寄稿 群馬の森「記憶 反省そして友好の追悼碑」建立の経緯(下)

領土拡大・植民地獲得の戦争経済を支えた強制連行政策
強制連行労働現場の実態
荒木田 進

植民地支配はいかに進められたか

 朝鮮人労働者は帝国本国でいかに酷使されたかをみてみよう。
 大日本帝国の植民地獲得・領土拡大政策は、明治政府が掲げた富国強兵政策から始まる。学制により、小中学校を整備し、徴兵令で軍隊を組織し、地租改正で、税制を整えた。そのうえで殖産興業を掲げて官営工場を建設し、鉄道建設などによる交通網、郵便制度などによる通信網を整備し、金融制度を確立し、産業を近代化させる。 
 しかし、この時日本を取り巻くアジアではすでに帝国主義列強が、戦争により、植民地獲得を争っていた。天皇制大日本帝国は、この中に割って入り、日清・日露戦争に勝利し、朝鮮から、ロシア帝国を駆逐するとともに、1905年大韓民国政府に不平等な乙巳保護条約を締結させ、外交上の権利を奪い、統監府を設置し、韓国軍を解散、日本憲兵制度実施を通し、事実上の植民地支配を強め、1910年に、韓国併合で、植民地統治の権力機構総督府を設置し、軍事、司法、警察を掌握し、朝鮮を憲兵警察制度で、完全に、植民地として支配した。
 しかし、この植民地経営で注目すべきは、農村の土地改革である。これは、1905年の統監府の時から始まり、占有権を持っていた農民の所有を認めず国有化し、その面積は、全耕地面積の20分の1に及び、それは日本人土地会社へ払い下げたりした。さらに1910年以降始まった本格的土地調査事業において、憲兵が動員され、土地所有権者187万人、土地面積487万町歩、そのうち耕地面積433万町歩に及ぶ土地査定が行われた。
 しかし、実質的耕作者の権利が認められず、日本人地主や土地地主にあるいは、国有地として集中され、膨大な小作農民が生み出されることになった。その結果土地から分離された農民は、自小作と小作農家合わせ、全農家数の77・2%を占めている。そして、小作人に対しては、40~70%という小作料のほか地税、諸公課、用水量などが、課せられた。この結果、農民として生きられず、植民地の労働力として吸収されない労働力が生まれることになる。
 帝国主義日本は、植民地朝鮮から、暴力的資本蓄積を図るとともに、1914年に勃発した第1次大戦の好況を契機に、三井、三菱、住友、安田などのコンツエルン形態の独占体が形成され、主に造船、製鉄、化学、石炭、および繊維などを中心に急速な資本蓄積が強行された。その結果、本国だけの労働力だけでは、不足となり、植民地に存在した朝鮮人労働力を移動させることとなるのだ。
 しかし、第1次大戦後、20年代続いた不況や恐慌の結果として、労働力過剰、失業問題が生じ、一方資本蓄積が進む中で、金融資本が生まれる。この中で、朝鮮人労働者は、より強く失業の圧力を受け、排除され、日本就業構造の底辺を形成する一定の職種に就業を限定されざるを得なくなる。すなわち、人夫,鉱夫、として、土建業、炭鉱や鉱山に、さらに突貫工事の現場に雇用されるようになるのである。

朝鮮人労働者の移動は強制的に

 1930年代になると、大日本帝国はさらなる市場と植民地を求めて、満州国建設のために、新たな戦争を始める。侵略の兵站地として、朝鮮の植民地支配が強化された。1936年、思想犯保護監察令、37年国民精神総動員連盟を結成し、朝鮮人に対して、日本語使用、臣民誓詞の強制、39年創氏改名、40年ハングルの抹殺を行った。こうして1937年の日中戦争勃発によって戦時体制の国家総動員体制の下で、朝鮮人労働者の移動は、国家権力による組織化された統制により強制的に行われるようになった。1939年から45年の6年間だけで、集団大量募集,官斡旋、徴用と名前を変えても移動した朝鮮人労働者は72万人に及び、在日朝鮮人数は、1939年の100万人から大日本帝国が、敗戦を迎えた45年には、200万人に達していた。

群馬県の強制労働現場

 このような強制連行の歴史に対しての調査が、1980年代から全国各地で始まった。その中で明らかになった群馬県の強制労働現場の実態について、いくつか紹介しておこう。
 1991年に群馬県調査団が、日本社会党群馬県連、朝鮮総連群馬県本部、群馬朝鮮問題研究会、群馬地評センター、朝鮮女性と連帯する会などで結成され、群馬県に、知事事務引き継ぎ書その他の資料公開を要望し、さらに群馬県に連行された朝鮮人労働者が、過酷な労働に従事した労働現場がある各自治体にも資料公開を要請した。このような、資料に基づき現地調査を行い、明らかになった労働現場の実態は以下のようである。

東京電力・岩本発電所での強制連行労働現場

 JR上越線岩本駅の裏に東京電力の岩本発電所がある。この発電所は、アジア太平洋戦争の末期、京浜工業地帯の軍需工場に電力を送るため、軍と政府の強い要請によって、1942年1月に着工され、最大出力2万7千kwの電力を得ようとするものだった。工事は、地下導水部分を、間組が、発電所部分を大林組が請け負った。この発電所に必要な毎秒40立方mの水は、約5キロ上流の利根川と、その支流の赤谷川から取水している。この間の97%は地下水路で、この導水路の掘削作業は、1000人の強制連行された朝鮮人労働者と600人の中国人捕虜が、行った。地下導水路は、15㎞を22カ所に区切り、竪坑を掘り、さらに横に掘り進む形で行われた。そして、労働者はそれぞれの場所に飯場を建てて、分散配置された。
 この工事を請け負った間組の百年史の中で、「朝鮮人・中国人労働者が労働現場に連行されたとき、そこはすでに極限状態であった」「当時食料は非常に粗悪でカボチャ、トウモロコシ、サツマイモ等が主食であったが、それすらも満足に食べられない。慢性的な飢餓状況にあった。過酷な作業のために死亡者が続出し過酷な作業のために、中国人43人が死亡した。また、またこうした劣悪な条件に耐えられず逃亡する朝鮮人・中国人も相次いだ。工事用の物資もほとんど欠乏し、隧道工事は鑿(のみ)で掘った。」などと記録されている。
 1945年2月、導水トンネルは通水可能な状況に達し、2月28日発電所背後の山頂まで仮通水を行ったが、3月10日の東京大空襲で、発電の望みは消えた。そして、京浜工業地帯への米軍の空襲により、工場は破壊され、岩本発電所の緊急工事の意味も失われてしまった。
 1945年3月、突然、海軍航空隊本部の将校が現れ、「もう発電所はいらない。飛行機作りだ」ということで、強制連行されこの現場で働かされていた朝鮮人・中国人労働者は、利根郡月夜野町(現みなかみ町)後閑の中島飛行機製作所の地下工場に動員されることになった。
 中島飛行機製作所は、群馬県を中心に全国に飛行場があったが、米軍爆撃で、次々と破壊されていった。群馬でも1945年2月11日、25日の米軍爆撃で、大田、大泉の工場が、壊滅的な打撃を受け、群馬でも突貫工事で地下工場建設が始まった。後閑の地下工場は完成すれば、大泉の工場が、移転してくるはずであった。
 地下工場建設地の住民は、突然立ち退かされ、上越線後閑駅から、建設地までの軍用道路が、3日で開削され、駅には新たな貨物ホームが作られた。地下工場は、間組が、岩本発電所導水路工事に連行して働かせた朝鮮人・中国人労働者が主力で建設がすすめられ、深いものは、150mもあり立坑横坑が、碁盤の目のように掘られた地下工場は、中を自動車が走れるほどの面積があり、付近には、完成した飛行機を隠す豪も作られていたという。地下壕自体は7月に完成。機械も据え付けられたが、1945年稼働しないまま敗戦を迎えた。

陸軍火薬廠、吾妻線建設問題

 1945年には、本土決戦を決意した陸軍が、陸軍火薬廠(火薬製造所)の地下工場化を進めた。全国11カ所あった火薬製造工場を、3カ所に集約して、完全地下工場化、するものであった。ちなみに、群馬県高崎市の岩鼻製造所は、現在は、県立公園群馬の森と、原子力研究所・日本火薬になっている。全国3カ所のうちの一つとして、工事が進められたのが、沼田市川田村利根川岸岩盤に掘られた地下工場であった。工事にあたったのがこれも間組である。トンネルの計画延長3143mであったが、これは、450m完成したところで、敗戦のため中断されている。
 電力供給、飛行機工場の地下化、火薬工場の地下化が、関東平野から山地へと変わる沼田周辺に強制連行された朝鮮人・中国人労働者の労働で突貫工事として行われ、上越線、高崎線で京浜工業地帯と結ばれたが、いずれも実際に戦争に使われることはなかった。
 もう一つ、群馬県には、軍需産業を支えるための我妻郡内の鉱山開発とそれを京浜工業地帯につなぐ吾妻線建設の問題がある。
 群馬県六合村は草津町から4㎞ほど東北に位置する海抜1000m近い高地にあり、ここに群馬鉄山がある。太平洋戦争の末期になり、兵器生産に欠かせない材料である鉄鉱石の輸入は、途絶えた。この中で本国内での鉄鉱石採決が不可欠になり、1933年、日本鋼管が、群馬鉄山の開発を始める。
 これは、軍部指示、命令によるものであり、1944年12月にようやく開山にこぎつけ、1945年1月に日本鋼管川崎製鉄所に出荷[筆者]が始まるが、1945年7月には、日本鋼管の製鉄所の火が消えてしまうことになる。これと並行して、群馬鉄とともに兵器生産に必要な鉱山がある町を結んで、渋川から吾妻川沿いに、中之条町、長野原町を通り、嬬恋村を結ぶ55・6㎞の吾妻線が建設される。このルートには、我妻渓谷があり、その工事もまた困難を極めた。1943年末から開始された突貫工事は、沿線住民も動員して、1945年1月に完成したが、その困難な現場は、朝鮮人・中国人労働者が労働を担ったのだ。
 アジア太平洋戦争が総力戦となり、天皇制大日本帝国は、戦争勝利のために生産のための労働も総動員体制で組織されていく。この過酷さは、軍隊、憲兵、警察、特高、行政、隣組制度により、統制管理される。そして、それは、国家独占資本主義のもとの最底辺に配置された労働としては、生存を越える酷使として行われた。それが強制連行による朝鮮人、中国人の労働である。

強制連行は差別構造を作った


 しかし、これは、戦争末期に突然現われたものではなく帝国本国と植民地の関係の中で作り出された植民地からの労働力の強制移動があり、さらにその労働が底辺への移動を強制され、人権を認めない差別の強化によって固定化されたということを忘れてはならない。敗戦まで、強化されたこの構造は、敗戦によって一時停止されただけであり、様々な差別とともに、社会の中に埋め込まれているということを忘れてはならない。このことを記憶し、日本社会に一時的に埋め込まれた構造を掘り起こし、それと闘わなければ、この差別をなくすことができないのだ。(おわり)
 
参考文献 「群馬における朝鮮人強制労働」 編集-発行「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会、「日本帝国主義下の植民地労働史」 著者松村高夫 発行所 不二出版

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