沖縄 県内市町村の中国での戦争体験記を読む(59)

日本軍による戦争の赤裸々な描写

「島びとの硝煙記録」多良間村民の戦時・戦後体験記(1995年発行)

渡久山春好「記憶をたどって」

 我々大正十年〔1921〕生の同輩は、昭和十六〔1941〕年五月頃徴兵検査が行なわれ、合否の宣告がなされた。……我々は第一期入営兵として十二月に島を出ることになった。……那覇で全県下の人々と合流して那覇港を発ち、翌朝は名瀬港に停泊して大島群島の人々も乗船し鹿児島に向かった。翌日、鹿児島に上陸すると地方別部隊別に分散した。……
 部隊の門に入ると広場に集合し、中隊別に名前を呼び集めた。……間もなく下士官の誘導で部屋に入った。部屋には寝台が並べられ、その奥の棚の上には一人ひとりの名札の貼り付けられた箱(裁縫用具等の細物整理用箱)その側に軍服、シャツと袴下〔こした〕、靴下、脚絆、軍帽がきちんと整えられていた。靴箱、帯剣掛け、銃立てにも名札が張られていてあたかも小学校一年生を迎えるように用意が整然とされているのは感心するほどであった。
 ところがいざ使うとなると、帽子が大きすぎるとか小さすぎるとか、服が大きすぎるとか小さすぎるとか、あちらこちらでがやがやしだした。するとその部屋にいた上等兵が「やかましい。用意されているものに身体を合わすんだ」と大きな声で言った。みんなは一瞬唖然とした。……
 翌朝は初めて聞く起床ラッパの合図で床を離れ、早く寝床の片づけをして営庭で点呼が行なわれるのである。初めて履く軍靴も大き過ぎるとか足が入らないとかのざわめき、足の入らない靴に合わすことだけは全く不可能なこと、全ての不可能を可能にするのが軍隊なのだろうか、それにしても矛盾も甚だしい。……
 三か月たつと一期の検閲があり、入営時から着用した軍帽は戦闘帽に変わり、四月中頃は満州に行くことになった。その頃我々の中隊に満州帰りの一等兵がいた。健康を損ねて来ているということでした。彼が我々初年兵が何人かいる所で教えた。その教えとは「満州は寒さがひどくて大変だ、あんな所で苦しむよりは早く傷痍軍人で帰り社会の人々にあがめられたのがどれだけ得か」と言った。傷痍軍人になるには片方の靴下を濡れたまま履いておればその足が凍傷となり切断して擬足を付けるということである。軍隊生活のいやな私も一瞬なるほどと思った。しかし、故意にそのようなことをするとは不忠極まる非国民だ、またできよう筈はないばかげた話だと思った。……
 大連で乗車した汽車は北へ北へと進み、満州北西部のハイラルという街で下車、四月末とはいっても未だ雪は残り、経験したことのない寒さでした。駅から一時間程行軍し着いたところは、737部隊という大きな砲兵隊であった。元は輓馬〔ばんば〕部隊であったが、ノモンハン事変の敗北で機械化に切り替えられたということでした。……
 それから二か月ほど経つとフィリピン作戦への参加ということで動員令が下った。これまでは対岸の火事のように戦争がどのように展開されているかも知らされないまま演習だ訓練だと続けてきたが、いよいよ戦時体制に入ったことを感じた。遺書を書き、爪や髪を切って一緒に封筒に入れ、親への宛名を書いて人事係に提出し、出発の準備を進めた。……
 一方南に移動した多くの軍勢は目的地まで行き着かず、東支那海の藻屑となった。我々も隠れるように貨物列車で南に運ばれて釜山に到着、その日に釜山を発った大隊本部も、二、三日後に発った我々の先発隊も行き着いていない。我々は釜山で待機し、その間、幾度か遭難訓練が繰り返された。その訓練で欠かすことのできないものは三枚のスルメと二本のヨウカンか二箱のキャラメル(以上は水中食料)、三メートルほどのアサナワ(浮いた木に身をまとうためのもの)、三メートルほどの赤い布(フカよけ)、ナイフ(敵前に漂着したとき自殺又は安全地に漂着したとき食を求めるためのもの)などであった。
 そうこう過ごすうちに、フィリピンへ行っても編成できないので日本に渡り、鹿児島県や宮崎県の太平洋側に陣地構築して本土防衛に備えることになり、どうやら無事に門司に渡った。……

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(60)
日本軍による戦争の赤裸々な描写

「島びとの硝煙記録」多良間村民の戦時・戦後体験記(1995年発行)

与那覇善道「『天皇御奉公』と征ったが」

 昭和十七年十二月入隊のため生まれ故郷を立つことになった。その頃の日本は、英米に対して連戦連勝で村内には旗行列が続いていた。いよいよ出発の日は小学校児童並びに先生方が桟橋を埋めつくして、軍歌と共に万歳三唱で見送って下さった。一緒に出発した友人達は、故兼浜浩、故嘉数朝仁、故伊良皆朝弘、野里良吉等その他数名であった。
 この中で私が家庭的には恵まれなかった方だった。母は早く父と死に別れ、一人の姉とで貧乏生活しながら私を育ててくれた父、やっとで私一人にすべてを期待していた父、父、姉には出発当日は家から外に出ないように相談した。桟橋ではどれ程淋しがって身をくずすか心を配ったからである。隣近所の方々は「天皇御奉公(うしゅうぐぶうくう)や務みなうしいぱりーく」〔多良間語で、天皇陛下へのご奉公だから一生懸命がんばりなさいとの意〕と激励してくださったが、頭の中には家族のことばかりで、これが父と姉の最後の姿かも知れないと思えば胸が張り裂けんばかりでした。
 小さい伝馬船は嘉味田春公氏がつかまえて離さず、最後の私が乗るのを待ちかねていた。あまりあわてて飛び乗ったために小船はひっくり返った。私はぬれねずみのようになりながらようやくポンポン船に乗った。桟橋の見送りの人々が小さくなるまで私はきれいな砂浜も一緒に見つめながら手を振った。宮古から沖縄本島へ出発の日は多良間出身の友人達がクーティジャキィでいっぱい集まり万歳万歳で見送って下さった。
 沖縄本島についたら私は西武熊本21部隊の野砲隊へ仮入隊のため急いだが、敵潜水艦が出没して情報が悪いとかで五回戻った。六回目の乗船でようやく鹿児島に上陸して熊本に急いだ。昭和十八年一月十五日入隊予定(仮)だったので一泊して翌日は北支の本隊へ熊本の或港から夜航で出港した。支那の山西省で下車して一時皆が体操していると、前里達夫が偶然見つかったので彼の可愛い妹のセツさんから預かって来た千人針を渡したら、涙を流して喜んでいた。
 私は3中隊、彼は6中隊で同じ汽車に乗っていた。二、三日で山西省の本隊に入隊しここで一期の検閲をして各中隊から衛生兵見習いを二人ずつ出すようにとの事で、私もその中の一人に選ばれた。仕事は各種薬品の取り扱い、けが人の治療手伝い等急ごしらえの看護婦である。ある日病院に慰問団が来た。その時思わず宮良区の上原泰英が出会ったのでびっくりして二人共に抱きついて泣いた。彼は軍曹になっていた。
 私が衛生教育を受けていると、いつしか3中隊からは南方に出発していたので私はもう野戦病院気付となった。十九年四月から二十年八月十五日まで行軍に行軍又行軍を重ねつつ荷車の中でベトナムを通ってタイ国境まで行っていただろうか。敵の飛行機からビラがまかれた。日本が無条件降伏したとの内容らしい。将校連中は「これは敵の謀略だ」と信じなかったがバンコク着手前に本当の降伏を聞いたので一応退却して各部隊別に駐留した。……
 私は横浜から奈良の元隊長を頼りに行ったがここでもあちらこちらの復員者でいっぱいだった。私は定住できそうもないので二週間位で大阪に行き農家に住み込みしていたら親戚の与那覇昇君からの連絡により名古屋収容所に急いで行ったら、多良間出身の友人達が沢山笑顔で迎えてくれた。私は収容所入りの手続きはせず、大阪の地主農家で下男奉公しながら二十三年の冬を迎えお正月祝いをしていたら、多良間の嘉味田春公氏から「チチキトクスグカエレ」の電報が届いたので直ぐ沖縄行きを思い切った。汽車で鹿児島まで、那覇へ着くとすっかり焼け野原でした。やっとで六年ぶりになつかしい故里の土を踏んだ時は大粒の涙が出た。
 老父と姉は毎日毎日神かけて武運長久を祈っていたのであろう。声をあげて嬉し泣きした。……
◦以上の文章は、K・Sさんの沖縄報告の前号と今号に寄せられたものを別個に掲載しました。(編集部)

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