全県各地が一斉に、それぞれの基地建設に反対する闘いに突入

沖縄報告 3月20日

新基地建設を白紙撤回せよ

沖縄 K・S

3・19沖縄市民会館に450人

「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」発足

 3月19日(土)午後、沖縄市民会館大ホールで、「台湾有事の平和的解決を~あなたと未来の命を守るために」を掲げて、ノーモア沖縄戦命どぅ宝の会の発足集会が開かれ、全県各地から450人が詰めかけた。司会はジャーナリストの三上智恵さん。
 開幕に先立ち、平和を願うコンサートが行われ、サンシンガールの稲嶺幸乃さん、古謝美佐子さんが清らかな歌声を披露した。
 壇上に設けられた席には、石原昌家(沖国大名誉教授)、具志堅隆松(遺骨収集ボランティア・ガマフヤー)、ダグラス・ラミス(元米海兵隊員で国際政治学者)、宮城晴美(沖縄女性史研究家)、山城博治(沖縄平和運動センター顧問)の5人の共同代表が着いた。
 宮城さんの開会のあいさつに続き、琉球新報報道本部長の新垣毅さんが「核ミサイル戦争の危機」と題して、1時間に及ぶ基調講演を行った。新垣さんは要旨次のように述べた。
 「プーチンもゼレンスキーも下がった国内の支持率を引き上げるために戦争にのめり込んでいる。戦争を止めるために緩衝地帯を設けることを考えなければならない。2014年のキッシンジャーの提言は、ウクライナがロシア、NATOのどちらかの前哨基地になるのではなく双方の架け橋になるべきだと説いた。台湾有事についても平和的解決が必要だ。南西諸島に配備されるミサイルは敵基地を攻撃できるものであり、ミサイル対ミサイル、核対核の戦争に至る危険な状況だ。転機は2016年、安倍内閣の戦争法の可決だった。沖縄の復帰50年にあたり、自己決定権の確立が求められる。安保問題とは沖縄の人権問題である」。
 続いて、共同代表が一人ひとりマイクをとった。石原さんは「15歳の孫が言った。ウクライナもロシアも一緒にNATOに加盟すれば戦争をしないで済む、と。この感覚は示唆に富む。軍事対立は不毛だ。世界連邦の立場から戦争をなくそう」と語った。
 具志堅さんは「この1月、放射線レベルが依然高い福島の大熊町に行き、遺骨収集作業の手伝いをして一部遺骨を収容した。もしかしたら沖縄でもそうなるかもしれない。沖縄の戦争は何としても止めなければならない。天皇制下では戦争に反対だと言うことができなかったが、言論の自由がある今なら言える。共に大きく声をあげよう」と力強く呼びかけた。
 ダグラス・ラミスさんは「もし沖縄から中国を攻撃するミサイルが発射されれば、中国は国際法に基づいて反撃する権利を持つ。そうなれば沖縄は廃墟と化す。沖縄を舞台とした戦争を止めなければならない」と話した。
 その後、鹿児島県と沖縄県うるま市での取り組みが紹介された。また司会からは会員が合計1265人に達したことが報告された。
 山城さんは行動計画を提起した。「週明けに玉城知事に報告する。県議会で決議をあげることをすすめたい。沖縄が戦場になることを絶対に許さない。保革を超え超党派で、老いも若きも一緒に戦争反対の声をあげよう」と訴えた。
 終わりに、与那覇恵子さん(名桜大非常勤講師)が決議文を読み上げ、会場全体で採択した。戦争が切迫する危機感の中で、ノーモア沖縄戦命どぅ宝の会が発足し、1000人以上の会員が結集した。会は今後、辺野古、宮古、石垣などの新基地建設反対闘争と提携しながら、県民ぐるみの反戦・反基地運動として発展していくだろう。

2022.3.19 沖縄市民会館。ノーモア沖縄戦命どぅ宝の会の発足集会。

3・12南風原文化センターホールに125人
「NANKING」上映と講演の集い

 3月12日、南風原文化センター1Fホールで、「沖縄/アジアを戦争にさせない」映画と講演会(主催=南京・沖縄をむすぶ会)が開催された。会場に125人が詰めかけたほか、リモートで10人が参加した。
 第1部の映画『NANKING南京』は、日本軍の侵攻前ののどかな南京の風景描写から始まり、日本軍の空爆、地上軍の侵攻、避難する住民、南京占領、日本軍による虐殺・レイプなどさまざまな実写フィルムが続く。さらに被害の証言、加害の証言が重ねられていく見ごたえのある映画であった。参加者からは、「戦争の悲惨さ・残酷さに涙なしには見ることができなかった」「書籍などで知識はあったが、実際映像を見ると胸が締め付けられる」「中国に対しこんなひどいことをやっていたんですね」などの感想が寄せられた。また、南京安全区国際委員会のメンバーたちの献身的な活動に対しては、「いかなる困難時でも必ず助けてくれる人がいるということに少し心が救われた」とのコメントがあった。(今後、5月に名護市でも上映予定)。
 第2部の又吉盛清さん(沖大客員教授)の講演「日中戦争と琉球/沖縄」は、台湾有事を煽り立てた末に米中の軍事衝突が勃発すれば、沖縄が再び捨て石にされる現在の状況を、歴史を振り返りながら共に考えようとする内容であった。講演要旨のまとめは次の通り。
 「台湾出兵、琉球処分、日清戦争、日露戦争、満州事変、等々と続く明治以来の日本帝国主義の歴史を振り返ることにより、加害の結果としての被害という沖縄戦の実相が明らかになる。また、沖縄守備軍の牛島満司令官と長勇参謀長は南京大虐殺で指揮を執った人物であった。沖縄戦での数々の惨劇は中国戦線での住民虐殺・物資の現地調達など、類似点が多く、日中15年戦争と沖縄戦は、作戦上一本の線で深く結びついていた。沖縄からも1937年初め九州各県の連隊に1200人が出兵するなど、南京大虐殺に関与した沖縄人兵士は多くいたと考えられるが、沖縄県史や市町村史でも十分明らかにされていない。今後の研究課題だ」。
 「日中戦争と沖縄」をテーマにした研究でパイオニアともいえる又吉さんがこれまで地道に進めてきた調査・研究の成果を受け継いでさらに前に進めていくことが求められる。
 最後に、主催者から、映画『NANKING』の各地での上映取り組み、中帰連(中国帰還者連絡会)の活動に対する関心喚起、国家間の戦争に対する民衆同士の連帯の大切さの提起があり、3時間半を超える集会の幕を閉じた。

2022.3.12 南風原文化センター。関東大震災中国人虐殺の図、南京のパネル24枚を展示。
2022.3.12 南風原文化センター。第2部のはじまり。中央は又吉盛清さん。

沖縄各地の基地建設反対運動


 沖縄は今や全県各地が一斉にそれぞれの基地建設に反対する闘いに突入した感がある。
 継続して闘い続ける宮古島と共に、石垣島からは、陸上自衛隊ミサイル基地建設工事現場の毎日のリアルと共に、粘り強い反対運動の取り組みが届いている。基地いらないチーム石垣のメンバーは定期チェックに立っているが、3月16、18日の報告によると、現場は毎日、生コン車、生コン打設のポンプ車、砂を満載したダンプ、トン袋を積んだ車両などが騒音と排ガスをまき散らしながら、開南集落沿いの県道87号線を通る。また、旧県道87号線から100mも離れていない所に4棟の弾薬庫が建設中である。この道路は大本小学校の生徒教員たちの通学路である。さらに、工事現場の西側、調整池と沈殿池の周辺で赤土流失が確認された。
 意図的につくり上げられた中国脅威論を背景に、地域住民の安全と命を脅かしながら強行される自衛隊ミサイル基地建設。東シナ海の平和のために何の役にも立たないミサイル基地を琉球列島につくるのを止めよ。軍拡競争、すなわち軍事力に対する軍事力による対抗のエスカレートは戦争の危機を増幅させるだけである。沖縄は戦争による被害者にも加害者にもならないと誓った。米軍基地も自衛隊基地もいらない。非武装中立の島々になることによってのみ島々の安全と人々の命を守ることができる。
 また、前号で詳しく報じた大浦湾のサンゴ移植・投棄の現場は地元のメディアでも注目を集めている。NHKは朝昼夕のニュースで取り上げ、映像でサンゴ投棄の現場を報じると共に、沖縄防衛局の言い訳を紹介した。それによると、投棄したのではなく、「仮置き」しているというのである。苦しい言い訳だ。大浦湾に手を付けてはいけない。工事は完成しない。工事をやればやる程大浦湾の自然は破壊されて行く。埋立工事を中止し、新基地建設計画を白紙撤回せよ。

2022.3.16 石垣島の自衛隊ミサイル基地建設現場。
2022.3.16 石垣島の自衛隊ミサイル基地建設現場。
2022.3.15 キャンプ・シュワブゲート前。警官の威圧にも動ぜず座り込みを続ける。

2022.3.15 キャンプ・シュワブゲート前。工事用ゲートに立ちふさがり資材搬入阻止をアピール

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(66)
日本軍による戦争の赤裸々な描写


 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する多良間村の豊見山さんは、出兵から中国大陸の戦場、タイでの捕虜、帰還に至る経過を詳しく証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。

『島びとの硝煙記録』多良間村民の戦時・戦後体験記(1995年)

豊見山昌康「一人ぼっちの父を残して」


 さて忘れられない昭和十五年十二月六日は冬晴だった。いよいよ晴れの入営か、二十年間育ててくれた故里を出て立つ日なのだ。私の十三才の時母は他界し、十九才の時、かわいい一人の妹を亡くしてからは父と二人の淋しい静かな暮らしが続いていたが、お国のためとはいえ、もう父は一人ぼっちになるのか、これからどうなるのか? 吉田松陰が「親思う心にまさる、親心……」と詠んだが、私の心の迷いより、父の胸のさわぎは如何ばかりかと思えば次から次へとありし日の母や妹の姿が目の前にちらつくのである。……

 那覇港では「海ゆかば」の音楽を耳にしながら目的地の熊本へと出発、私は熊本野砲6連隊野中中隊であった。二か月間の訓練を受けいよいよ支那大陸へ派遣される。着いた所は山西省……であった。ここは山岳地帯で、野砲は戦闘には向かないとの事で山砲に変更し大砲を馬に積んでの猛訓練が行われる。
 十六年の五月大行作戦という実戦が展開された。共に遠い宮古から一緒にいた川満君もいた。彼と二人故里の思い出話をしたり、互いに励まし合って来た彼は、結婚後五か月目の入隊だとの事でポケットから彼女の写真を取り出して私にもときどき見せて淋しさをまぎらわしていた。彼の心中は如何ばかりだっただろう。はじめて実戦に参加して行軍に行軍が続き、そして夕日が遠い西の山に落ちる頃、小さな部落に入りそこで大休止、夕食との命令が下った。戦友達は待ちかねていた食事に取りすがった。
 まもなくゴゴーンと敵の砲弾が後方に落ちた。実戦になれた古兵達が敵弾はここに来ないから安心して飯を食えと叫んだ、次の弾が前方に落ちた、なるほど古兵の言う通りだと思った直後、ものすごい音と共に地響きがひどくまさに落雷かと思うほどに肝をつぶしていると、辺りは爆炎で暗くなり窒息しそうで爆炎がうすらいで気が付くや、夕食を楽しく共にしていた戦友達があまた倒れ、中には一番親しかった戦友の川満君も血に染まって倒れているのに又もびっくり、抱き起そうとすると既に大事な頭部をやられて語れない人と変わってしまった。……
 昭和十六年十二月八日、米英に宣戦布告が伝わった。それからの訓練はますます厳しかった。北支には守備兵を残し我が部隊は中支に南下し、支那の残兵を追い払いながら南支へ南支へと進んだ。昭和十九年五月頃から日本からの食糧や弾薬の輸送も途絶えた。やむを得ず支那の民家から、食糧や牛、豚、鶏等を徴収して飢えをしのぎ、ある民家に入ると支那の楽器の胡弓が見つかったのではじいてみると丁度三味線の音色がした。弦も三本でした。失敬して部隊に持ち帰り夕食後たわむれにつまびきながら軍歌を打ち出した処戦友たちは大喜び。心身共に疲れ切っていたが、しおれた草に水をかけたよう、さては小隊長にも呼ばれ、隊長もたいへんな喜びよう。翌日は出発、南へ南へと部隊は前進した。
 やがて桂林という所で支那軍の難攻不落と誇る陣地での激戦に戦友が多数倒れたその時、小学校で習った神武天皇の金のとびが想い浮かんだ。苦しい時の神頼みか。ようやく桂林を落としいよいよ支那国境を越えて仏領印度支那へ、今のベトナムである。ここでフランス軍と向かい一昼夜の戦闘で難なく降した。しかし罪もない住民達がいたる所に死んでいて誠に悲惨な姿であった。ここからタイ国に入り休養することになったが、疲れが回復しないのにマレーに出発するとの命令なのだ。その準備中に天皇陛下からの停戦そして敗戦との報に我が部隊の将兵は信じられなかった。それは北支、中支、南支と破竹の勢いで連戦連勝して来た我が部隊が故に、とてもたえられない意外の事態であったからである。戦友たちは皆抱き合って泣いた。……

 それから何日か経って英軍が我が部隊に武装解除に来た。銃および大砲その他の武器弾薬類、軍馬までも引きあげられ、特に今まで苦労を共にしてきたもの言えぬかわいい軍馬は日本軍の掘った戦車壕に次々と拳銃で撃ち殺され埋められて行く地獄は耐えられなかった。……

週刊かけはし

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