12・12三里塚大地共有運動の会総会・記念集会 島田清作さんの講演から

砂川闘争から三里塚へ

 ことし砂川闘争が始まって66年目になります。かつての「防衛白書」の年表には1955年の欄に「5月8日砂川基地闘争始まる」と記されていましたが、ついにこの記述がなくなりました。いずれにしても政府刊行物にも記述されていた「砂川基地闘争」とは一体、何だったのでしようか。
 砂川闘争とはアメリカ軍立川飛行場の拡張をめぐって、足かけ15年にわたり続いた大きな住民運動のことを指しています。
 アメリカ軍立川飛行場の前身は大日本帝国陸軍の飛行場でした。1922年、当時の立川村と砂川村にまたがって作られた小さな飛行場はやがて拡大強化されて、太平洋戦争のときには軍都立川といわれ、1945年敗戦によりアメリカ軍に占領されてからは、朝鮮戦争、ベトナム戦争の出撃拠点となりました。
 朝鮮戦争休戦後の1955年、大型機の離着陸のために更に滑走路を延長することがアメリカ軍から要求されたのですが、砂川の農民たちは、強制収用のための土地測量にあらゆる方法で抵抗し、裁判所や東京都収用委員会でも論陣を張って一歩も譲りませんでした。
 ついに、1968年、アメリカ軍は拡張をあきらめ、翌69年、国も収用認定を取り消し、15年の闘いに終止符が打たれました。やがてアメリカ軍は横田基地に移り、1977年、580万㎡の基地は日本へ全面返還されたのです。

闘争にみる特筆
すべき4つの側面
 今振り返ってみると、この闘争は憲法との係わりで大変重要な意味を持っていたと言えます。
 その第1は国家と対決して住民の生活と地方自治を守る運動であったということです。
 1955年5月4日、東京調達局(現防衛省北関東防衛局)が砂川町の宮崎伝左衛門町長に基地拡張の通告を行ったのですが、それは140戸の農家と17万㎡の農地を奪い、町の中心を通る都道五日市街道を分断するものでした。町長はすぐにこの通告を地元住民に説明しました。
 同月12日には臨時の町議会が開催され、満場一致で反対を決議し、町議会議長を委員長とする反対闘争委員会がつくられました。宮崎町長は、調達局が土地収用のために行う立入り調査に反対して公告を拒否し、東京都知事の職務執行命令にも従わず、基地拡張のための一切の法的手続きを拒否しました。砂川町は、町ぐるみでアメリカ軍基地の拡張に反対したのです。
 第2は、自由と権利を自らの努力で保持するという憲法第12条の実践であったことです。国が農民の抵抗を警察官の暴力で排除して測量を強行していったとき、農民たちは「土地に杭は打たれても心に打たれない」という青木市五郎行動隊長(後の立川市議会議員)の言葉を合言葉にして、団結を崩さずに闘い続けました。
 警察官の警棒に投擲され1000人を超える負傷者が出ましたが、自らも重傷を負った日本山妙法寺の西本敦上人は「流すべき血は流さなければならない、失うべき命は失わなければならない。その後に平和な独立日本が訪れる」と説きました。万余の労働者、学生、市民が砂川にかけつけ、誰もが身を挺して自由と権利を守ろうとしたのです。
 そして第3は、豊かな生活のための農地か戦争のための軍事基地かの選択であり、非戦非武装の憲法か日米安保条約かの選択であったということです。
 砂川の農民たちは戦前戦中は旧日本軍に、戦後はアメリカ占領軍に多くの土地を取り上げられてきましたが、もうこれ以上、戦争のために土地を提供することを拒否したのです。
 この闘いの中で、東京地方裁判所の伊達秋雄裁判長は「駐留アメリカ軍は憲法9条に違反しており、憲法上その存在を許すべからざるものである」といって反対運動の人々の基地立入りに無罪の判決を言い渡しました。
 第4に砂川闘争は大衆的な実力闘争と法廷闘争の結合、あらゆる階層の人々の共同行動という面でも特筆すべきものでした。
 地元の農民、労働者、学生が無法な測量とそれを擁護する警察権力の暴行に徹底して非暴力で抵抗したのと併せて、法廷でも総評弁護団を中心とした数々の抵抗が繰り広げられました。測量のために農地に立ち入ってはならないという仮処分申請、東京都がなした土地収用のための公告の取消し請求、内閣総理大臣がなした収用認定取消し請求、飛行場内土地の明渡し請求、東京都収用委員会の審理裁決権限不存在確認請求の裁判などです。
 また、64年4月から始まった収用委員会の審理には、毎回多数の農民と労働者が三多摩労協の借り上げたバスで東京都庁まで傍聴にかけつけ、66年暮れまで傍聴にかけつけ、13回を闘いぬきました。
 この間も防衛施設庁による反対同盟への執拗な切り崩し工作は続き、66年の米軍機墜落炎上事故をきっかけとした多くの農家の移転と、買収済国有地の立入り耕作禁止、柵設置の通告を契機に、現地は10年ぶりの緊張につつまれました。
 このとき、ベトナム戦争反対闘争に取り組んできた三多摩反戦青年委員会は、反対同盟役員と共に全国に砂川の危機を訴えて歩いて現地での集会を盛り上げ、一方、美濃部亮吉東京都知事の出現により収用委員会の審理が中止になったこと、ベトナム戦争によるアメリカ財政の逼迫などとあいまって、ついに68年の拡張中止になったのです。

 砂川闘争のその
 後と今日的課題

 (1)米軍は69年11月、立川基地での飛行活動を停止し全部隊を横田基地に移駐させました。使わなくなった基地の跡地について市民は、米軍から返還を受けて平和利用を実現するよう国に働きかけたのですが、国は米軍基地のまま自衛隊に使わせる計画を進めました。
 立川市議会は71年10月、「自衛隊移駐反対」の意見書を満場一致で決議し、国に提出しましたが、72年3月、陸上自衛隊東部方面航空隊が強行移駐してきました。立川市は76年1月、米軍や自衛隊の使用を認めない「立川基地跡地利用計画市案」を決定し、立川市、昭島市、東京都の三者で協力して実現していく方針を固めました。
 77年11月、米軍から全面返還を受けた国は78年10月、自衛隊基地を中心とした利用計画を発表、これに対して市民は「基地のない市案」か「基地中心の国案」かを住民投票で決めることを求める直接請求運動を始めましたが、79年2月、市議会は直接請求条例案を否決、結局、跡地利用をめぐる市民の意向は無視され、また、買収済みの拡張予定地や未利用跡地などに未だ市民のための利用は進んでいません。

 (2)「駐留米軍は憲法違反」という伊達判決もその後、国によって踏みにじられてきました。1957年7月8日、基地内土地の測量に抗議して基地に立ち入った労働者・学生が日米安保条約に基づく刑事特別法違反で逮捕され裁判になったのですが、1959年3月30日、伊達判決が出されました。60年安保改定の交渉中であった両国政府はこの判決に狼狽し、最高裁に跳躍上告、最高裁は同年12月16日伊達判決を破棄しました。そして1カ月後の60年1月19日、日米安保条約の改定調印が行われたのです。

 (3)伊達判決から49年たった2008年4月、国際問題研究者の新原昭治さんは米国立公文書館で伊達判決にかかる多数の秘密電文を発見されました。それは当時の駐日米大使が本国の国務長官あてに送ったもので、伊達判決を覆すために藤山外務大臣や田中最高裁長官、自民党福田幹事長などと密談したようすが記録されているのです。
 このことを知った砂川闘争の関係者らが集まって「伊達判決を生かす会」をつくり、伊達判決を今の時代に蘇らせようと集会を開いたり国会議員に働きかけたりしてきました。
 日本政府各省庁にも、この密談の記録文書が存在するはずだからそれを開示するよう求めるとともに2014年6月、不公正な砂川裁判のやり直しを求めて東京地裁に再審請求をしましたが、2018年7月、最高裁により不当にも棄却されました。

 (4)安倍政権は、歴代の内閣や国会の論議を覆して2014年7月、集団的自衛権の行使は合憲であるという閣議決定を行い、2015年9月には安保法制の制定を強行しましたが、それらの根拠に砂川裁判の最高裁判決をねじ曲げて悪用しています。
 最高裁の不当不正な裁判により公平な裁判を受ける権利を奪われた砂川事件の元被告ら3人は、2019年3月、国家賠償請求の訴訟を起こし、現在東京地方裁判所で進行中です。この裁判を通じて、国家の違法性を明らかにするとともに、伊達判決を現在の世に蘇らせようというものです。
 戦後一貫して日本の外交はアメリカの言いなりで、沖縄返還や核兵器持込でも多くの密約があったことが暴露されてきています。私は、軍事同盟である日米安保条約を破棄し、すべ
ての米軍基地を撤去させることが砂川闘争から学び、教訓を生かすことであると確信しています。
 直接、三里塚闘争とはつながらないんですけども、私たちは農民の農地を守る運動、それは労働者
・市民皆が考える平和に安心して生活ができる日本を守る運動、そういうものと一体のものとして考えて、これからも砂川で闘い続けていきたいと思っております。
   (講演要旨・編集部)

講演する島田清作さん(元立川市議)

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