8.22大阪アクション結成7周年講演会
遺骨眠る土砂を辺野古に使わせるな
STOP!辺野古新基地建設
【大阪】ストップ!辺野古新基地建設!大阪アクションは7年前の8月下旬に結成され、今年7周年を迎え、8月22日(PLP会館)記念講演を開いた。
はじめに、この1年間の活動報告があり、4つの賛同団体(辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動・沖縄意見広告運動・辺野古派遣サポートおおさか基金・岩国労働者反戦交流集会実行委員会)の報告に続いて、具志堅隆松さん(沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表)が講演をした。
一人から始め
た収集作業
具志堅さんは、28歳の時から遺骨収集をしている。1973年に来沖した遺骨収集団(日本青年奉仕協会)のなかにボーイスカウトの関係者がいて、ボーイスカウトの青年リーダーであった具志堅さんに遺骨収集の要請があったという。それが縁で、初めて遺骨収集に加わった。収集の場所は、糸満市や具志頭村(現八重瀬町)だった。収集団の作業は年に1回、毎年参加してきたが、出土する遺骨が年々劣化していることに気づき、本土の収集団の作業を待たずに1人でやろうと決意。原野やガマ、日本軍が掘った構築壕、隆起したサンゴ岩礁のクレバスなどで、人知れずコツコツと遺骨収集をやってきた。
その後、2007年の夏から真嘉比(那覇新都心地区付近)の遺骨収集を始めた。真嘉比は鉄の暴風が吹き荒れた激戦地で、戦後は墓地となったために開発を免れてきた。戦後数十年が過ぎ、具志堅さんは那覇市の開発工事で激戦地が消えていくという危機感を抱いた。ちょうどその頃知人から、真嘉比に人骨らしきものがあるとの連絡を受け、警察に連絡した上で遺骨を掘り出し、新聞社にも連絡し、遺骨収集の必要性を訴えた。同じ激戦地で真嘉比から300メートルぐらいしか離れていない安里五二高地では、すでに開発工事が始まり、掘り起こされた遺骨や武器が散乱していた。「1人ではとても収容できない。市の方で収集してもらえないか」と電話で市に依頼したが、返事はなし。当時、国も県も、沖縄の戦後処理は終わったことにしたかったのだ、と具志堅さんは思う。落胆し、その後は浦添の病院壕跡で遺骨収集をしていたという。
安里52高地周辺からは、遺骨を含んだ土が何台ものトラックでどこかに運び去られていた。開発が真嘉比に及んできたとき、今度こそは遺骨収集をやろうと決心し、ガマフヤー(ガマを掘る人)と名乗るようになった。
雇用対策によ
る遺骨収集
遺骨収集の転機2008年6月、市民参加を呼びかけた真嘉比地区での日曜日の遺骨収集活動だった。この市民参加の収集は大雨で中断したりして、全体作業は2回目までで終わた。ガマフヤーの作業は日曜日が基本だった。何か方法はないのか。社会的弱者であるホームレスが戦争犠牲者に救いの手を差し伸べることで、ホームレス自身も救われる、そのようなことは出来ないか。ホームレス支援のNGOとも相談して出来た構想を携え、国会議員を介して厚労省に要請した。その結果、2009年、遺骨収集作業を緊急雇用創出事業として行うことになった。2016年には戦没者の遺骨収集の推進に関する法律ができた。国は2017年度より沖縄・硫黄島などに広くDNA鑑定を実施。沖縄県では10地域での戦没者の遺骨に適用した。
真嘉比地区に道路が出来るというので、遺骨収集を始めることになった。ホームレスの人たちが手伝ってくれた。彼らはちゃんと働くのか。懐疑的な質問もうけたが、彼らはよく働いてくれた。高学歴の人が多く、死者に対する対応が優しかった。
本土から来た人が半分以上で、沖縄を知るために来た、遺骨は遺族に返したいと言っていた。同時に自分自身も家族の元に返りたいとも。ガマフヤーでは、遺骨が見つかると、それをうごかさないようにして、竹串や刷毛で土を取り除く。それに対して、国の遺骨収集事業は、工事用のショベルカーで大量の土砂を削り取って広い場所に積み上げ、それをベルトコンベアーに乗せて遺骨を探す。しかも国の事業は土木業者の収益事業として行われていた。
遺骨や戦争
遺物が語る
沖縄の戦後は遺骨収集から始まった。住居や畑などの生活の場では早い時期から収集が始まり、付近から掘り出された遺骨は各地域の慰霊塔に収められた。沖縄戦は軍民混在の戦争で、住民の避難場所が戦場になり、快適な避難場所は日本軍が占領した。ガマであれ構築壕であれ、中に入るときは緊張する、内部には沖縄戦がそのまま残っているのだから。
遺骨収集では不発弾が出ると作業が中断した。92式赤弾(毒ガス弾)、手榴弾、弾丸の破片、5インチ艦砲弾、51滑空弾の弾帯、米軍の105ミリ榴弾(弾丸は空中で爆発するようになっていて、甚大な被害をもたらした)、60ミリ迫撃弾、小銃弾の薬莢、さらに陶器製手榴弾、弾薬を詰めた木箱(背負って戦車に体当たりの自爆攻撃用)などが出てきた。
具志堅さんは、特に陶器製手榴弾にこだわりがあって、年配の人に聞いたことがある、「こんなに物資が不足していても、戦争を続けなければいけなかったのか」と。思っていることを言えるような時代ではなかった、との答えだった。
遺骨は、いつどの場所に体のどの部位の遺骨が出たか、表に記入していく。膝より下だけの遺骨が多い。上は吹き飛ばされて、広い範囲に散らばっている。深さ1メートル位のたこ壺の中にも遺骨が。身元を特定するために刷毛を使って細かく掘る。頭頂に穴がある、105ミリ榴弾によるものだ。頭骨の中には土が入っていて、砲弾の破片があった。両手を胸の上で組んでいる遺骨もあった、おそらく死んだ後埋葬されたのだろう。遺骨のそばに五銭硬貨が。これは千人針についていたもので、「死線を越える」(5銭は4銭をこえる)という験を担いだものだ。2本の金属棒。出征の時、母親が自分のかんざし(ジーファーという)を息子に持たせたものだ。
西原町幸地の壕では、25体もの日本軍兵士の遺骨が。壕の近くで米兵が小銃を乱射し、完全武装の兵士が50ミリ擲弾で自爆したとき落盤が起き、5人が土砂に埋まった状態で閉じ込められたと思われる遺骨もあった。手が皮一枚でぶらぶらになり、仲間が壕の中に移動させたと思える遺骨。骨盤に破片が食い込んでいる遺骨も。胸の前で爆弾を爆発させ、下顎を吹っ飛ばして頭の中まで破片が入っている遺骨もあった。
遺骨の土を海に…それは人の道に外れる。
行政の壁を1つずつ乗り越え、遺骨収集が大きく前進してきた2020年10月、南部糸満の魂魄の塔の近くで遺骨収集をしていたとき、付近で土砂の採掘をしている業者に、採掘した土砂は辺野古の埋め立てに使うことを知らされた。止めてくれと業者には言えない。相手は国だ。防衛局に11月2日に要請に行った。もしかして、防衛局はここに遺骨があることを知らずに…と思ったので、現場の視察を要請した。すると、局員は『まだ決まったわけではないので、具志堅さんと問題を共有したい』と言った。南部にあるとわかっていたのかと聞くと、『…』と無言。知っていてやるなら、人の道に外れている。マスコミにもこのことを発信した。沖縄のマスコミはすぐ応えてくれたが、本土は何も応えず。2月末には宗教者の会とともに計画の断念を要請した。業者に遺骨収集させるのかと聞いても、応えず。3月には国と交渉し、多くの人に知ってもらおうと、県庁前でハンストをした。遺族が来てくれて、泳げなくて死んだ兵士の遺骨を海に捨てさせないでと言われた。言葉がなかった。各県議会にも計画断念の意見書提出を要請した。戦没者追悼式会場前でもハンストをやった。遺骨は家族に返すべきだ。被告席の国が裁判官席に座っている。この不条理は許せない。
講演要旨は以上。出来るやり方で具志堅さんに連帯したい。
(T・T)
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