沖縄県内市町村の中国での戦争体験記を読む(55)(10月18日発行)

日本軍による戦争の赤裸々な描写

 県内市町村の中国での戦争体験記を読む(55)と(56)は「沖縄 K・S」さんから「沖縄通信」として送られてきた記事でしたが、紙面の都合で掲載できませんでした。今号に掲載します。(編集部)

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今号では、「満州」で敗戦を迎え、ソ連軍に連行されてシベリアで強制労働についた具志川の友寄さんの証言を紹介する。引用は原文通り、省略は……で示した。

『具志川市史』第5巻「戦争編 戦時体験Ⅱ」(2005年)

  友寄英光


 昭和十八(1943)年一月に沖縄から博多に行って、しばらく旅館に泊まりました。夜中の2時ごろひそかに博多港を出て釜山に着き、一路、下城子に汽車で行った。……部隊は4387部隊といって、日露戦争で使った骨董品の銃砲の操作訓練を毎日していた。……私は機会があったら部隊から抜けようと、そればっかり考えていた。……
 階級はどうでもいい、とにかく4387部隊を出たいと思っていた。しばらくしたら、ハルピンの特務機関に募集があって、連隊本部に申し込み、私を含めて12名が試験を受けた。……
 転属先の建物は地下一階、地上三階の建物で、東大出とか大阪外語とか、京都帝大、東京商大、今の一橋大学の天下の秀才が集まっていた。それから、毎日朝から晩までロシア語の特訓だった。試験、試験でどんどんふるい落として、原隊に復帰させた。ロシア語は白系ロシア人が教えた。だいたい三か月くらいしたら今度は本採用試験があり、やっとその試験に通って本採用になると、授業はあるが試験はなく、自動的に卒業した。
 特務機関では、本名ではなく、届け出た名前にするからということで、沖縄の「沖」と司令官の「司」と女郎の「郎」で、僕は沖司郎という名前だった。特務機関の特別な仕事は、越境してスパイ行動を起こすことで、国境を越えていくのは、赤軍の動きなどを報告するためである。越境して帰ってこない先輩が相当いた。……
 戦争末期になって新兵がきたが、竹の水筒と鉄砲の形をした棒を持っていた。日本は物資がない、おしまいだなと思った。……近いうちにソ連は必ずやってくることを一週間前から分かっていた。案の定、8月15日に重大発表があって、やれやれもう戦争は終わったと安堵した。……
 日本軍が中国で敗戦を迎え、捕虜になったことについていうと、……ソ連が入り込んできて、働けそうなのは軍人でもない人も全部連れていかれ、シベリアの開拓をさせられた。
 開拓団の男は全部かけ込みで軍に召集され、女子どもだけが残った。男手はシベリアに送られた。開拓団が髪を振り乱して、放心状態となり、背負っている子どもは骨と皮で、生きているかと思うくらいであった。両手にも子ども抱え、あてどもなく歩いているのが何万人といた。ほんとにあれは惨めだった。
 私たちは軍のうしろの倉庫あたりから何でもかっぱらってきて、食べられるものを分け与えた。軍の倉庫には缶詰や乾燥肉などがあり、一升瓶の酒も山積みされていたが、それを飲んだら酔っぱらうから取らなかった。満蒙開拓団で喜仲の又吉哲次郎は、シベリア捕虜から帰ってきたが、妻子は一人も帰ってこない。そのまま餓死です。惨憺たるものだった。……
 ニージュネ・ウジンスク収容所で一冬過ごした。周囲は山で、枯れた松がいっぱいあり毎日薪取りした。雪どけになったら奥地へ移動し、テント小屋で生活しながら周囲の松を切り倒した。奥地のモリヨシクに抑留されているときは、私は通訳が主だった。食い物がなく、みんな栄養不良で七万人くらい死んだらしい。亡きがらの数が沢山だから、牛で引っ張っていき、穴を掘って薪を積むように積んでまとめて一か所に埋めた。……
 毎日、運送と伐採だった。最初はトラックが通れるように松を切り倒し、湿地帯の丸太をいかだみたいに組んで道を造った。山になったところをターチカという木で作った車輪だけの一輪車で、夜も昼もひっきりなしに土運びをした。丸太を半割にして歩くところと一輪車の通るところをこしらえた。トラックが通るように切り開いた道は360キロ、反対側からも密林を開拓してきていた。その道ができたら今度は、そのそばに360キロの鉄道を敷設する工事をした。
 汽車が通るようになると収容所での取り調べが激しく、ロシア語もしゃべるし、特務機関ということもあって、私はスパイ容疑で取り調べられた。……
 取り調べのとき、いくらでも怒鳴るけれども、ソ連は暴力はしなかった。人間が人間に向かって暴力を加えるということは、法律で厳重に取り締まっていた。……
 その後、エミという産婦人科専門軍医の通訳でロシア人のお産に立ち会うようになった。エミ大尉は、学生時代に沖縄に来て首里城にものぼったらしい。地方で産婦人科を開業した歳のいった人でしたが、その人の通訳で、夜中にもお産に立ち会い。ロシア人が七転八倒するのを押さえるのに大変だった。……
 昭和二十五年七月に舞鶴へ戻ってきた。……
 帰ってきてから、アメリカに思想調査をするといわれつきまとわれた。那覇の情報部隊に一日中ウソ発見器にかけられたこともあった。……

沖縄県内市町村の中国での戦争体験記を読む(56)

日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し体験した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今号では、シベリア抑留時に「アクティブ」として教育を受けた具志川の高江さんの証言を紹介しよう。引用は原文通り、省略は……で示した。

『具志川市史』第5巻「戦争編 戦時体験Ⅱ」(2005年)

  高江秀信
 
 私は昭和十八(1943)年に徴兵検査を受けた。第一甲種合格で現地召集。……
 ハイラルの第490部隊で、我々は野砲隊として入隊した。第四地区国境守備隊になり、有名なノモンハン事件の一線部隊です。行ったところは満州里が見えた。
 零下二十何度とあるから、沖縄からきたのは大丈夫かと、中隊長の宮崎大尉が心配してくれ、皮靴を防寒靴と代えてくれた。一番困ったのは巻き脚絆で、かじかんで手が動かない。煙草も吸えなくて止めた。……
 沖縄の玉砕は全部分かっていた。我々を沖縄戦にやってくれと、4月ごろ随分請願した。「貴様だけでも生きないとどうするか。そのために貴様らはこっちに召集したんだ」と言っていた。僕らは全部真相をそのまま聞かされていた。意外と情報は正確だった。……
 8月27日に興安嶺で停戦になったから、引き揚げてチチハルに集結しろという示達があった。我々は戦争終結だと勝手に思い込んでいた。軍隊に一つある馬が引く、四つの車輪のマーチョを使って、引き揚げるつもりでそれに乗っかって、二個小隊一緒に行動していた。
 途中で難民がいたから、マーチョを彼らにやって、僕らは徒歩でそれを守りながら引き揚げていった。いくら行っても難民の列は途絶えない。開拓団や将校関係の家族の方々だったと思う。先をずっと行っている連中をどんどん追い越して、そのまま進んだ。
 その間、夜寝ているとき、満州人が鎌をもって襲ってきたりした。難民の物をかっさらったりもするので、銃を向けたら逃げて行った。チチハルに着いたのが9月の12、3日ごろで、チチハルの部隊で待機していたら、戦争は負けたという情報が徐々に入ってきて、そこで武装解除した。
 我々が収容されたところは、蒙古兵が監視していたが、たちが悪かったです。ソ連兵は殴る蹴るとかは一切しなかった。……
 我々分隊はソ連の女性4名と一緒に、収容所から作業に行った。一分隊だいたい20名で、二組で行った。組長をさせられた。最初は石炭を貨車から降ろす作業で、彼女たちは大きなショベルを持ってやり、我々は小さい日本軍のショベルを使った。彼女たちの旦那はドイツ戦線で亡くなったということだった。
 運ばれてきたのは、ガスタンチンという石炭で、燃やしてさらにガスをつくっているみたいだった。その石炭のガスを作る工場に働いていたので、いつ何時でも貨車が着いたら出ていかなくてはならない。分隊で貨車一台だから、2時間から3時間ぐらいかかった。石炭が足りなかったから、作業は毎日はなかった。そこに二か年ぐらいいた。
 クラスノヤルスクの収容所からハバロフスクの収容所に移った。そこで文書講習から始まって、地区講習や共産党教育を受けた。演説口調も向こうで鍛えられた。作業が終わってから晩の10時までで、給料も150ルーブル貰った。
 三か月したら、自分らが講師として各中隊、小隊に派遣された。50名ぐらいが教育を受けて、あっちこっちに分散した。私はハバロフスク、本隊にそのまま残された。
 講師は全部ロシアの共産党員の幹部で、日本語をものすごく勉強していた。特務機関要員や将校の連中もいて、言葉を覚えようと紙に書いたら、秘密事項が書いてあると取り上げられた。「あんた方のいうことは分かるから、ロシア語を覚える必要はない。我々と日本語で語りなさい」と言っていた。
 彼らは沖縄のことも共産党内部のこともよく分かっていて、とくに沖縄出身というとかわいがってくれた。沖縄には生みの親がいるといって、徳田球一の話をよく聞かされた。……
 ナホトカから船は出て、舞鶴には昭和二十五年二月十一日に着いたと思う。当時は数えで28歳になっていた。足かけ6年で、シベリアに満4か年いて、現役が一か年半です。船から革命歌を歌って降りてきた。日本改革の勇士として送られて来たんです。
 そのまま東京の品川に行った。関東地方の50名あまりの人が向こうで解散した。一週間後に共産党に入党したいと代々木に行った。その時会ってくれたのが野坂参三。我々を諭してくれた言葉が「まずは仕事を探せ」「仕事についたら、何か月か職場活動をやれ」と。「職場宣撫工作。あんた方は、使命を受けてソ連から出されたんだから、これを忘れるな」と言われた。だが、一か月もするとすぐクビでした。
 帰る前は横浜でリヤカーを引いて野菜売りをしていた。思想の変革をしないと、仕事が全然駄目だった。しかも沖縄から戸籍を取り寄せたら、比嘉から高江姓になっていた。だから、東京警視庁から派遣された刑事連中につきまとわれた。最後は仕事がなくて、沖縄に密航船で帰ってきたんです。
 沖縄に帰ったのは昭和二十六年四月。……


週刊かけはし

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