報告
6・23慰霊の日を迎えて
沖縄戦の慰霊とは新基地を造らないこと
沖縄 K・S 6月27日
6月23日慰霊の日は沖縄県だけの公休日
沖縄戦終了から76年を迎えた6月23日・慰霊の日。平和祈念公園に設置された平和の礎にはこの日も朝早くから、多くの遺族の方々が足を運び、花束や飲み物、ヒラウコー(平御香)をそれぞれの刻銘板の前にお供えした。朝鮮人犠牲者464人の名前が刻まれている刻銘板の前でも、赤い実をつけたトウガラシや飲み物と共に「日本の戦争で犠牲になった朝鮮人の皆さん、その死を無駄にしない」とのメッセージが置かれた。
ひめゆりの塔、白梅の塔、一中健児の塔など学徒隊や八重山の戦争マラリア犠牲者慰霊之塔など、各地の慰霊塔には家族連れで訪れる追悼の人波が絶えなかった。
慰霊の日が制定されたのは、米軍政下の1961年。琉球政府立法院は「住民の祝祭日に関する立法案」にいくつかの祝祭日の一つとして、第32軍の牛島司令官らが自死した日とされる6月22日を慰霊の日と定めた。その後1965年になって、6月23日に変更された。当時の立法院議員・古堅実吉さんによると「参考人の証言で決まった。議論を重ねたわけではない」と言われるが、今日まで定着してきた。
コロナで行動を制限されながらも、今年も、タイムス・新報・各テレビ局による沖縄戦の体験を取り上げた特集・企画記事や番組、小中校での平和教育、ガマや戦跡めぐり、平和祈念資料館やひめゆり平和祈念資料館での展示・講話などがおこなわれ、沖縄戦体験の継承に努力がはらわれた。
今年、平和の礎には41人が新たに追加刻銘され、刻銘者数は合計24万1632人、うち沖縄県民は14万9584人に上る。軍人軍属を含む県外都道府県の死者数が7万7456人であるので、沖縄の死者数はその2倍近くに達することになる。本土防衛の盾として、戦争を長引かせるだけの持久戦を強いられた戦場の住民がいかに甚大な被害を被ったかを示すものだ。
そして沖縄は今また、広大な米軍基地の存在に加えて、米海兵隊の辺野古新基地建設、琉球列島の島々での自衛隊配備によって、戦争の最前線基地にされていこうとしている。
日米両政府は沖縄の軍事利用を止めよ。県民投票で示された新基地反対! 埋立ストップ! の県民の総意を踏みにじって強行される辺野古新基地建設は沖縄に対する軽視・蔑視・差別に貫かれている。日本の国民は自国政府の犯罪を止めなければならない。
摩文仁で沖縄全戦没者追悼式
玉城知事が「辺野古唯一」に異議
慰霊の日の正午から開かれた沖縄全戦没者追悼式は、通常数千人規模の集まりとなっているが、今年は規模を大幅に縮小して各団体の代表等36人だけの参列となった。
玉城デニー知事は平和宣言で、「国土面積の約0・6%の沖縄県に米軍専用施設面積の約70・3%が集中し続けていることにより、騒音、環境問題、米軍関係の事件・事故が後を絶たない状況にあります。……日米両政府は、県を含めた積極的な協議の場を作っていただき、辺野古新基地建設が唯一の解決策という考えにとらわれることなく、『新たな在沖米軍の整理・縮小のためのロードマップ』の作成と、目に見える形で沖縄の過重な基地負担の解消を図っていただくことを要望します」と述べた。
県遺族連合会の宮城篤正会長は、「未だに遺骨、不発弾が発見され、沖縄の戦後は終わっていない」と指摘し、「二度と戦没者遺族を出さないという強い信念をもってこれからも活動を続けていく」と結んだ。宮城さんは、今年4・28のインタビューでも、「南部に限らず沖縄は遺骨だらけ。沖縄の土を辺野古埋立に使うのを認めたくない」と述べている。これはまさに遺族全体の気持ちだ。
宮古島の上原美香さんが平和の詩を朗読
みるく世を創るのはここにいるわたし達だ
宮古島市立西辺中学校二年生の上原美香さんは降りしきる雨の中、平和の詩「みるく世の謳(うた)」を力強く朗読した。上原さんの詩は、今年度「児童・生徒の平和メッセージ」の詩部門1500点の応募の中で最優秀賞を獲得したもので、非常に素晴らしい。この詩はNHKWEBニュースで視聴することができる(【全文】中学生が追悼式で朗読 ことしの「平和の詩」とは 沖縄 |NHKニュース)。一部を紹介しよう。
私は知っている
礎を撫でる皺の手が
何度も拭ってきた涙
あなたは知っている
あれは現実だったこと
煌びやかなサンゴ礁の底に
深く沈められつつある
悲しみが存在することを
凛と立つガジュマルが言う
忘れるな、本当にあったのだ
暗くしめった壕の中が
憎しみで満たされた日が
本当にあったのだ
漆黒の空
屍を避けて逃げた日が
本当にあったのだ
血色の海
いくつもの生きるべき命の
大きな鼓動が
岩を打つ波にかき消され
万歳と投げ打たれた日が
本当にあったのだと
詩は最後に「みるく世を創るのはここにいるわたし達だ」と結んだ。
沖縄タイムスとヤフーがアンケート
75%が慰霊の日を知らないと回答
沖縄タイムスとヤフーが十代以上のヤフーユーザーを対象に実施した全国アンケートで、回答者2千人のうち、75・5%にあたる1509人が6月23日の慰霊の日を「知らなかった」と答えたという。また、沖縄戦を学校で学んだ記憶については、28・2%(564人)が「学んだ記憶がない」、24・7%(494人)が「学んだかどうか分からない」と答え、「中学校で学んだ」は19・9%(398人)にすぎなかった。
ここに現在の日本の歴史教育の問題が凝縮されている。慰霊の日にとどまらない。沖縄戦に至る歴史、沖縄戦の実相、その後の米軍政支配の歴史と本土復帰後の実態など、沖縄に関して国民は知らなすぎる。日本のアジア侵略の歴史に関してもおそらく同様だろう。またこのことが、沖縄基地の固定化や中国・朝鮮に対する不毛な軍事対決など誤った国策がまかり通る背景になっている。
教育の場で、また草の根で歴史を学び広めよう。
ガマフヤーの具志堅さんらがハンスト
糸満・八重瀬地区の土砂採取を中止せよ!
昨年、沖縄防衛局が提出した辺野古埋立変更申請に対して、沖縄県は6月16日、4度目の質問状を送り、水面下90mに達する軟弱地盤の力学試験が必要ではないか、ジュゴンに対するより詳しい調査が必要ではないかなどと問いただした。回答期限は6月30日となっている。県の最終的な判断はその後下されることになる。玉城知事はかねて、埋立変更申請は認めないと言明している通り、不許可にするに違いない。日本政府はこれ以上民意を無視することなく、辺野古埋立を中止し新基地建設を白紙撤回せよ。
平和祈念公園の一角では、ガマフヤーの具志堅さんと「平和をつくり出す宗教者ネット」など支援者のハンストが慰霊の日までの5日間行われた。テントには「遺骨は遺族のもの。戦争基地に投げ込むな」との手書きのスローガンが垂れ下がり、署名用紙や資料が並ぶ中、ビニールシートの上では十数人が座り込んでいる。多くの取材陣も周りを取り囲む。
また、沖縄平和サポートなど支援者の団体は、「遺骨混じりの土砂を新基地建設の埋め立てに使わせてはなりません」との新聞折込チラシを糸満・八重瀬地区に配布し、宣伝カーをくまなく走らせた。平和市民連絡会は連日朝、県庁前で、「史上空前の無駄な公共事業=辺野古新基地(2兆5千5百億円)直ちに中断し、コロナで苦しむ国民の救済に回せ!」との横断幕を掲げて、スタンディングを続けた。
糸満・八重瀬地区から計画されている大量の土砂採取を中止させ、南部の沖縄戦跡国定公園を保全しなければならない。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(53)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号では、1941年の関東軍特別大演習で召集されて満州に配置され、敗戦に伴ないシベリアに連行され強制労働を体験した玉城村の幸喜さんの証言を取り上げた。幸喜さんは、国営農場の責任者を務めていたロシア人夫妻との出会いを振り返り、感謝の念を記している。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。
『玉城村史』第6巻「戦時記録編」(2004年発行)
幸喜執吉
「私のシベリア抑留体験記」
昭和十六年六月十五日、臨時召集令状が届き「関東軍特別大演習により、那覇在松山国民学校に集結せよ」とあった。……その日から妻オトは、出征兵士の必携品である「千人針」の仕上げに忙殺される毎日が続いた。……特に、婦女の少ない農村地域においては大変な苦労を伴ったようである。なかでも寅年生まれで年輩の方は引っ張りだこであった。「寅は千里行って千里帰る」との諺から自分の年の分糸目を通してよいとされたのである。
また、糸は歯で噛み切るか手で引きちぎるもので、ハサミを入れて切ることは縁が「切れる」に繋がり縁起を担ぎ嫌われていた。……さらに、その中には五銭と十銭硬貨がぬいくくられ、必ず一針縫っては後に戻る、いわゆる「返し縫い」と呼ばれているもので、死線を越えて苦戦を免れ無事に戻るとの意味合いであったようである。……
……熊本西部第21部隊野砲兵第6連隊に応召と伝達され、十九日の深夜に輸送船に乗り込み家族との面会も許されず密かに出航し、鹿児島経由熊本連隊本部に入営し、今度は独立輜重〔しちょう〕兵第64大隊に編入との伝達であった。……
当時の国際情勢からして兵士の移動等は一切機密扱いとされ、すべて隠密裏に深夜に行われていた。わが大隊も八月十四日に密かに原隊を離れ、熊本駅にて39式輜重車を軍用列車(貨物車)に搭載し、門司港で軍の徴用船に積み替え深夜に行き先も知らされずに出航したのである。
……
昭和二十年八月八日、ソ連は我が国との不可侵条約〔正しくは、日ソ中立条約〕を一方的に破棄して宣戦布告をした。……十五日の無条件降伏により武装放棄した。……
広大な森林地帯に収容所があり、逃亡を企てる者はいなかった。それは戦友同士の結束と励ましによるところも大であるが、人類未踏の山奥で命を断つことは犬死に等しいとの認識と、いつかは戦友と共に帰国できるとの一縷の望みを抱き、連帯意識があったからこそ生き延びられたと戦友に感謝している。特に、雪深い原生林での伐採作業は毎日が死との戦いであった。支給される食事は決まって黒パンに具の入らないスープで、支給食だけでは体力が保たないので。雑草や木の実やヘビなどをとり飯盒に煎じて食べ飢えをしのいだ。……
毎日過酷な伐採作業に従事していたが、無理がたたったのか帰還する半年ほど前、急に右肩脱臼を患い、全く右手が上がらなくなったが、七週間ほどで動くようになるまで回復した。しかし、伐採作業では体がついていけないので、心配した戦友・宮里春行氏が、ソ連人責任者と掛け合い、倉庫内に保管されている馬鈴薯の選別作業にまわされた。大きさ別に選別する単調な仕事で数人のロシア人も一緒であった。そこで国営農場の責任者でロシア人夫妻との出会いがあった。夫妻の名は「ガーディン」「スクルーガ」といい、息子はハバロフスクで空軍中尉で活躍中であるとの話までしてくれ、我々を全く捕虜として差別することなく同胞として処遇してくれた。
ご夫婦は、我々の置かれた境遇にいたく同情し、皆がやせ細っている姿を見かねて、時折り、自宅に招き食事を振る舞ってくれたが、我々が遠慮して食べないと、気づかいして、ソ連では40坪程度の耕作は自由に認められており、そこから収穫した作物だから心配せず食べなさいと勧めてくれた。その食事は、黒パンにジャガイモをラードで焼いたもので、身に染みるような美味しさであった。さらに、帰りには取り立てのジャガイモを上層部には内緒で、同僚たちにも食べさせなさいと靴や脇などに数個ずつ忍ばせて持たせてくれた。それが五か月近くも続いたお陰で、戦友たちの体力も見違える程になり元気で帰還ができたのである。数個のジャガイモにすぎないが、その時は本当に命の糧であった。
国も立場も異なるが、人間として心温まる行為に対し、これまでの苦労や受けた心証も全く別次元の感さえした。ただ、感謝、感謝。私はこの事を一生の思い出として残しておきたいし、自身も彼らのように心清らかに一生を全うしたいと考え、実践しようと常に心掛けている。
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