投書 おばの戦争体験
戦争も天皇も差別もない社会を作るために
おばの1人に戦争体験についてお聞きした。以下は、おばの手紙から。
1945年4月、小学校に入学した。8才だった。入学はしたものの戦争はまっただ中で毎日のように空爆にあい勉強どころではなく空襲警報が鳴りサイレンが町中に鳴りひびくと、学校から家へ帰され皆で必死に学校をとび出すが私の家は遠く30分以上かかるので、いつもは通らないお墓の中の道を無中で走り抜け家へと走り続ける。
遠く空の彼方から、米軍の飛行機が5機ずつ横並びに10機飛んでくるのが見えた。だんだん近づいて来る飛行機を背に必死に走るのだが、子供の足ではなかなか家にたどり着く事が出来ない。やっと林の見える所に近づいて来ると、林の入口に心配そうな顔をした母の姿が見えて来た。母の顔を見るなりどっと涙があふれて来た。泣きながら林の入口に近づくと母はしっかりと私をだきしめてくれた。
夜になると水戸の街が空襲で焼かれまっ赤にそまる夜空を窓からのぞいて、皆でおびえていた。空襲警報のサイレンが鳴ると家のそばの林の中に作った防空ごうの中に入り、体をよせ合いふるえていた。兄は、家のそばの松の木に登り近くの飛行場に飛んで来ては爆だんを落とすのを見ていた。飛行場をめざし飛んで来てはちょうど家の上あたりから急降下して爆だんを落すので爆だんのケースが家のトタン屋根に落ちて来てバラバラと大きな音をたてた。防空ごうの中で皆で耳をふさぎ丸く小さくなって米軍の飛行機が去って行くのを待っていた。
父は病気で入院していると母から聞かされていた。父がいなくなってからどうしようもなくさみしくなり会いたくて近所中聞こえるような大声で泣いた。何を云っても泣きやまないので母はたえ切れなくなったのか私をとり小屋のとなりの物おき小屋に入れた。姉が来てそっと背中をさすってくれた。そして、やっと家の中に入れてくれた。
父は病気で入院していると聞いていたが実は、戦争に反対して闘っていた友人を信州の山奥の温泉宿にかくまったことで東京拘置所へ入れられていたのだった。
母は家の畑でとれた野菜やさつまいもや卵、しぼりたての牛乳等を持って父の所へ面会に行くと云う。どうしても父に会いたいと云って私もつれて行ってと泣いてたのんだ。母と2人で面会に行くと父は、やせ細ってはいたが元気そうな笑顔で迎えてくれた。独房の中で毎日本を読んだり、小さな部屋の中を歌をうたいながら歩き廻っていたと云うことだった。私を見てうれしそうにひざの上にのせて、だっこしてくれた。父との久しぶりの楽しいひとときを過ごし空襲のあい間をぬってやっとの思いで、家に帰って来ることが出来た。
やがて8月15日「終戦」を迎え突然父が帰って来た。拷問で腰は曲がり歯はがたがたに抜け落ちて見るかげもなくやせこけていた。母はお風呂をわかし食事の仕度をしたりしていた。近所の友人達がかけつけて来て熱心に父の話を聞いていた。私は父のひざのあぐらの中にすっぽりと入り、話の内容はわからなかったが父とお客さんとの顔を交互に見つめながらただただうれしさでいっぱいだった。
日本は戦争に負けたけれど戦争がなくなればお互いに殺し合うこともなくなり世界中の人々が平和に暮らせると聞かされうれしさがこみ上げて来たのだった。
2021・8・2
――母は私の父方の祖父を「英雄ではない」というが、戦争に反対して闘っていた人をかくまったことについては私は支持する。ただ私は、アメリカと日本の戦争は「民主主義対ファシズム」の戦争であったとは考えない。「アメリカと日本の戦争は帝国主義間の戦争であった」と主張する人びとの方が正しいような気がする。
それと「戦争のない世界」を作り出すためには「戦争をおこすシステム」を打倒しなければならない。私はそう考える。日本軍国主義は、2000万人以上のアジア・太平洋の人びとを殺りくし、310万人以上の日本の人びとを死においやった。絶対に許せない。日本は侵略戦争と植民地支配の責任を真摯にとらなければならない。「戦争も軍隊もない世界」「天皇のいない世界」「差別のない世界」を作り出そう。
(匿名)
【注】①インターネットで見たら、おばの生年月日だと小学校入学は「1944年(昭和19年)4月」となっていた。原稿では、小学校入学は「1945年」となっていた。どちらが正しいのか、おばに問い合わせたら、「インターネットが正しいのではないか」というような話だった。でも、今回の投書ではおばの手紙通りにした。②おばの手紙はほとんどいじっていない。
(2021年12月24日)
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