7.11とめよう!戦争への道・めざそう!アジアの平和2021関西のつどい実行委員会

中村哲さんの意志を引き継ぎ世界の平和をめざそう!
真の平和主義と国際主義とは何か

 【大阪】ペシャワール会の中村哲さんが凶弾にたおれたのは2019年12月4日。この集会は、それから約1年後の21年1月16日にエルおおさか大ホールで予定されていたがコロナ禍で延期になり、7月11日に参加規模を縮小してやっと開催された。7月16日から開催される「表現の不自由展」と同じ会場であるため、7月11日当日は、カマボコ車2台が横に張り付き、会館の周りの随所に警官が配置され、物々しい状態。右翼の街宣車は大音響を流して、市民から不評をかった。集会は、とめよう!戦争への道・めざそう!アジアの平和2021関西のつどい実行委員会が主催した。

行動する憲法
9条体現者だ


 会場は参加者でほぼ満席の状態で、開会までの30分間、吉永小百合さんナレーションのビデオ『アフガニスタン 用水路が運ぶ恵みと平和』が上映された。集会司会の岡田大さん(全港湾大阪支部)は、「9条に基づく国際貢献とは何かについて、中村哲さんの遺志を引き継ぎ、アジアの平和をめざす集会にしたい」と開会あいさつをした。
 主催者あいさつをした中北龍太郎さん(しないさせない戦争協力関西ネットワーク共同代表)は、中村哲さんの死を悼んで地元アフガニスタンの人が詠んだ詞を紹介し、「戦火のアフガニスタンで40年以上にもわたって医療活動をやってこられた。アフガニスタンの干ばつに直面するや、井戸掘り・用水路建設に取り組んでこられた。これにより救われた命と生活は65万人にものぼるという。武器ではなく命の水を!このことを体で実践してこられた。
 アメリカはテロとは関係のない人々を10万人以上奪った。イラクでは、大量破壊兵器があるとウソをつき戦争を始めた。日本政府は米国のアフガン・イラク戦争を全面支持し、その果てに2015年戦争法をつくった。この進路が間違っていることは中村さんが身をもって示された。中村さんは真の平和主義を国際社会に示してこられた。まさに行動する憲法9条の体現者だ」と語り、中村さんの精神と行動を引き継いでいくことを誓い合おうと述べた。
 引き続いて、藤田千代子さん(PMSピースジャパン・メディカル・サービス総院長補佐、ペシャワール会PMS支援室室長)が、たくさんの映像を使いながら、中村さんが残してくれたことをテーマに講演した(講演要旨別掲)。

                   
西谷文和さんが
アフガン現地報


 藤田さんの講演に続いて、西谷文和さん(ジャーナリスト)が、米軍のアフガン撤退に伴い、政府軍とタリバンの主導権争いが熾烈になっていると最新の現地報告した。また、マルワリード用水ができる前の砂漠と出来た後の同じ場所の風景を比較した映像を紹介。用水を中村哲さんの案内で見学したとき、「(伊藤さんが殺害された後)危険だからみんな帰国させろとの指示で帰っていったが、現地の人は危険じゃないのか」、と中村さんがつぶやくのを紹介した。
 関生弾圧に対するアピール(西山直洋さん)のあと、米田彰男さん(平和人権センター代表)が閉会のあいさつをし、集会を閉じた。
(T・T)

藤田千代子さんの講演から
人間として普通のことをしていた

パキスタンからの医師
の派遣要請に応えて


 私が中村先生に会ったのはミッション病院、ハンセン病棟で一緒に働いた。当時はソ連軍が撤退した直後で、ペシャワールは難民であふれていた。至る所に難民テントがあり、中村先生はミッション病院とは別にJAMS(1989年発足の日本アフガン医療サービス)をつくった。
 中村先生はパキスタンで活動し、診療所をつくり、医療過疎地での診療を始めたが、現地の職員はみんな男性で、貧富の差が激しく、街は高級車が走る一方、羊飼いや馬車が走っていた。日本にいたときの目で見たらダメだと中村先生はよく言っていた。女性の職員は喜ばれた。ハンセン病の場合皮膚触診をするが、女性はベールをかぶって足首より上は絶対に見せない。でも、女性に対してフレンドリーで自由に触診させてくれた。
 ハンセン病は神経の病気で、クギなどを踏んでも痛みを感じない。だから、手術をする必要がある。私たちは国境辺境州を担当していたが、7000人の患者に、ハンセン病を診察できる医者は中村先生を含め3人、ベッドは17しかなかった。最初の私の仕事は、手術器具を集めることだった。中村先生は、朝から晩まで手術で忙しかった。国境から車で2時間のペシャワールの難民キャンプには、ハンセン病以外に日本では経験することのないマラリア・腸チフス・赤痢患者が多く、治療すればすぐよくなった。
 
医療過疎地
に診療所を


 ソ連軍の撤退後。難民がどんどん故郷に帰ってきた。1991年頃から、各地に診療所づくりを始め、その設置場所探しに行ったが、大きな石がゴロゴロの急な道で、休暇で福岡に帰るとき、乗馬なんか練習しておくといいよと中村先生に言われたことの意味が初めてわかった。こんなところに診療所をつくるのは先生の趣味じゃないのか(先生は若いときティリチミール遠征隊の同行医師だったので)と言ったことがあるが、本当の重傷者は山から下りて来れないので、みんなが担いで下りてくる。それなら、こちらから出向いて行こうということだった。
 山の診療所での外科手術のときは、懐中電灯を使った。酸素ボンベだけは常に備えていた。酸素吸入自体が高度医療で、人は息苦しくなると不安を感じるものだと中村先生は言っていた。酸素がなくなると、山の下の町まで担いで下りて、充填してもらいまた担いで上がった。消毒は、アルコールをかけて燃やして行った。
 
現地に土着化し
てやっていこう


 医師になって15年。ハンセン病患者は、中村医師はいつ帰国するのかよく聞きに来た。外国からの支援組織は普通2年で帰国していたからだ。資金が続く限り、現地に土着してやっていこうと決意し、1998年、70床のベッドをもつペシャワール病院を独力で建てた。
 病院は教育の場でもあり、心電図の見方などは教えたが、腸チフスなどの治療は現地の職員に教えてもらった。上から一方的に教えるのではなく、教え教えられる関係だと中村先生は言っていた。診察で心電図や血液検査、レントゲン撮影が必要と言われた患者は病院外のバザールの店で検査を受け、再び帰ってきて診断してもらった。ペシャワール病院にくる患者は、ボロボロになってくるので、彼らにとって病院がオアシスになるように、食物・着物があり安心して過ごせる場所にしようと考えた。庭師に来てもらって、きれいな庭も造った。

これは薬で
は治らない


 2000年の大干ばつで、アフガニスタンの人口の半分が被災し、飢餓線上の人400万人、餓死線上の人が100万人。中村先生が診療に行くときに渡る小川も干上がって木が立ち枯れ、奇妙な風景になった。渇きに我慢できない子どもたちは、汚い水を飲み、下痢をする。
 患者がどんどん診療所に運ばれてくる。これは薬では治らない。そこで、医療集団だったが、急きょ井戸を掘ることにした。飲み水用井戸1600本、灌漑用大型井戸(直径5m)13カ所を掘った。水が出るようになると、水くみに来るお母さんたちが井戸端会議をする。日本の大学の医学部を出た人間が、現地人と同じ汚い服を着て、自分たちのために一生懸命やってくれる。
 中村先生はとても尊敬されていた。増えた難民はきっと首都に行くはずだと予想し、カブールに視察に行ったら、どこもテントの海。首都に診療所をつくろう、5つの部族ごとに、計10カ所の診療所をつくろうと中村先生が言い出した。ペシャワールで診療しながら、山岳地帯の診療所もやり、その上にカブールでも。それは2001年3月のことだったが、この年の9月に米国で同時多発テロが起きた。

  おカネは
どうするの?


 カブールは標高1800mの地で、冬は極寒の地だ。難民に食糧支援をしようや、と中村先生。お金はどうするの? 今から帰国してアフガニスタンの実情を訴えてみる。中村先生は自分が帰国している間に、小麦粉・それを入れる袋・食用油の買い付け、輸送用のトラックの手配を指示した。日本ではタリバン政権は評判が悪いのに、アフガニスタンのためのカンパなんか集まるのか?と思ったが、現地事務所にドンドンお金が送られてきた。パキスタンで小麦や食用油を買い、それをトラックに乗せ、米軍の空爆を恐れながら、夜間になんとかカブールまで運ぶことが出来た。ところが新たな問題が発生。空爆のため、現地スタッフが食糧の配給をせず家に帰りたがった。27万人に配給はなんとかやり終えたが、地下水が下がっているから、灌漑用の井戸を掘るのはカルザイ政権に禁止された。これでは将来の食糧供給のめどが立たない。
 【2002年アフガンいのちの基金設立、アフガニスタンのジャララバードに水源確保。農業のプロジェクトを統括するPMSジャララバード事務所を設立】
 
クナール川の水を
引いてみようや


 そのようなとき、中村先生が『ちょっと、クナール川の水を引いてみようや』といった。
 目的はアフガニスタン人の自給自足。これには、アフガニスタン人が喜んだ。中村先生の指示で、重機(ブルドーザーやユンボ)を買った。水を引きこむ水路は、ガチガチのコンクリートなら修繕できない。使う人に都合のいい方式にしよう。
 そういうわけで、じゃかごに石を詰めて積んで堤防をつくり、柳を植える。柳は長く根を張り、石に巻き付く。この日本の伝統的な工法を活用した。また、水流が豊富で勢いの速いクナール川からの取水には、中村先生の故郷の山田堰の技術を採用した。
 用水路は完成し、中村先生がマルワリード用水と命名した。マルワリード用水路が出来た後で、大洪水が発生し、用水路が完全に埋まったが、堤防に植えた柳は残っていて、埋めた土砂を掘り出し用水路は元に戻った。
 それを見て現地の人々は驚いた。このような被害に2度と遭遇しないよう、水の流れの強い取水口では、地下にサイフォンをつくり、その上を水が流れるようにした。施設が100年は持つように、地元の村や町や郡の人と相談しながらつくった。
 水流の強い川に堰をつくる工事で、現地職員が怖がるところは、率先して中村先生が重機を運転した。中村先生は得意そうだった、自分には医師の仕事より合っているかもしれないと。子どもたちは、畑に水が来て、食べ物が出来るのがうれしくてたまらないから集まってくる。中村先生はその子らを時々からかったりしていた。

モスクとマド
  ラサの建設


 マルワリード用水路計画の最終地点ガンベリ砂漠(25km×5km)の工事は、50度の炎天下で行われ、私は止めたらどうかと進言したが、聞き入れてはもらえなかった。そして、ついに砂漠横断水路が2009年8月通水した。これで生きていける、家族と一緒に故郷で暮らせると現地の作業員たちはとても喜んだ。このときの音声を伝えられないのが残念だ。
 一方、水が引かれるようになると水争いが起きた。アフガニスタン人は民族で違いがあっても、イスラム教でつながっている。モスクがあれば必ずお祈りにくる。彼らの伝統的な解決策として、長老たちが集まって相談し、よい解決策を考え出すだろう。モスクの建設はそのような考えで建設された。その近くにマドラサ(学校)と寄宿舎も建設された。これは現地の人々に大変喜ばれた。子どもも600人が通学しているという。
 水は本来人間だけのものではない。畜産もやるようになり、小麦やスイカも収穫できるようになった(今では養蜂もやり蜂蜜もとれる)。何があっても普通に仕事を続けよという中村先生の言葉どおり、田植えもやった、畜産も継続している。昨年の大洪水でマルワリード用水路の川底が陥没したが、すぐ現地の職員が修復した。
 
PMS方式
の普及へ


 ペシャワール会・PMS『私たちは中村先生が歩んだ道を私たちも歩む。中村先生の事業はすべて継続し希望は引き継ぐ』。
 じゃかご工・柳枝工・山田堰工法という用水路の施工法は、PMS方式として確立した。水位が低くても、大洪水が出ても年中水を供給することが出来るこの方式を全国に広めるための国際会議も開いた。現在、PMS初めての診療所をダラエヌールに開設した。中村先生が、用水路が出来たら君たちの学校もつくってあげると約束したカシコート女学校。ここの生徒は、近くにある米軍演習場からの掃射弾により生徒がけがをした学校だが、建設は私たちが引き受けなければいけない。
 中村先生の業績は、テロ対策のため・平和構築のためと高く評価されている。これを中村先生が聞いたら、びっくりするのではないだろうか。生前、中村先生は『そう言われると妙な気がする。目の前に困った人がいたら手を差し伸べる。これは普通のことです』と言っていた。私はここにヒントがあると思う。干ばつは現在も進行していて、今年は、2008年以来の大干ばつで、食物がないという人が300数万人になっているという。(講演要旨、文責編集部)

中村哲さんの取り組みを現地報告を含めて報告する藤田さん(7.11)

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