2.11「紀元節」と「天皇誕生日奉祝」に反対する2・11~23連続行動
「天皇制文化」への国民統合に抗して
反「紀元節」集会とデモ
2月11日の「建国記念の日」、「『紀元節』と『天皇誕生日奉祝』に反対する2・11―23連続行動」は、その第1弾として「2・11反『紀元節集会』&デモ」を後楽園に近い東京都文京区の「アカデミー文京・リクリエーションホール」を会場に「反『紀元節』集会&デモ」を午後1時30分から行った。96人が参加した。
なお集会では「第56回なくせ!建国記念の日・許すな!靖国国営化 2・11東京集会実行委」と「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館運営委員」の池田弓子さんからの連帯メッセージが紹介された。「女たちの戦争と平和資料館」は、この日「被差別部落史」が専門の黒川みどりさんを講師に学習集会を行っている。
このような形で、天皇制の「祝賀記念日」に批判と抗議のイベントを持続的に企画し、全国的に連携を取り合っていくことは、民主主義を人びとの中から再構築していく上で、決して軽視できない重要な課題だ。
集会では、実行委員会の仲間から、今の「徳仁天皇制」が「コロナ危機」の中で去年も今年も正月などの「一般参賀」を行い得ていない状況が指摘され、それが「天皇と国民」との関係にもたらす影響などについて注意する必要があることも指摘された。多様性に富んだ集会のメイン講師は学者で近代日本天皇制に詳しい筑波大教授の千本秀樹さん。千本さんは「紀元節は近代天皇制文化の象徴だが、天皇が象徴するものは何か、それに対抗する私たちの文化とは?」というテーマで講演の軸を性格づけた(講演要旨:別掲)。
さらに、2月27日の朝鮮独立運動103年集会(2月27日午後2時 文京区民センター)への呼びかけ、武蔵野五輪弾圧被逮捕当該、オリンピック災害おことわり連絡会・救援会からのあいさつを受けた。
集会後、参加者たちは、御茶ノ水など人通りの多い都心で天皇制右翼の挑発をはねのけて元気にデモを敢行した。 (K)
千本秀樹さんの講演から
天皇制文化の象徴としての紀元節に抗して─民衆の文化とは何か
国と社会は根
本的に異なる
様々な国のナショナリズムは、世界体制の再編の中で独自の色彩を帯びるが、そもそも「帝国主義」という言葉が使われなくなっている。若者の中では帝国主義的資本主義の体制が「民主主義」であることは常識となっている。それは在来型の帝国主義ではない、ということだ。多くの場合、援助対象国は資本にとって原料供給国という機能のみではなくマーケットとしての意味合いを持つようになっている。
フィリピンは今でも4大家族が支配しているが、原料供給機能だけではなくマーケットでもあり、帝国主義の一方的侵略という捉え方が通用しなくなっている。帝国主義は自国の労働者を収奪しなければならない。その中で階級の分化が進み、資本家自身のグローバル化が進む一方、国家という単位の中での引き締め――ナショナリズムの強化が進行する。安倍内閣は、教育基本法を改悪し、日本の伝統文化を理解する教育を押し付けた。高校のすべての教科書は「伝統文化」「愛国心」を打ち出している。「国と郷土を愛する」という並立でごまかしているが、いまや「国と社会を区別せずに使う」という習慣が浸透している。
「国」と「社会」は根本的に違うものだ。社会は国に対抗する。国はたかだか5000年の歴史しかないが、社会は人類の存在以来続いてきたし、これからも続く。「国と郷土を愛する」と並立で言われてきたが、社会は国に対抗する。しかし国家が社会を変質させた結果として、「社会」は「世間」になってきたのだ、もう一度「世間」を「社会」に作り直していかなければならない。
「天皇制文化」
の縛りにNO
「天皇制文化」は、私たちをどのように縛ってきたのか。「天皇制は大事とは言えないかもしれないがなくすのはもったいない。それが日本の文化だ」と理解されている。2000年続いた王朝はほかにない――そうした考え方が若者たちにしみとおっている。しかし「天皇中心」という意識は明治政府によって作られたものだ。さらに日本文化は日本列島共通のものだと思わされている。
「日本」という国名が使われるようになったのは7世紀の終わり、天武天皇の時代だ。その同じ時期に天皇という言葉も使われるようになった。「日本」を使い続ければ天皇と切り離せなくなる。これは重い課題だ。大和朝廷の時代、日本列島の東半分は日本ではなかった。エミシ(蝦夷)だった。「弥生」系、「縄文」系、両方いた。「弥生」が登場するのは3000年前(BC10世紀)からだ。
なぜ縄文が消されたのか。天皇が稲づくりの神を祭り、縄文人が弥生人とは別の種族であることを明確化するためだ。大和朝廷の時代、日本列島の半分は「日本」ではなかった。「縄文人が大陸の稲作文化を学んだ」と言われたこともあったが、それは否定されている。
天皇が海を渡ってきた渡来人のリーダーだったという説が出されてくる。弥生人中心の歴史観だ。西日本ではBC3世紀から弥生式土器の時代が始まるとされている。一方、この間、日本列島史の中での東北地方の固有性が明白になっている。明治維新以後、東北が政府によって差別され、国民の中でも東北を見下げる風潮があり、それに対して「坂上田村麻呂の蝦夷征伐」が自分たちの文化を破壊した、との見解も出ている。
こうした東北を差別する歴史観は、明治以後の「一元的近代化」すなわち、中央政権による国家主義的支配のあらわれと考えるべきだとの批判がある。
日本文化は「全体に共通する文化」ではない。しかし共通するものであるかのように扱われてきた。それこそ「日本イデオロギー」だ。
「日本人だったら誰でもわかりますよね」という言い方は、日本文化の根底にある共通のものがあるはず、というイデオロギーに発している。すべてが明治政府によって作られたものではないにしても、だ。
戦前に出された『国体の本義』は、室町時代を、「南北朝の分裂」を終わらせた足利義満(3代将軍)から始めることにしている。つまり足利尊氏など足利将軍家に支えられた「北朝」を認めず「南朝」を正統とするイデオロギーによってである。
室町幕府の時代は、「お茶」、「朝昼晩の3食」、「どぶろく」ではなく「清酒」といった今日に続く人びとの生活と関連する習慣を生み出した時代だった。私たちが「日本文化」と思っている習慣などの多くは新しく作られたものだった。
多様性を持った列島の文化を破壊するものこそ「天皇制の文化」だ。アイヌや琉球だけではなく「ヤマト」の文化も豊かな生命力に満ちていたことを忘れないようにしよう。天皇制ではない文化の多様性を封建制が育んでいたことを忘れるべきではない。前期封建制は、生命の危険はあるが自由な時代だった。近代は生命の安全はあるが。不自由な時代だということができる。
江戸は、安全で、不自由で、身分制が人びとを地域に縛り付けていた。一方で「賤民」と言われる人たちは被差別部落の中での自治があり、町奉行はこの人たちを断罪できなかった。弾座衛門は東日本の被差別大衆を権威をもって支配し、被差別身分の自治を認められていた。
武家社会では親が子の結婚相手を決めていたが、庶民は若衆宿で決め、若者たちが自分たちで決めていく重層的自治の形が江戸時代に存在していた。西日本では東南アジアのように子どもたちは上から独立していき、最後に残った末子が財産を相続して親の面倒を見るというやり方もあった。
大阪では娘に後を継がせ、優秀な婿にまかせるというやり方もあった。皇室では1900年に大正天皇が結婚式を上げたが明治天皇は上げていない。明治以前、天皇の結婚は佛式で行われていた。それ以前は人前結婚が多かったという。神前結婚式が一番新しいやり方だった。キリスト教はずっと神前結婚式で一番古いやり方なのだが。
人と人が結び
つく文化へ!
「家制度」で言えば明治民法が制定されたのは1898年。それは江戸時代の武家社会の習俗のあり方を踏襲している。つまり江戸時代の自由のあり方から武家のあり方に「統一」された、ということができる。明治の国語学者・大槻文彦の『言海』、作家井上ひさしの『国語元年』はそのあたりのことを知る上で重要だ。軍部にとっては、言葉の共通性は必要・不可欠の課題であるからだ。「万葉集」は「男らしくて素晴らしく」、それに反して「古今集」は「女々しい」などという評価は、正岡子規も言っていることだが、こうした評価が「天皇制と女性差別」というあり方にも関わっている。
その点ではヨーロッパは個人が社会の単位であり、アジアでは人と人の結びつきが社会の単位だと言われる。その結びつきが分断され、差別・抑圧的になったのが近代だった。その観点から「全国水平社宣言」を見れば、「人をいたわる」のではなく、「人と人が結びつく」ことを基本とする関係を作り出す民衆の文化ということに焦点を絞っていることを評価すべきだろう。(講演要旨:文責本紙編集部)

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