石井俊二同志を追悼する(9月20日発行)

尾形 淳(JRCL関西地方委員会)

 かねてより多発性筋炎、誤嚥性肺炎等で闘病中だった石井俊二同志が、8月25日、闘病のかいなく永眠した。77歳だった。
 私は東北のY県が活動の出発点だったので、石井同志と親しく接するようになったのは、1976年2月に関西地方委員会に配置換えになってからである。それ以降、とりわけ成田空港開港阻止闘争前後にかけては毎日のように顔をあわせることになった。
 その当時、共青同の若い同志たちは親しみを込めて、彼を「じいさん、じいさん」と呼んでいた。その愛称の由来は良く知らないのだが、おそらくは、ラフな格好をしている者が多い活動家の中で、髪も服装もきちんと整えていた彼が年齢よりも老成した印象を与えているからだろうと、私は勝手に思っていた。

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 彼は関西地方委員会の専従員であり、大衆運動の責任者であった。現在、大衆運動は一般的には市民運動と呼ばれるようになり、その担い手も各市民運動団体の構成員や労働組合員である。集会自体も講師の発言を軸として、関係する市民団体や労働組合の構成員が、整然と発言するという形態をとることが多い。
 しかし、当時はまだ新左翼運動が盛んな頃であり、大衆運動や反戦集会とは自派の立場を主張し、他党派を批判する場でもあった。集会場は演者の絶叫とヤジと怒号の坩堝になることも珍しくはなかった。大衆運動の担当者の主要な任務の一つは、こうした集会やデモの組織化のための新左翼間の会議への出席であった。
 関西で必ずしも多くはない動員力を背景にして、そうした会議で自派の主張を貫くことには大変なエネルギーを必要とする。そんな背景もあったのだろう。自説にこだわる活動家は多いわけだが、彼の頑固さはその中でも際立っていた。私も彼と何度か会議で激論を交わしたことがあったのだが、そのたびごとに彼と学生時代から活動を共にしてきたKさんから、「尾形君、もうやめなさい、石井さんは絶対自説を変えないんだから」と、発言の中断を求められることもしばしばだった。

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 大衆運動の担当者のもう一つの重要な任務は、「関西三里塚闘争に連帯する会」の事務局活動への参加であった。彼は「戸村選挙」以来、関西新時代社を代表してその任にあった。そして、この活動は開港阻止闘争が迫る中で、彼の中心的活動になっていくのである。
 開港阻止闘争の後、全国的な組織の改編の中で、彼は大衆運動の担当者を離れ、関西地方委員会の書記に就く。この時期は関西地方委員会にとっても、最も困難な時期であった。多数の三里塚闘争の被告を抱えたことによる財政の窮迫、女性差別事件、中核派によるテロ、そして同盟の分裂、どれ一つをとっても解決困難な問題ばかりであった。この時期に関西同盟の中心を担ったことは、彼の活動歴の中でも特筆すべきことである。

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 こうした同盟状況の下で、彼は関西新時代社の専従体制の再編成を行い、自分自身も専従員を降りることにした。しかし、財政の赤字体制は続いていたので、自らの責任として財政の担当者となった。彼がこの任務を離れたのは、関西新時代社の借金を全額返済した後であった。
 その後、彼は「架橋」欄の筆者として「かけはし紙」に登場することになる。「灘」の筆名で書かれた彼のコラムは政治問題のみならず、職場の人間関係、日常生活、病気のこと、ちょっとしたハイキングと多方面にわたり、読者を和ませていたのは皆さんがご存知のとおりである。
 彼の葬儀は無宗教で近親者のみで行われた。遺骨は彼の遺志に従い、彼の親しんだ海、大阪湾の大阪の西、神戸の南に散骨されるとのことである。

追悼 石井俊二同志

「じいさん」との出会いと別れ

T・O

 8月25日、石井俊二同志が亡くなった。77歳。難病の多発性筋炎で入院・闘病中だった。数年前から体調がすぐれないと聞いていたし、数年前に共通の知人の訃報を伝えるために電話したとき(それが最後の会話となった)も少し話しにくそうだったが、病名が確定したのは入院の直前だったという。お連れ合いの話では、延命治療は拒否し、亡くなる当日まで意思を伝えるのは困難なものの、意識ははっきりしていたとのこと。
 石井同志は、20代の頃から「じいさん」という愛称で呼ばれていた。風貌や雰囲気が年齢よりも年長と感じさせていたからだろうか(その由縁は結局聞かずじまいだったが)、この追悼文でも、個人的思い出の際には「じいさん」と呼ばせてもらうことにしよう。

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 私が「じいさん」と初めて出会ったのは、1969年、大阪外大(現在の大阪大外国語学部)の合格発表当日だったと思う。当時の外大の校舎は大阪市内の上本町8丁目にあり、随分狭い校地で、校舎の多くは木造、体育館や講堂もなく、グランドは雀の涙ほどの広さしかなかった。外大の第4インター派の拠点は、グランド横の長屋にあった社研ボックスだった。私は合格を見届けると、多分、誰かに連れて行ってもらったのだと思うが、その社研ボックスに足を運んだ。
 その社研ボックスにいて、応対してくれたのが「じいさん」だった。何の話をしたか、今となっては覚えていないが、私のことを知っていて「ML派の高校生活動家だ」と他のメンバーに紹介していたことだけは覚えている。
 1960年代後半に社青同外大学生班で政治活動をスタートさせた「じいさん」は、すでにこの年の3月には外大ロシア語科を卒業していたが、依然として外大全闘委(全学闘争委員会)の中心的活動家であり、学生インター(国際主義共産学生同盟)外大支部の指導的メンバーだった。
 しかし、彼は他党派の活動家であった私に対しても、セクト的対応をとることなく接してくれた。それは、バリケード封鎖中やその後も変わらなかった。

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 私がトロツキズムと出会い、その組織と運動に参加したのも、「じいさん」との出会いだったし、一度そこから離れた後に再び復帰する機会をさりげなく与えてくれたのも「じいさん」だった。その意味では、「じいさん」は、私とトロツキズム、第4インターとを結びつけ、さらに運動と組織への再結集の道をつけてくれた同志であり、「導師」でもあったと言える。
 また、学生時代には実家である昆布屋で、アルバイトさせてもらったこともあったし、私が就職して間もない頃には、給料日前でお金がなくなると、石井さんの新婚家庭に押しかけ、夕食をご馳走してもらうこともあった。

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 そうだっただけに、入院中の「じいさん」の病状から覚悟はしていたことではあっても、また最近はほとんど会う機会もなかったとしても、やはり亡くなったことの喪失感は大きい。もっといろいろと討論したり、酒を酌み交わしたりしたかったという思いがこみ上げてくる。コロナのため、見舞いにも行けない状況だったが、亡くなる当日、私が送った見舞いのファックスをお連れ合いが読まれたところ、かすかに頷いてくれたと聞いた。そのことを心に刻みながら、「じいさん」を改めて追悼したい。

故石井俊二同志

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