沖縄報告2月13日 2・8~13那覇軍港で米軍が訓練強行
米軍訓練に連日監視・抗議行動
沖縄 K・S
沖縄駐留米海兵隊は2月8日から13日の6日間、那覇軍港で、「非戦闘員避難活動(NEO)」「大使館補強」などを目的に、第31海兵遠征部隊(略称31MEU)の250人を投入し、垂直離着陸輸送機オスプレイやCH53大型ヘリを使った訓練を実施した。那覇軍港が盛んに利用されたのは1960年代のベトナム戦争の時代である。その後、軍港機能はうるま市のホワイトビーチに重きが置かれてきたため、実質的に「遊休化」がすすんできた。軍港横の陸橋から撮った写真を見ても分かる通り、広大な桟橋構内は閑散としている。米軍艦船の代わりに停泊しているのは海保の巡視船2隻だ。
訓練の内容は、海兵隊員約40人を2回に分けてオスプレイやヘリで軍港に運び、米大使館に見立てた建物を有刺鉄線で囲み、平服を着た海兵隊員がデモ隊の一団の役割をして角材などを手に抗議するのに対し、銃を手にした海兵隊員が制圧するといったものであった。また、大型の輸送船から、砂漠用迷彩の軍用車両が大量に陸揚げされ、トレーラーで運び出された。訓練5日目の12日には、海兵隊員が建物から出て来て2回に分かれて普天間飛行場所属のヘリに乗り飛び去り、建物の周囲に張り巡らされた有刺鉄線も回収されトラックで運び去られた。
訓練を止めよ!軍港をかえせ!
那覇軍港はフェンスに沿って交通量の多い国道が通り、隣には陸・海・空自衛隊と那覇空港、向かいに奥武山公園・セルラースタジアム球場・武道館があり、周囲はホテルや住宅、商業施設が取り巻いている。那覇市の城間幹子市長と玉城デニー知事は「軍港での軍用機を使用した訓練は危険だ。港湾施設・貯油所である軍港の目的外使用であり、基地の使用条件を定めた5・15メモに違反している」と強く反対した。それに対し、日本政府は「港湾の運用はさまざま」(岸防衛相)と、米軍の港湾訓練を無条件に容認したのである。
平和市民連絡会をはじめ抗議の市民は連日、軍港のフェンス沿いに集まり「訓練止めよ」「米軍出て行け」と声をあげた。12日午前10時からは、沖縄統一連が軍港ゲート前で抗議集会を開き、浦添市の軍港に反対する市民、新日本婦人の会、県労連、その他約100人が参加した。赤嶺政賢衆議院議員は「米軍に強制収用される以前、ここには垣花漁港があり、水産高校の前身の学校もあった。那覇軍港は、浦添に新軍港を造り移転するのではなく、無条件で返還されなければならない。これ見よがしの米軍の警備訓練は我々に対する威嚇行為に他ならない。ここはアメリカではない。沖縄県民のものだ」とアピールした。最後に参加者全員、基地に向かってこぶしを挙げ、抗議のシュプレヒコールを繰り返した。
那覇軍港での訓練を止め軍港を返還せよ。沖縄戦が終わって今年で77年になる。何という長い年月。米軍は日本軍と戦うために沖縄に上陸したのだから、戦争が終わればさっさと米本国に引き揚げればいいのだ。外国軍隊の駐留が元凶だ。
伊波洋一さん講演会に70人
“沖縄を再びいくさば(戦場)にさせるな!”
2月12日(土)午後2時から、那覇市の八汐荘1Fホールで、参議院議員の伊波洋一さんによる講演会が開かれ、約70人が参加した。主催は平和市民連絡会。事務局次長の岡本由希子さんが進行役を務めた。
戦争は軍事対決の高まりを背景にちょっとしたことから勃発しうる。琉球列島各地のミサイル基地建設、政府による敵基地攻撃論、繰り返される日米共同訓練、等々。国民の合意もなく、ましてや琉球列島にくらす150万以上の人々の命と安全を顧みることなく、米国にひたすら追従して進められる日本政府の軍事外交政策を絶対に阻止しなければならない。
伊波さんは、講演資料とパワーポイントを用いて、米軍の対中国軍事戦略と日本政府の政策、沖縄の危険な役割に関して詳しく説明し、「沖縄を再び戦場にしてはならない」と強く訴えた。
伊波洋一さんの講演から
今年は日中国交正常化から50年、沖縄返還から50年の年だ。しかし、年明けに開かれた日米の外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会で、南西諸島で台湾有事を想定した対中国戦争の準備作業に入ることを確認した。共同発表文書は、日本が「ミサイルの脅威に対抗するための能力を含め、国家の防衛に必要なあらゆる選択肢を検討する」と述べ、米海兵隊の新たな運用指針「遠征前方基地作戦(EABO)」に基づく共同作戦、自衛隊の態勢強化、日米の施設の共同使用の増加を明らかにしている。まさに、戦争計画ではないか。
昨年12月8日は真珠湾攻撃80周年だった。日本は対米戦争が敗北することを知りながら、無謀な太平洋戦争に突入した。安倍・菅政権が取り組んできた対中国戦争政策は、引き返すことができない段階に近づきつつある。対中国の日米共同作戦で米軍は大部隊を投入しない。南西諸島のロケット砲システムとMC130特殊攻撃機が主だ。全面戦争や核戦争を回避するために、中国の領土・領海を攻撃しないし、台湾防衛のために琉球列島を防衛ラインとする戦略になっている。それがオフショア・コントロール戦略だ。「台湾有事」が近いと判断されれば、米軍の主力部隊は日本から撤退し、ハワイや米本国へ移動する。前線で戦争するのは、石垣、宮古、沖縄、奄美のミサイル基地で作戦に従事する自衛隊である。
もし日本領土から米軍もしくは自衛隊のミサイルが中国艦船に向けて発射されたら、日中関係が破綻する。中国との懸案事項の対処は外交交渉によるべきであって、決してアメリカの軍事力に頼るべきではない。日本は、尖閣問題を棚上げにすることで合意した日中国交回復時に戻り、これまで合意された案件を大事にして日中平和友好条約を維持すべきだ。中国からの攻撃から日本を守るものは米軍ではなくて、これらの日中共同宣言・条約である。
先日、石垣で、自衛隊基地反対の運動をしている市民のみなさんと話をした。辺野古の新基地を止めると共に、石垣の自衛隊ミサイル基地を止める。米軍と一体となった対中国戦争政策という何の利益にもないことに動員されることを止めよう。
辺野古新基地建設を止め、
サンゴ礁の海を次の世代に残そう!
2月10日、沖縄県は昨年12月に沖縄防衛局が申請した大浦湾のサンゴ特別採捕(移植)許可申請を不許可にした。防衛局による申請は、小型サンゴ約3万5350群体、大型サンゴ21群体、ショウガサンゴ8群体である。
サンゴ移植申請を不許可にした理由について、沖縄県は、①埋立承認後に軟弱地盤が確認された、②設計変更申請を県が不承認にしたことから、埋立工事は不可能であり、サンゴ移植も必要ではない、とした。また、2018年夏に沖縄防衛局が移植を強行したオキナワハマサンゴ9群体は、移植地で5群体が死滅・消失したことが確認されている。防衛局によるサンゴ移植はサンゴを生かし環境を守るものではない。単なるパフォーマンスだ。
辺野古・大浦湾のサンゴの発達した海は、日本中どこを探してもない、かけがえのない海である。沖縄県民だけでなく、日本の宝と言っていい。埋立工事を中止し、新基地建設を白紙撤回させよう。次の世代に残すのは戦争と環境汚染の元凶・軍事基地ではなく、青い海だ。
〈カヌーチームAさんの報告〉
2月6日、潜水チームレインボーは大浦湾チリビシポイントを潜った。大浦湾の豊かな海、多くの海棲生物のゆりかごであるサンゴの海。こんなに豊かな海を大きな面積で埋め立てる事を考える人がいるなんて信じられない!このサンゴを見て欲しい!私は潜り始めて日が浅いのでまだサンゴの名前が分からない。だけどいろんな種類の大小のサンゴがこんなにある海は世界にも滅多にない貴重な海であることは知っている。
9日も大浦湾中瀬のリーフチェック、特に沖縄防衛局によるサンゴ移植の「その後」がどうなっているかをチェックした。今日は風も弱く、波も穏やかだったのに少し船酔いした。それでも水深17・1mまで潜った。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(64)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号は、中国で3年間従軍した後ソ連軍によりシベリアに連行された多良間村の立石さんの証言を2回に分けて見てみたい。中国での戦場の様子やシベリアでの過酷な労働、さらに地元住民との交流が詳しく描かれている。引用は原文通り、省略は……で示した。
「島びとの硝煙記録」多良間村民の戦時・戦後体験記(1995年発行)
立石〈旧姓大山〉春栄「シベリアに消えた青春」(上)
太平洋戦争真只中の昭和十七年七月に故郷を後に現役兵として熊本の西部99部隊に入隊し、五か月の初年兵教育を終えて、同年十二月中支派遣軍第57飛行場大隊に転属を命ぜられ、汽車と船で揚子江上流数百キロの都市漢口郊外の大隊に到着。約50名の同年兵はここでも約一か月の現地教育を受けた後、各中隊に配属となる。……
間もなく部隊は十九年六月頃、桂林攻略作戦のために奥地の前線基地、湘渾飛行場に前進し飛行場を整備して友軍機の来るのを待ったが、時々2~3機来たがすぐ姿を消すのでこの飛行場にも毎日の様に敵機が銃撃に飛来する始末で、対空砲火での応戦の日が続き、戦友にも犠牲者が出始めた。前線での戦果も次第に不利になって来た頃、軍の命令で57飛行場大隊は桂林作戦後に二十年七月に本土決戦のため満州に移動。南満州の新立屯飛行場に駐屯、飛行場整備作業に従事する。しかし当飛行場にも友軍機の姿は一度も見えないままだった。
情報では当部隊も近日中に本土に移動するとの噂で皆動揺した頃に、日本本土では一番安全の筈の沖縄本島が、米軍の砲火で多数の戦死者があり、中でも沖縄女子師範と一高女の生徒が兵隊と共に第一線で勇敢に戦いほとんど全滅との報には、信じられず、もし事実としたら信じたくないが、妹トヨ子(女子師範在学中)も皆と一緒に戦死したに違いないと思うと、国のためとはいえ若い乙女たちをはじめ罪のない多くの住民の尊い命を犠牲にした野蛮な行動にはますます怒りを覚えずにはいられなかった。
信じられないがほとんど全滅に近い情況と聞いて、戦場の私には、沖縄本島が本土の決戦場になるとは想像もつかない出来事で信じられず、今日まで生きている私より先に戦死した妹はどんな思いで死んだかと思うと不憫で何よりも何よりも残念でならない。末っ子で一番母想いの妹を失い嘆き悲しんでいる母の涙顔が目に浮かび胸が締められる辛さである。その夜の寝床では子供の頃の母や妹達との楽しかったこと、苦しかったことの思い出が次々と走馬灯のように頭に浮かんでは消えたりしてなかなか寝られず、夜中にこっそり兵舎の外に出て郷里沖縄の方向に向かって手を合わして思い切り泣いて冥福を祈った。
それから数日後、突如終戦の報を知る。……ただ残念でならないのは、この終戦の日が三か月も早かったら広島、長崎、沖縄の数十万という悲惨な犠牲者もなかったのにと思うと、何より悔しくてならない。……
間もなく泥まみれの戦車兵数十人がホームに駆け上がってきて、拳銃を向けながら私たちの武器を取り上げホームに整列させて両手を挙げさせながら、我先にと私達の腕から時計や万年筆等を奪い取る有様にはただあきれるばかりだった。中には一人で数個の時計を腕にはめて自慢そうに見せ合って喜んでいる兵もおり、哀れにさえ思えた。……
列車はシベリア鉄道を一路西へ走り続ける。時々夜の列車の汽笛が無性に懐かしく聞こえてくる。数日してシベリア最大の湖バイカル湖畔を通り過ぎ、さらに西へ、何日かして中部シベリアのカピヨール駅に到着、49作業大隊750名のみ下車する。……外は猛吹雪で、……飢えと寒さで次第に落伍者が続出した。……
途中ある部落の集会所に泊まることになった。そして私達日本人が来たのを知り、近くの老人や子供達が近寄って来て、ヤポンスキーサムライと呼びながら握手を求めたので、戸惑いながらも素朴で好感を持って心から歓迎しているのを知り、一人ひとりに握手をしたが、お互い冷えた手も温かく感じ取ることで少しは元気づけられた。後で聞いた噂で、日露戦争当時、日本軍の捕虜となったロシア兵をあまり労働もさせず優遇した上、早く祖国に送り返した。その恩義と日露戦争終結時の日本軍司令官乃木将軍とロシア軍司令官が握手して終戦になった時の握手という日本語も言い伝えられることを聞き、国境はあっても同じ人間として義理人情は日本軍と同じだったのを知り心を打たれた。翌朝、この部落の方々の見送りを受け15キロ先の最終地トランスワールに向かう。 (つづく)
【訂正】本紙前々号(2月7日付)3面「読書案内」「「中国での戦争体験記」を読む170人の証言」、原著の筆者である沖本裕司さんから「中国での戦争体験の証言」が「県史」に掲載されているかのように書かれているが、「県史」ではなく各市町村誌の「市民の証言」との指摘がありました。訂正します。(編集部)
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