2022年、沖縄闘争のさらなる飛躍を!
辺野古新基地建設を断念させる年へ
沖縄の闘いはアジア民衆と共に
沖縄K・S
はじめに
コロナに翻弄された1年であった。外交・軍事・経済・福祉の諸問題がコロナ対策という目前の施策の後方に押しやられ、国民の政治意識の縮小が進んだ1年でもあった。その結果が、11月衆院総選挙での自民・公明・維新の「勝利」、立民・共産の「後退」となって現れた。
沖縄でも1年以上、辺野古の現地行動は各団体の自主的な取り組みに任され、県民ぐるみの行動を行うことができなかった。12月に入ってはじめて、第1土曜日の県民大行動がおこなわれ、800人が辺野古ゲート前に集まった。土砂投入3年に抗議する12・14行動には、ゲート前に200人、海上にはカヌー31艇、抗議船5隻に約60人が結集した。ふたたび沖縄の大規模大衆運動が始まった。同時に、沖縄に呼応し連帯する日本本土各地での取り組みもさまざまに行われている。
この1年を振り返り、今後の闘いの展望をどのようにえがくべきか。
1.変更申請不承認をめぐる攻防
玉城デニー知事は11月25日、沖縄防衛局が提出していた「普天間飛行場代替施設建設事業に係る埋立地用途変更・設計概要変更承認申請書」(変更承認申請書)について、「不承認処分」を行ったことを発表し、「不確実な要素を抱えたまま見切り発車したこの工事は絶対に完成しない。工事を中止し県との対話の場を設けることが一番重要だ」と述べた。
それに対し沖縄防衛局は、行政不服審査法に基づく審査請求を国土交通省に対して行った。2018年の県による「埋立承認撤回」に対抗して沖縄防衛局が行ったものと同じである。国策に反対する地方自治体の異議を手っ取り早く押しつぶす手段として、日本政府は行政不服審査法を利用している。
行政不服審査制度はその名の通り、「国民が簡易迅速かつ公正な手続の下で広く行政庁に対する不服申立てをすることができるための制度」(行政不服審査法第一条の目的)である。年間10万件を越える行政不服審査の受付状況は、社会保険、生活保護、国税、情報公開、出入国管理、労災、道路交通、高齢者医療などとなっている。
新基地建設は国の事業だ。行政不服審査法は「国の機関」に「この法律の規定は適用しない」と明記している。しかし、無理が通れば道理が引っ込む。今後、変更申請不承認の問題は行政不服審査の過程を経て、最終的に裁判の場で争われることになる。「司法の独立」の看板を掲げているが内実は内閣の支配下にある裁判は内閣の都合のいい結果になる。実のところ政府のサラリーマンとなってしまって裁判官たちは恥ずかしくないのか。
日本政府に対し抵抗する沖縄県を支持し激励する県内外の行動も活発に進められている。500人の集会・デモが県庁前で行われた12月3日、首相官邸前でも500人が参加して沖縄に呼応する集会が開かれた。連帯する動きは全国各地に広がりを見せている。日本自然保護協会は県を支持する声明を発表した。大久保奈弥(東京経済大学准教授・海洋生物学)、澤地久枝(作家)、白藤博行(専修大学教授・行政法)などの著名人51人も12月14日、「国は、沖縄県知事による埋立変更不承認を真摯に受け止め、直ちに埋立工事を中止 せよ」との共同声明を出した。
玉城知事による変更申請不承認を機に、辺野古新基地建設・埋立をめぐって日本政府岸田内閣と対峙する闘争戦線が再び力強く築かれ始めている。沖縄県の行政、オール沖縄会議に網羅される全県的な県民の運動、各地・各グループの自主的な取り組み、全国各地での連帯活動が一つの大きな塊となって、岸田内閣、防衛省・沖縄防衛局に対する強固な闘争陣形をつくり上げつつある。2022年は全面対決の年になる。闘いの輪に結集しよう。エセハト派・岸田に対する全国各地の力を総結集しよう。
2.辺野古の闘いの歴史を振り返る
始まりは、1996年の日米両政府によるSACO(沖縄に関する特別行動委員会)合意であった。以後、普天間飛行場の返還の条件とされた県内移設・新基地建設が画策されてきたが、県民は一貫して反対であった。2013年12月に埋立承認申請を認可した仲井真元知事も知事選挙では「県外移設」を掲げて二期目の当選をしていたのである。
2014年10月の知事選挙では、仲井真知事と自民党に対する県民の怒りが大きな渦となり、旧来の保革の枠を越えて辺野古反対を公約に立候補した翁長雄志候補が大差で当選した。また、直後の衆議院総選挙では、沖縄選挙区全4区で辺野古新基地反対を掲げた候補が当選した。
沖縄県による地方行政権力を行使した辺野古反対の闘いのピークは、2015年10月13日の翁長知事による埋立承認取り消しから、福岡高裁那覇支部での「和解」と工事ストップを経て、2016年12月20日の最高裁判決による沖縄県の敗訴の確定と翁長知事による承認取り消しの撤回に至る一年有余の過程であった。沖縄県のこの闘いは日本政府に対する法の枠内における抵抗、言葉をかえて言えば、合法的な二重権力闘争であった。中央政府の首相や閣僚を相手に一歩も引かず「新しい基地は沖縄には決して造らせない」という翁長知事の闘いを沖縄県民の大多数は強く支持するとともに辺野古の現場や地域で闘い抜いた。
しかし、沖縄県の行政権力による抵抗は裁判に行き着き最高裁での判決により敗北した。その後、政府による埋立工事が強行された。そうした現実に直面する中で、辺野古新基地反対の大衆闘争の規模とエネルギーは徐々に分散し後退していった。
国に抵抗しても無駄なのか。長い物には巻かれるしかないのか。2019年2月に歴史的な辺野古県民投票を遂行しながらも、県民の間に醸し出された無力感が現場と地域における結集力の弱体化と国政選挙・首長選挙での後退をもたらして来たことは事実だ。
玉城知事の変更申請不承認を契機に、辺野古新基地に反対する闘いはあらためて、県行政と連携しながら大衆運動が主導する局面に入る。辺野古・安和・塩川の現場と各地の地域を結んだ絶えることのない不屈の運動が、全国各地の沖縄に連帯する運動と結びついて、日本政府の国策・辺野古新基地を止める巨大なうねりとなっていくのである。
3.沖縄の本土復帰50年
勝利した戦争の「戦果」として沖縄を軍事占領した米軍は4半世紀にわたって軍政をしき、沖縄の陸・空・海を完全に支配し軍事要塞化した。人権と民主主義のない軍政下、頻発する事件事故、耐え難い騒音、基地からの有毒物質の流出と環境汚染、繰り返される凶悪な米軍犯罪の数々によって、県民の命と生活は脅かされ続けた。
1971年、国会が沖縄返還協定を批准した時、当時の琉球政府の屋良朝苗主席は「復帰措置に関する建議書」(沖縄県公文書館でPDFダウンロード可)を携えて上京した。屋良主席は、県民の総意として核兵器も米軍基地もない平和で安心して暮らせる沖縄の実現を訴えようとしたが、日本の国会は沖縄の声を聞くことなく、佐藤政権の提出した返還協定を可決した。
米軍政末期・復帰前夜の沖縄で、土地闘争、本土復帰運動、教公二法闘争、主席公選、全軍労ストなどに示されるように、米軍政支配は行き詰まり危機に瀕していた。琉球列島内の力関係は闘いの側が優位に立っており、県内の階級情勢は沸騰していた。日米両政府による沖縄返還は、危機に瀕した米軍政に代わって、日本政府が日本本土の政治的・経済的・法的支配体系をもって沖縄を縛りつけることを企図したものであった。それが日本政府の言う「本土並み」であった。
1972年5月15日の沖縄返還から50年を迎える。50年のバランス・シートはどうか。アジア随一の米陸・海・空・海兵の4軍が居座り続け、自衛隊の奄美・沖縄・宮古・石垣・与那国への配備が強行される現状を見れば、日米両政府の思惑通りに事態が進行しているように見えるかも知れない。日米両政府には琉球諸島の住民の命や生活など眼中にない。アジアの軍事戦略に利用できればいいと考えているだけである。
しかし、日本政府にとってのアキレス腱は、沖縄をはじめ琉球の島々が無人島ではなく、島々に暮らし喜び悲しみ怒る150万の人々がいるということだ。復帰後一時期混迷したかに見えた沖縄の反戦反基地闘争は、1995年を境に再び大規模大衆運動のエネルギーが充満し始めた。1995年。この年、大田昌秀知事が戦後50年の節目に糸満市摩文仁に平和の礎をつくった。さらに、米軍兵士3人による卑劣な少女拉致暴行事件に抗議する8万5000人の県民大会が行われ、以後の数度にわたる10万規模の集会の先鞭をつけた。
振興策と法的経済的支配の枠組みでは沖縄の闘いのエネルギーを解体することはできない。現実の矛盾がある限り必然的に闘いは起こる。米軍と自衛隊が県民の命と暮らしと健康を脅かし続ける限り、必ず大規模な戦争反対・基地撤去の運動が起こる。復帰50年を迎えて、我々は戦略的確信の下に、改めて基地のない平和な沖縄に向けた闘争戦線を固めなければならない。
4.沖縄が直面する戦略的課題
米軍の直接占領と軍政に対する闘いの27年と本土復帰後の日本政府の支配に対する闘いの50年を経て、沖縄の平和と人権を取り戻す闘争が直面する核心的な課題とは何か。
①沖縄から自決権を問う
日本政府の理不尽な支配から抜け出るためには沖縄は独立するしかないのか。独立して日本政府と対等の国を打ち立てることが日米両政府の軍事支配の桎梏から解放される道ではないのか。そのように考えてみたことのある人は多いかも知れない。薩摩の琉球侵攻以後400年以上におよぶ日本による暴力・強権・差別を強いられた琉球・沖縄の近現代史を振り返れば、沖縄県民が政治的に独立の道を選択しようとしても何ら不思議ではない。
中央政府から独立した沖縄が誕生するにあたっては、米軍と日本政府によって押し付けられた軍事的なキーストーンからの脱却が最初の重要課題となるだろう。日米両国の軍事支配から脱した沖縄が誕生すれば、アジアの周辺諸国から熱烈な歓迎を受けるに違いない。琉球共和国・沖縄共和国、あるいは民主共和国、人民共和国を名乗ることになるかもしれないが、日本との関係において二つの形が考えられる。①日本とは別個の沖縄独立共和国、②日本連邦制のもとに本土政府と対等の権力を有する沖縄自治政府。どちらの形にせよ、そのような時代が訪れることを想像するだけで胸が躍る。
独立か自治かという自決権を行使するのは沖縄県民である。2019年の県民投票を経て広く主張されるようになった「沖縄の自己決定権」は、巾広い概念であるが、政治的自立のための重要な萌芽である。最近では東チモールの独立戦争が示すように、それは当該地域住民の圧倒的多数の意思が決めるものであって、少数の指導者が恣意的に操作できるものではない。あらゆる選挙、調査によって示されている沖縄県民の多数の意思は一貫して、「本土復帰・基地撤去」に沿っている。沖縄が日本に属しながら、日本の一部としてありながら、中央政府を改革し沖縄独自の力を強化しながら、基地を無くしていくという方針なのである。
それは政治的には「自治」を意味する。突き詰めれば、「自治」の極限たる「自治共和国」と「自治議会」「自治政府首相」へ向かって、沖縄の闘争は徐々に、紆余曲折を幾度も経ながら向かって行くことであろう。沖縄県民は必ず勝利する。
②沖縄から国際主義を問う
沖縄はアジアの紛争と無関係ではいられない。天皇制日本の支配下で「帝国の南門」とされた沖縄の県民は日本の南方進出の先兵の役割を負わされ、フィリピン、サイパン、テニアンなどへ植民し戦争の最前線で多数が犠牲となった。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争など、戦後米国の戦争では沖縄は米軍の出撃・補給基地としてフル稼働した。
米国による現在の中国封じ込め政策によって、米軍基地と「南西諸島」奄美・沖縄・宮古・石垣・与那国の琉球列島の自衛隊基地によって、沖縄は中国軍との対抗の最前線に押し上げられている。「朝鮮有事」にとどまらず、「台湾有事」や尖閣諸島(釣魚台)をめぐる島嶼戦争ということが頻繁に言及されるようになった。
アジアの軍事的緊張の激化の中で、中国や台湾、朝鮮、アジア諸国の人々とどのように連帯するのか。
釣魚台(尖閣諸島)は、琉球王国が中国と冊封関係を形成して以来中国が支配する島々であった。無人島であったが無主地ではなく、中国名が付けられ、主に航路に利用された。明治政府は英語の「ピナクル(Pinnacle)」をそのまま日本語に翻訳して「尖閣」と名付けた。「尖閣は日本固有の領土」などではない。石垣市による「八重山尖閣諸島魚釣島」「沖縄県石垣市字登野城尖閣二三九二番地」などと記されている標柱設置は、日本のアジア侵略の歴史を肯定し中国との軍事的対抗を手助けする誤った行政行為である。
戦後アジアの最大の問題は、アジア太平洋戦争のいわば「負の遺産」たる二つのこと、すなわち、日本のアジア侵略の清算・謝罪のないことと米軍のアジア、特に韓国・沖縄・日本における大規模駐屯が続くことである。米軍のアジアからの撤退と日本のアジア侵略に対する反省・謝罪がない限り、アジアの戦後は終わらない。
欧米列強と新興帝国・日本のアジア植民地支配が苛烈を極めた20世紀、1922年1月にコミンテルンが主導する極東民族(勤労者)大会がソ連で開かれた。朝鮮、中国、モンゴルなど各地から約150人の代表が参加し、日本代表団は合わせて13人であったという。アメリカからの参加者には、片山潜やのちに『思い出の革命家たち』(芳賀書店)を書いた渡辺春男がいた。国内からの参加者には、沖縄県名護市出身、日大を卒業して弁護士になっていた徳田球一がいた。
極東民族大会の後、各国各地での民族独立運動、民主主義革命運動、社会主義運動がさらに活発化した。その後のソ連の変質と個人独裁の確立により、コミンテルンはソ連の外交と安全保障の道具に転落したが、国境を越えた諸民族の提携を企図した極東民族大会の国際主義の輝きは失われることはない。
アジアにおける軍拡と戦争に絶対反対、米軍のアジアからの完全撤退、各国の強権と独裁に反対し人権と民主主義を求めるという共通の価値観に基づいて、アジア各国人民の交流・提携・連帯が計られなければならない。お互いの言葉と文化を学び、それぞれの闘いを互いに知り交流し連携し、アジアの共同体へ向けた一大運動をつくり上げていくことが、100年前の極東民族大会の精神を受け継ぐ21世紀のわれわれの課題である。
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