沖縄報告 嘉手納爆音訴訟、原告3万5566人が提訴

静かな夜を返せ!
沖縄 K・S 1月30日

 米軍嘉手納基地周辺の自治体住民3万5566人(1万2049世帯)が原告となり、米軍機の夜間・早朝の飛行差し止めと騒音被害の損害賠償を日本政府に求める第4次嘉手納爆音訴訟が1月28日、那覇地裁沖縄支部に提訴された。原告は、嘉手納基地を取り囲む嘉手納町、北谷町(ちゃたんちょう)、沖縄市、うるま市、読谷村(よみたんそん)、宜野湾市、北中城村(きたなかぐすくそん)、恩納村の8市町村、W値(うるささ指数)75以上の地域に住む0歳から106歳の住民からなる。
 原告団準備会の新川秀清会長は提訴後の記者会見で、「耐えようにも耐えられないとの思いでみんなが立ち上がった。復帰して50年、何も実現しない。期待は裏切られている。静かな夜を取り戻すことは次をになう子どもたちへの大人たちの責任だ」と述べた。この日も嘉手納基地では、米軍のF15戦闘機が飛行訓練をくり返し爆音をひびかせた。北谷町砂辺の測定器では、「電車通過時の線路わき」の騒音に相当する100デシベルを上回る107・1デシベル、嘉手納町屋良では、101・2デシベルを記録した。
 日本政府に対する請求の具体的な項目は、①午後7時から午前7時までの米軍機の離着陸やエンジン作動の中止、②1日の騒音をLden(騒音の総暴露量を評価する時間帯補正等価騒音レベル)45デシベル以下に制限、③騒音に対する過去・将来分の損害賠償として、請求金額は一人当たり月額5万5千円となっている。
 嘉手納爆音の第1次訴訟は1982年、沖縄の本土復帰10年を機に提訴され、以来40年、これまで3次にわたり裁判が続けられて来た。今回の第4次訴訟団の原告は過去最多、3万5千人を超えた。とくに「子どもたちに静かな夜を取り戻したい」と、子育て世代が全世帯の3分の1以上を占めるという。

「第三者行為論」の欺瞞を止めよ

 嘉手納爆音訴訟と並び、米海兵隊普天間飛行場を対象とした普天間爆音訴訟も同様に、これまで裁判所は、耐え難い騒音の違法性を認め損害賠償をW値に従って一定程度支給することを認めたが、夜間・早朝の米軍機の飛行差し止めについては、「米軍という第三者の行為を日本政府は制限できない」とする「第三者行為論」によってすべて却下してきた。これが日本の司法の実態だ。米軍に従属した戦後日本の姿は、爆音訴訟の中に鮮明に浮かび上がる。
 敗戦によって米軍が占領軍として沖縄・日本本土に駐留し、サンフランシスコ条約による「独立」や沖縄の施政権返還後も、超法規的に運用を続けていることが明らかであるにもかかわらず、さまざまな法律的・政治的な欺瞞によって米軍駐留を合理化する戦後日本の司法・立法・行政の堕落は底なし沼のようだ。
 もう一方の当事者たる米国政府に対しては、嘉手納・普天間両爆音訴訟団からそれぞれ何人か選んで原告団をつくり行政訴訟を起こす方針とのことである。

千葉さん国家賠償請求裁判
1・18那覇地裁で第2回口頭弁論


 海上行動の際に発生した海保の危険操縦・傷害事件に対する国家賠償請求裁判の第2回口頭弁論が1月18日午後、那覇地裁で行われ、次回期日(3月3日)を決めて閉廷した。
 昨年4月15日、K8護岸付近の海上で、海上保安庁の保安官は、カヌーメンバー千葉さん目がけて高速艇2隻が挟み撃ちするように突っ込んで来るという非常に危険な行為を行った。しかし、海保は責任を認めず謝罪しようともしない。当日の海保の危険行為がどのようなものかは、海上行動チームの写真班が証拠写真を撮っており、『辺野古ぶるーのブログ』の「海保ゴムボートによるカヌーメンバーへの衝突」の項目のところに、詳しい経過と連続写真が掲載されている。海保は事実を率直に認め謝罪し賠償せよ。

栄町市場でミャンマー写真展
 
 昨年2月1日の軍部によるクーデターから1年。1月31日、那覇市栄町市場の一角で開催されている「ミャンマーで今何が起きているのか? ミャンマー写真パネル展示会」(主催=在沖縄ミャンマー人会)を訪れた。
 会場には、数多くの抗争現場写真、データ、コメントと共にテレビ画面を通した映像の放映が行われ、応援メッセージを書き貼り付ける掲示板が設置されている。また、ミャンマー・コーヒーやTシャツ、布バッグの販売も行われた。在沖縄ミャンマー人会のチョチョカイ会長(栄町市場北口でミャンマー料理の店「ロイヤルミャンマー」を営む)、トウヤソウ事務局長をはじめ数人の会員が一人ひとりの参加者に付き添い説明した。また途中、NHK沖縄の取材班がテレビカメラを持って訪れ展示会の模様を取材した。
 この1年間で、軍の無差別暴力による死者は1499人、逮捕者は1万1810人にのぼるが、各地でストライキ、デモ、武装闘争などの抵抗が続いている。民主と平和を求めるミャンマーの闘いが勝利することを願って、チョチョカイさんにミャンマー語で書いてもらった。
 平和 ネイチャンイェ
 民主 ディモカレィシー
 勝利 アウンヤミィ

1・29映画『南京』上映とトーク会(不屈館)
日本の戦争犯罪を直視しくり返さないための取り組み

 1月16日(日)から2月12日(土)までの4週間、那覇市若狭の不屈館で、「関東大震災時中国人虐殺之図」(南京芸術学院の張玉彪教授の油絵)と南京大虐殺のパネル12枚の展示が行われている(南京・沖縄をむすぶ会主催)。1月29日(土)午後1時からは、映画『NANKING(南京)』(日本語字幕版)の上映とトーク会が行われた。沖縄ではコロナのまん延防止等重点措置が年初から継続し、不屈館の来館者も激減する中、約20人が参加した。
 はじめに、不屈館館長の内村千尋さんがあいさつした。進行は、坂尾美知子さん(元ペシャワール会会員で、安和・塩川現地行動メンバー)。坂尾さんは、「林伯耀(リンポーヤオ)さんから託されてパネル展を行っている。今日のDVD上映とトーク会は、日本の中国侵略と暴力の実態を知り、二度とくり返さないための学習の場だ。来月は南風原文化センターで映画『南京 引き裂かれた記憶』の上映とシンポジウムを計画している。時間のある方は是非参加を」と話した。
 南京・沖縄をむすぶ会事務局長の沖本裕司さんは、「日本の中国侵略と沖縄戦は深く結びついている。沖縄からも多数の青年が中国の戦争に動員され日本軍の暴力の当事者になった。85人が‘集団自決(強制集団死)’したチビチリガマの惨劇で、中国大陸に従軍し日本軍の残虐な暴力を知り尽くしていた看護婦の知花ユキさんは、住民の米軍に対する恐怖と憎悪を増幅した。日本の中国侵略は県民の戦争体験の不可分の一部だ」と述べた。

国際安全区委員たちの語り、被害と加害の証言を通して
日本軍の暴力を描く『NANKING』

 上映された映画は米国人ビル・グッテンタグ監督の『NANKING(南京)』(90分、2007年)。ワシントン・ポストによると、この映画のプロデューサーとなったテッド・レオンシスさんは、『ザ・レイプ・オブ・南京』(同時代社、2007年)を書いた中国系アメリカ人ジャーナリストのアイリス・チャンさんの自殺をめぐる古新聞を目にしたことが製作のきっかけだったと述べたという。
 映画は、1937年当時、米国・ドイツなど二十数人の外国人が南京城内に国際安全区を設置し日本軍の暴力に対抗しながら多くの中国人難民を保護した史実に基づいている。映像は、日本軍の空爆や地上部隊の侵攻前ののどかな南京の風景の描写から始まり、日本軍の空爆、地上軍の侵攻、避難する外国人や住民、南京城入城、日本軍のさまざまな暴力などの実写フィルムが続く。
 ジーメンス社の南京支社長のジョン・ラーベ(『南京の真実』講談社)、米国人クリスチャンで金陵女子大の教師ミニー・ヴォートリン(『南京事件の日々』大月書店)、中国に生まれ育った鼓楼病院の外科医のロバート・ウィルソン、YMCA書記のジョージ・フィッチ、ビデオ・カメラを手にして日本軍の暴力を撮影し続けたアメリカ人宣教師のジョン・マギーなど、南京安全区国際委員会を担った人々の役を、俳優が演じて語り掛ける。さらに被害の証言、加害の証言が重ねられていく。バランスの取れた演出の90分で、画面に引き付けられる。
 映像のエンディングに、日本軍の暴力によって中国での女子教育に挫折させられ神経症を患い1941年米国でガス自殺したミニー・ヴォートリンとうつ病を患い2004年銃で自殺したアイリス・チャンを追悼する字幕が流れた。さらに、安全区委員会の委員長を務めたジョン・ラーベはドイツに帰国してから、南京の人々を救うようヒトラーに訴えたところゲシュタポに逮捕され、戦後はナチに協力したとして不遇をかこっていた。極貧のラーベを救うため南京の住民はカンパを募りラーベに届けたことも字幕で流された。

アジア侵略の歴史に国民的総点検の徹底を

 天皇制日本のアジア侵略の歴史を肯定する恥知らずな人々が政界・言論界で大手を振っていることに対する対抗活動は、天皇の軍隊による暴力の実態についての認識を最大限に広めることである。研究会、学習会、映画会、講演会などさまざまなチャンネルを通じて、天皇制日本の連綿と今日まで続く暴力と抑圧の歴史の肯定を大衆的に総点検しなければならない。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(61)
日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今号も多良間島民の証言を紹介する。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

「島びとの硝煙記録」多良間村民の戦時・戦後体験記(1995年発行)

下地玄潤「戦時、戦後体験記」


 昭和十二年といえば私が17歳の時でした。……昭和十二年に新聞社印刷工として奉職しながら青年学校で軍事訓練を受けるが、陛下のため国のため一命を投げうって忠誠を尽くせ…と教えられ、軍人勅諭の全文暗記を命じられ日夜励むうち七月七日支那事変勃発となり、大本営発表は新聞社のラジオでいち早く知ることが出来た。当時は民間にラジオを持つ家庭は少なく、新聞社前に人垣をつくり戦況に聞き入っていた。
 中でも十二月十日松井石根(いわね)大将の率いる第10軍の南京攻撃のニュースは血沸き肉躍るものであった。そして四日後の13日南京陥落。平良〔ひらら〕町では提灯行列で戦勝を祝った。明けて十三年一月一日の正月映画・毎日新聞ニュースで南京城総攻撃の実写を見た。砲煙立ち込める城内へ突入する皇軍将兵の銃剣のきらめき、重機関銃の砲身に水をぶっかけての連射、城壁にはしごをかけ、我先を競う将兵たちの勇ましさ。やがて城頭高く押し立てられる日章旗のもと万歳を叫ぶ陥落の瞬間、超満員の観衆の指笛、大喝采は遠く大陸の将兵たちに届くかに思える程であった。そして敵の退路を遮断するウースン鉄橋を破壊する空軍の的確な爆弾攻撃など胸のすく大戦果に酔いしれた。……
 間もなくして昭和十六年となり徴兵検査の日が来た。暫くして町役場から通達があり、重砲兵であることが分かった。体を鍛え、入営の通知を待てという文面であった。いよいよ軍人になったのだ。国のため一身を捧げる日も近い。男子の本懐これにすぐるはなし。武者震いしたものである。一兵士としていずれは戦場で果てる身、覚悟はしているが、七名きょうだいで男は私一人である。入隊し戦場へ行けば、死ぬことは決まっているようなものである。戦死の事をどのように母に伝えればいいのか、これが悩みの種となり、母の心中を思えば、うかつに口に出せるものではない。この時代に適齢に達した男の子を持つ母親たちは本人と同じく戦死を覚悟している筈である。我が母とて軍国の母としての誇りはあろうが、戦場へ赴く我が子をどんな気持ちで見送るのであろうか。“名誉の戦死”とか、金鵄勲章を授かるということは兵士の死を美化する言葉にすぎない。心の中で泣き、顔で笑って万に一つの生還を願うしかない心情であろう。一人息子を失う母の嘆きを思い戦死の二字をタブーとしているのである。どうしても自分の口から言えそうもない。悩んだ挙句、妹にそーっと死後の事を話す外はなかった。
 ……そして十二月八日、ニイタカヤマノボレの電波が飛び真珠湾奇襲作戦を決行、太平洋戦争へ突入して行った。……
 勝った勝ったと喜んでいる時、これをせせら笑う記者の一人はこう言った。日本のお偉い方はバカ揃いだ。軍人を総理大臣にしたり、米国の国力も知らず宣戦を布告するなど以ての外だ。長期化すれば日本は負ける……と、報道の規制に業を煮やしての放言ではないか、と思った。戦線が拡大するにつけ諸物資の欠乏は深刻の度を増し新聞用紙も入手難に陥り遠からず廃刊になる公算大である。配給米の一日二合五勺も減らされると言うし、石鹸、石油の購入もままならず、戦勝を喜ぶ裏では、すきっ腹をかかえた主婦たちは目の色を変えて食糧確保へ東奔西走。綿製品もいつしかステープル・ファイバー略してス・フが店頭に並べられるが、一度洗濯すると変形して作業着にしかならない代物であった。――欲しがりません、勝つまでは――の標語がつくられたのもその頃である。そして戦争に欠かせない鉄の不足となり家庭用品のナベ、カマの供出が半強制的に実施され、今度は各学校の二宮金次郎まで持って行く。この状況を見た記者は、それ見た事か、と鼻で笑っていた。物資不足にあえぐうち、昭和十七年を迎えた。待ちあぐねる入営通知もない。そのうち同窓たちはほとんど宮古から姿を消し戦線に加わっているし不具者でもないのに市内に残され、恥ずかしくて道を歩くのもはばかられた。……
 大本営は我が軍の勝利を報じ、敵に大打撃を与えた等の発表に終始するが、独身寮同居者に通信機の検査官(中島技官)がいて、受信機のテスト中に外電をキャッチし、大本営発表はウソだと言い切った。国民の戦意喪失を恐れる軍人は、我が方の損害軽微をまことしやかに報じていたのである。日本の勝利を信じ困苦欠乏に堪えて仕事に励むのだが、中島氏の秘密裏の戦況を聞くたび胸を痛めた。今ごろ多良間の家族はどのように暮らしているだろうか、気がかりで食もノドを通らない。当時、手紙は何者かによって検閲され母の手紙も何か所か黒々と太い線で消されていた。私が送った手紙もそのように届けられていた筈である。……

2022.1.26 琉球セメント安和桟橋。出口ゲートでの抗議行動。
2022.1.28 琉球セメント安和桟橋。のべ11艇のカヌーで1時間余出港を遅らせた。
2022.1.28 琉球セメント安和桟橋。土砂運搬船のアンカーを守る海上警備。
2022.1.31 栄町市場のミャンマー写真パネル展。
2022.1.25 南風原文化センター。以前の調査で明らかになった壕内部の様子。

週刊かけはし

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