県内市町村の中国での戦争体験記を読む(62)日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今号で紹介する多良間村の嘉味田さんは、チモール島での日本軍の残虐行為を証言している。嘉味田さんの証言は、沖本裕司編著『増補改訂版 県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む~沖縄出身兵170人の証言~』に収録されている。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。
「島びとの硝煙記録」多良間村民の戦時・戦後体験記(1995年発行)
嘉味田朝俊
「語り継ごう、戦争と平和」
私は、第二乙種で兵役は免除と思っていたが、1943〔昭和18〕年の4月に東京にいるとき召集令状を受けた。召集令状を受けた私は故郷に帰れず、父母に会うこともできずに、東京在の郷友や先輩方の送別を受けて台湾第4部隊に入隊することとなった。……
部隊における戦闘訓練の期間は二か月から三か月であった。訓練後に先輩ともども南方行きの船団に乗船し、私達は戦地に向かった。シンガポール、フィリピン、ジャワ、スンハオを転々と回り、チモール島をめざしての出発であった。
チモール島のデイリー港の入港を目前にして敵の潜水艦による攻撃を受け、一隻が撃沈されたが、その艦船に郷友の当間実君が乗船していたらしいと伝え聞いた。
私達が上陸したチモール島は南方における最前線と位置付けられ、オーストラリアに一番近い駐屯地であった。同島での軍隊生活は極めて悲惨なものであった。各部隊では上官による「ビンタ」などのいじめは日常茶飯事だった。
三か月程の戦闘訓練の後、部隊長から「君は下士官候補に行け」と命ぜられたが、私は「できません」と言った。命令を拒否した私に向けられたのは制裁であった。ビンタで顔は張り飛ばされ、こん棒で殴られた尻は血で真っ黒になり座ることもできず、さらに意識もうろうとなり肉体的精神的な苦痛は極限に達した。とうとう私は苦痛に耐えきれず「行きます」と答えた。医務室に連れていかれ傷の処置の後、「翌日、すぐ出発せよ」と命令され、私は連隊本部の近くで下士官候補としての教育を受けることとなった。
下士官候補の教育があと十日で終わろうとする頃、完全武装で身を包み行軍し、島民が集まっている広場で休憩をとった。その後の出来事は私にとって悪夢となった。
「右向けー右!」という号令を受けて、私達は二列横隊で整列をした。前方に目を向けると一組の男女が木に縛られている姿があった。右側に縛られた男は四十代前後の逞しい筋肉の盛り上がった大きな体格で、左側の女は中柄の可愛い、三十代半ばで二人は夫婦であるかのように私には思われた。
二列横隊に整えた部隊に教官から着剣命令が下されると共に「訓練の成果をあげ銃剣術の基本である心臓を一突きせよ」という号令が発せられた。
標的にされた彼ら二人を見ていると、同世代の故郷の父や母の姿を思い出し、恐怖心にかられた。平気で人を殺すという行為が平然と命令され、そして実行される。まさに戦争のもたらす惨禍であった。
こうした残酷な行為の前に、人情とはいったい何なのか。人間の本性として誰もが感ずるのではなかろうか。ああ、いやだ…。そう思っていた時、「嘉味田上等兵、男の方へ一撃の一番手を」と上官から号令が私にあった。心は激しく乱れた。どうして私が…、ぐずぐずした。後方にいた教官から「何をぐずぐずしているか」とこん棒で頭を打たれた。目をつぶって私は突撃した。腹を少し突いたらしい。男に両手で剣をつかまえられてしまった。必死の思いで抜き取った。やり直しの教官の叫びで、もう一度私は突いた。二番手、三番手と突いて行く。女の方は悲痛な叫びをあげ、夫に別れを告げるかのように男へ視線をやりながら首を垂れてしまった。
三番、四番手から突かれていく男の形相はすごかった。私たちと女の方を交互ににらんでいたが、とうとう力尽きてしまった。しかし、命果てた二人に向かって二十人の兵士が突撃していった。あたりは真っ赤な血の海、悲惨な殺人現場であった。
この男女にどんな罪があろうとも、実に人間の道を外れた日本軍の非道な行動であった。いかに命令とはいえ、生まれてはじめて尊い人間の命を奪う殺人者となった。下士官候補の全員は複雑な気持ちになったのであろう。
今日の八月十五日に、この原稿を書きながらも戦後48年を経た今でも、あの光景が走馬灯のように脳裏によみがえる。心に焼き付いて離れない。……
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(63)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する多良間村の垣花さんは、当時の小学校での教育現場の実態を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。
「島びとの硝煙記録」多良間村民の戦時・戦後体験記(1995年発行)
垣花幸雄
「子どもが見た島の戦争」
「おあつうございます」
「おさむうございます」
これは小学四年生の時、藤村市政校長先生自らの指導による暑い、寒いの挨拶の練習である。……
昭和十六年十二月八日。この日始まった太平洋戦争は、時が経つにつれて緒戦の破竹の勢いはどこへやら、花火のように消えてだんだん厳しい局面を迎えつつあった。
そこで当局は、子供たちを沖縄県より安全とみられる内地(本土)や台湾へ疎開させることになり、島でもいつ疎開命令が下り、疎開先に行っても言葉に困らないように標準語の練習を始めさせたのである。
今考えると、「お暑うございます」「お寒うございます」という言葉は、本土でもお年寄りの遣う丁寧語で、子ども向きではなかった。そのような言葉の遣い方を小学校の四年生に教えていたのだから、戦前は如何に本土との交流が少なく、情報不足の時代だったかが分かる。……
戦時中の学校への登校は、各自で自由に登校するのではなく、各部落ごとに決められた場所に集まり、二列縦隊に並んで最上級生の会長の指揮により正常歩で学校の中庭まで連れていかれた。私たちの頃の嶺間部落の会長は、元気のいい山城一男先輩であった。
また、学校では元日をはじめ、紀元節、明治節、天長節など国の節句となると講堂の周囲の窓に紅白の幕が張りめぐらされ、厳かに式典が行われた。そして、それぞれの節の歌が歌われ、校長先生がうやうやしく教育勅語を読み上げるのが慣わしであった。
……
そして子どもたちの夢は、「末は博士か大臣か」ではなく、「兵隊さん」になることであった。
「僕は海軍の水兵さんだ」
「僕は飛行士になるんだ」
「私は従軍看護婦さんになりたい」
などと言い合い、子どもたちは戦争へ行き、大君(天皇)のために忠義を尽くすことが人のとるべき道と思い込んでいた。……
出征兵士を出した家の門には、必ず「出征兵士の家」という札が立てられていた。……そのようにして送られた人達は、一定の訓練期間を経て支那大陸(今の中国)をはじめ当時の満州、タイ、ビルマ、インド、ジャワ、スマトラなどへと配置されて行った。そこで戦死すると遺骨となってしまに送られてきた。この時も生徒たちは総出で桟橋に出かけ遺骨を出迎えた。戦死者の遺骨は共同墳墓に入れず、特別に石碑のついたお墓をつくって祭り、名誉を讃えた。
ある家族のことだが、そこの長男は私が物心つく頃には中国大陸で戦死していた。皆から名誉の戦死といって慰められていたが、親としては立派な若者に育てたのに戦争にとられ、家のために働くこともなく、結婚して孫を残すでもなく、その後の親の生涯は楽しみはなく、希望もなく、怒りをぶつける所もなく、いつも「あの子さえ生きておればこんなことにはならなかったのに――」との思いを胸に生涯を閉じた。
あの甲種合格の優秀な長男が生きていたなら、その家はもっと繁栄し、親ももっと楽しい人生が送れただろうにと思うと、人の家族を破壊する戦争はこの世の最大の罪悪だと思った。しかしそれは大きくなってから思ったことで、少年の頃は名誉の戦死としてとらえ、戦死者の家族の置かれた立場を考えるまでには成長していなかった。……
(K・Sさんの「沖縄報告」に掲載できなかった戦争体験記を読むシリーズを掲載しました。「かけはし」編集部)
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