沖縄報告 沖縄駐留米軍基地の全国比率50%以下に

沖縄に新しい米軍基地はいらない
沖縄 K・S 7月25日

県が米海兵隊訓練場4カ所の返還を挙論

 沖縄県は6月28日の県議会一般質問で、沖縄駐留米軍基地の全国比率50%以下を目指すという件に関して、初めて具体的に、北部訓練場、伊江島補助飛行場、キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセンの4カ所の名前をあげ、返還対象になりうると述べた。謝花喜一郎副知事は「訓練エリアを返還させることで、雇用への影響を抑えながら訓練を減らせば基地被害が少なくなる」と述べた。
 沖縄には軍事基地が多すぎる。アジアの地図を見ると米粒のように小さな沖縄に、羽田空港の約12倍もの米軍専用施設が集中している異常さ、そこから発生する事件事故、犯罪、環境汚染、騒音の毎日の被害を少しでも減らしたいというのが、沖縄基地の全国比率50%以下に、という県の見解なのである。
 沖縄県のこの見解を全国の国民は知らない。日本政府は無視を決め込んでいる。マスコミはすべてと言っていいほど報道しない。沖縄県を支持・連帯する声を草の根から全国で上げよう。

具志堅さんが全国市町村議会に文書送付

 辺野古新基地建設のための埋め立てには約2000万立方mという膨大な量の土砂が必要とされる。沖縄防衛局が昨年県に提出した変更申請書には、その調達先として、沖縄南部の糸満・八重瀬地区から3160万立方mが採取可能とされた。これは、県内各地の全体の採取可能量の約70%を占め、糸満・八重瀬地区だけでも埋立計画総量を上回る。
 糸満・八重瀬地区は1945年の沖縄の地上戦で、日本軍司令部が首里城地下から摩文仁の洞窟に移動したことにより、凄惨な戦場となり、日米軍将兵と数万の住民が命を落とした。戦後、野ざらしになった何万という遺骨が収容されて来たが、まだ未収容の遺骨が山野、ガマ、海岸のどこかに眠っており、多くの慰霊塔・碑が立ち並ぶ沖縄戦跡国定公園となった。
 沖縄防衛局が計画する南部地区からの土砂採取は、戦跡公園という慰霊の場所を物理的・精神的に破壊するものに他ならない。ガマフヤーの具志堅隆松さんは7月19日、県庁で記者会見し、南部地区からの埋め立て土砂採取計画の断念を政府に求めるよう要請する文書を全国の1743県市町村議会に送ったことを発表した。具志堅さんは「沖縄戦で戦死した全国各地からの兵隊の遺骨も埋もれたままだ。遺骨を含む土砂採取は沖縄だけの問題ではない。全国の問題だ」と訴えた。
 沖縄では、県議会をはじめ多くの市町村議会で、南部の土砂採取に反対する意見書が可決されている。全国でも、奈良県議会、金沢市議会、茨木市議会、小金井市議会などで可決された。過去の戦争を反省せず、米軍に従属して軍事拡張の道を進み、沖縄を踏みつけて恥じない日本政府・沖縄防衛局に反対する声を上げる輪をさらに広げよう。

サンゴ訴訟で最高裁の2人の裁判官の反対意見


 辺野古サンゴ訴訟で、7月6日、最高裁第3小法廷は沖縄県の上告を棄却した。この裁判は、辺野古・大浦湾のサンゴ類4万群体余の移植をめぐり、沖縄防衛局の移植申請を許可するよう農林水産相が沖縄県に是正指示をしたのは違法だとして、沖縄県が指示の取り消しを求めて提訴したものである。最高裁としては異例なことに、5人の裁判官のうち、宇賀克也裁判官と宮崎裕子裁判官の2人が反対意見を表明した。
 2人の反対意見は翌日の紙面に、判決全文と共に詳しく紹介された。反対意見の要旨は次の通りである。
 「大浦湾側の大半に軟弱地盤が存在している。したがって、本件変更申請が不承認になった場合、サンゴ類の生息場所のみの工事は無意味になる。他方、サンゴ類の移植は極めて困難で、移植を行っても大半のサンゴ類は死滅する。したがって、本件許可処分のためには、大浦湾側の埋立事業が実施される相当程度の蓋然性があることが前提となる」。
 「変更申請が承認された場合には、特段の事情がない限り、本件許可処分がなされるべきになる」。
 こうした見解は裁判官としての最低限の合理的な見解と言えるだろう。米国の民主党議員も反対意見の存在に注目しているという。玉城デニー知事は変更申請を明確に不許可にし、県内外に強くアピールせよ!

戦争を長引かせた昭和天皇の戦争責任
 
 琉球新報、沖縄タイムスの2紙には沖縄戦関連の記事やコラムがよく掲載される。「沈黙に向き合う―沖縄戦聞き取り47年」と題したロングラン・コラムを新報に掲載している沖国大元教授の石原昌家さんは7月21日号で、「住民被害の元凶を示す史料」の一つとして、1945年2月の近衛文麿元首相の上奏文とそれに対する昭和天皇の答えを記している。
 「大東亜戦争」の敗色濃い1945年2月14日、近衛元首相は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。……国体護持の立場よりすれば、一日も速やかに戦争終結の方途を講ずるべきものなりと確信仕候」と天皇に上奏した。天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」と述べた。初代宮内庁田島道治長官の昭和天皇との『拝謁記』1952(昭和27)年3月14日の記録には、「私は実は無条件降伏は矢張りいやで、どこかいい機会を見て早く平和に持って行きたいと念願し、それには一寸こちらが勝ったような時にその時を見つけたいという念もあった」と記録されている。
 天皇のこの自己保身が戦争を長引かせ、彼我の犠牲を大きくした。これ以後の戦争被害―東京の3・10空襲、沖縄の地上戦、広島・長崎の原爆投下、ソ連軍参戦による満州(中国東北地方)の惨状とシベリア抑留は米軍・ソ連軍の戦争犯罪と共に、天皇に責任がある。
 最終的に天皇が受け入れ、8月15日正午のNHK放送で無条件降伏を明らかにした「ポツダム宣言」(米・英。中3カ国宣言)は、実は7月26日に出されていた。ところが、日本政府、天皇と大本営は「国体護持」の保証がないからと黙殺を決め込み、8月の原爆投下とソ連軍参戦に至るのだ。天皇制を守ろうとして何十万、何百万の人々の命が失われた。

「尖閣列島遭難事件」の真相

 沖縄戦末期の疎開船の被害は、1944年8月の対馬丸の撃沈・遭難をはじめ数多くある。疎開は軍による国策であった。1945年6月24日、石垣の住民に24回目の台湾疎開命令が出された。6月30日の夜、石垣島から台湾に向かった2隻の疎開船(一心丸、友福丸)も米軍機による爆撃を受け、1隻は沈没、もう1隻は航行不能となって魚釣島(中国名釣魚台)に上陸した。その後1カ月以上、食べ物のない無人島で暮らし、多くの人々が亡くなった。死亡原因は、米軍による爆撃、水死、餓死、病死だ。
 このいわゆる「尖閣列島遭難事件」について、『沖縄県史10 沖縄戦記録2 各論9』(1974年)に6人の証言が掲載されている。その中の1人、石垣ミチさん(当時43才)によると、疎開者は約180人、ほとんどが老人、婦人、子どもで、台湾人、朝鮮人も乗っていたという。宮良当智さん(当時60才)は数え年60才であったが、老父母の付き添い兼約半数を占めた字大川班の班長として疎開することになったという。
 沖縄タイムス2021年7月20日のコラム「唐獅子」に、宮良当智さんのひ孫に当たる宮良麻奈美さんが「魚釣島のパパイア」との一文を寄せている。1969年、宮良さん達が魚釣島に上陸し慰霊塔を建立したとき、「飢えに苦しむことがない様に」とパパイアの種を植えたそうだ。遺族会は、中国との対立をあおり島への上陸を目的化する一部議員たちの行動を批判し、争いの火種になる行動を望まないとハッキリ述べている。
 そもそも尖閣諸島(中国名釣魚台)は、琉球王国が中国と冊封関係を形成して以来、中国が支配する島々であった。無人島であったが、無主地ではなく、中国名が付けられ、主に航路に利用された。日本が「尖閣」と名付けたのは1894年の日清戦争に勝利した後にすぎない。「尖閣は日本固有の領土」などではない。明治維新以後の天皇制国家のアジアに対する侵略と暴力の歴史を肯定してはならない。

香港アップル・デイリーを忘れない
 
 香港に国家安全維持法による中国政府の反動の嵐が吹き荒れている。民主派新聞の象徴、アップル・デイリー(リンゴ日報)は創業者の黎智英さんが、無許可の集会に参加した罪などで逮捕されて有罪判決を受け、服役中だ。編集局も家宅捜索され、銀行口座は凍結、幹部は逮捕、新聞の発行が不可能になり、6月24日、最終号100万部を発行して廃刊した。
 集会の禁止、逮捕、国家転覆罪の適用、さらに立法会、区議会では、中国への忠誠の強制の中、ほとんどの議員は辞職を余儀なくされた。香港の社会全体をおおう中国政府の法の名のもとの国家暴力はいつまで続くのか。一昨年7月1日、英国が中国に香港を返還した記念日に行われた55万人の大デモをはじめ一連の行動の熱気は参加者の記憶から決して消えることはない。民主主義と自由、香港の自立を求める人々の未来に幸いあれ!と願いつつ、2019年7月1日のアップル・デイリーの紙面を再び紹介したい。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(54)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号では、「満州から北支、中支、宝慶、桂林」と移動し、タイで英軍の捕虜となった具志川市の赤嶺さんの証言を紹介する。引用は原文通り、省略は……で示した。

『具志川市史』第5巻「戦争編 戦時体験Ⅱ」(2005年)

 赤嶺昌盛

 父の松之助は、私が兵隊にいくころは、荷馬車で山原の山から薪を運んだりしていたが、そのうち馬車徴用で防衛隊に召集されている。……そのまま行方は分からない。
 出征の時妻は妊娠していて、子どもの顔を見ないうちにそのまま出発になった。那覇からかのう丸という小さな船で出発した。その船には軍馬用に供出された馬がいっぱい乗っていた。馬は泳ぎが上手だから、船が割られても馬がいるから大丈夫といっていた。船は鹿児島に着いて、そこから汽車で熊本に行った。部隊は熊本37師団225部隊第8中隊だった。……沖縄の人は同年兵が十二、三人いた。
 中隊でも小銃隊、軽機(軽機関銃)班、擲弾筒(手榴弾・毒ガス弾を発射する小型で筒状の火器)班といって、いくつにも分かれていた。……昼歩いたら飛行機にやられるから、すべて夜間の行軍。そのため落伍する人も多かった。足が脚気になって、腫れて歩けなくなる。しょっちゅう歩き通しだから、歩けなくなった者は、近くの警備隊にあげていた。私は軽機班で、11年式の軽機は三十何キロと重かった。弾こう箱といって、弾が100発入る箱があり弾こうを持つのは交替でやった。軽機を担いで自分の背嚢まで入れると、百斤(60キログラム)ぐらいはあった。背嚢には米など生活品も入っているから、みんなめいめいで持って、戦さをする前にくたびれてしまう。行軍は力がないと大変だった。……
 桂林での戦いには日本の飛行機は二、三機きていた。私たちは川上の高台からの下げ撃ちで、バンバン軽機を撃った。陣地はすぐ私たちが見えるところだったけど、日本の戦車は、相手の地雷でそうめん箱がひっくり返るみたいだった。日本の戦車が来そうなところは、地雷を埋めてあって味方の戦車はだいぶやられた。
 釜山から朝鮮、満州から北支、中支、宝慶、桂林とどんどん国を渡っていく時に、中国人の苦力を使った。敗残兵を徴発してきて、元気がありそうな人から荷物の運搬とかに使った。……
 中支からは師団長の命令で食糧はすべて現地調達した。後方の日本からはなにもこない。……薪がないと家を壊して持ってきて燃やすし、あっちこっちから適当な鍋を持ってきて使ったりしていた。……薪なんかもないから、家の壁を折ったり食卓なんかを叩き割ったり、古兵の中には大変「野蛮人」がいた。
 壮年兵はいなくて、自分たちが一番下だったから、飯盒を洗ったり、一切合財食事の準備をした。最後には銃の手入れや靴磨きなんかもやった。あまりきついから、逃亡する人や手榴弾で自殺する人もいた。トイレにといって手榴弾で自殺すると、肉が壁などにくっついて見れたもんじゃなかった。……私たちはみんなが生きている間は生き抜こうとあきらめてがんばった。
 ……私たちの中隊もノモンハンに少しいたが、そこの住民からどこそこの山に敗残兵が何十人ぐらいいるといった情報があった。敗残兵も夜になると民間地域にきて何もかも取っていた。牛や食べ物、女の人たちも若いのは連れていったりしたので、そういう時は中隊に連絡がある。……
 全部が全部つかまえることはできなかったが、逃げ切れない人たちを連れてきて尋問していた。梯子に手と足をしばって、口に棒きれを入れてバケツ一杯の水を飲ませていた。なかには拷問で死んでしまった人もいた。
 捕虜をつかまえてきたら、上の人たちや学校を卒業してまもない見習士官たちが試し斬りをやったり、生き埋めにしたりしていた。そういうことをしても罰を受けることがない。だから、私たち沖縄の人たちは「こんな悪いことをしているけど、帰ってから罰が当たらないかね」と話していた。……
 終戦は隊長から聞いた。バンコクに帰ってきても、今は休戦中としかいわず、負けたとは言わない。戦争は一時中止だといっていた。そこには進駐軍のイギリス軍がいた。終戦だから、バンコクでは軍旗も焼いて、武器は日本刀も全部返納して武装解除した。


2021.6.28  やんばるの森。雨にけむる高江の山なみ。

2021.6.30  琉球セメント安和桟橋入口ゲート前。大雨の中の土砂搬入。

2021.7.14  琉球セメント安和桟橋入口ゲート。倦まずたゆまず抗議の意思を示す。

香港の民主派日刊紙のアップル・デイリー。2019.7.1
香港の民主派日刊紙のアップル・デイリー。2019.7.1

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