沖縄報告 4月3日 久米島の人びとの命を奪ったのは誰か
住民を虐殺した天皇の軍隊
沖縄 K・S
フィールドワーク・久米島の戦争と戦跡
海軍鹿山隊による20人の住民殺害の跡をたどる
3月26日といえば、「かけはし」の読者のみなさんならまず、1978年春の三里塚における管制塔占拠を想起するであろうと思われるが、沖縄では、77年前、米軍が慶良間諸島に上陸した日として誰もが記憶している。平和の礎に刻銘された久米島住民の犠牲者は1万1021人である。日中戦争とアジア太平洋戦争の拡大の中で、軍人・軍属あるいは民間人として死亡地も沖縄県内だけでなく、中国・満州、台湾、サイパン・テニアンのマリアナ諸島、フィリピン、パラオ諸島、ブーゲンビル・ソロモン諸島など、アジア全域に広がっている。沖縄戦はアジア太平洋戦争の最後の激戦だった。
久米島の戦争の特徴は、沖縄島のような米軍の壊滅的な艦砲射撃、凄惨な地上戦がなかった半面、久米島に駐屯した海軍通信隊による残虐な住民殺害が行われたという所にある。その住民殺害は執拗を極め、8月15日の天皇による降伏宣言以後も8月20日まで続けられた。
3月下旬、久米島の戦争と戦跡をめぐるフィールドワークを行った。痛恨之碑を皮切りに、安里さん夫妻が住んでいた山城、仲村渠さんが殺された銭田、米軍が上陸したイーフビーチ、喜久村家の防空壕、全長800mにおよぶヤジヤーガマ、鹿山隊が隠れていた宇江城岳(戦後、米軍のレーダー基地が置かれたが、復帰後、航空自衛隊通信基地が駐屯している)、9人の住民が一度に殺された北原区の牧場跡、空襲で燃えた具志川国民学校(元大岳小学校)、谷川さん一家が住んでいた家、2人の少女が殺されたナッコーの森、谷川さんが殺された鳥島海岸、久米島町の刻銘碑・慰霊塔、上田森の監視所跡などを回り、77年前の久米島の戦争に思いを巡らせた。
天皇の軍隊に虐殺された久米島住民 久米島在朝鮮人 痛恨之碑
清水小学校の北側に広がるキビ畑はほとんどすでに刈り取りを終えていたが、そのキビ畑の一角に小さな墓地がある。痛恨之碑は墓地区域の隅にひっそりと建っていた。碑の真ん中にはめ込まれたプレートには「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民 久米島在朝鮮人 痛恨之碑」と記され、犠牲者の名前が次のように刻銘されている。手を合わせ黙祷した。
安里正二郎氏
北原区長 小橋川共晃氏
警防団長 糸数盛保氏
宮城栄明氏一家 三名
比嘉亀氏一家 四名
仲村渠明勇氏一家
谷川昇(具仲會)一家 七名
痛恨之碑は、沖縄の本土復帰2年後の1974年、富村順一さんが発起人となって立ち上がった痛恨之碑建立実行委員会によって建てられた。8月20日の除幕式には、遺族、具志川・仲里両村(当時)代表、地元住民ら60余人が参加した。
「29年前の忌わしい悲惨な状況に思いをいたす時、ご遺族の皆様のご心痛をお察しするとともに、謹んで犠牲となられた御霊のご冥福をお祈り申し上げ、二度とあのような悲惨なことが起きないように決意を新たにするものであります」(屋良朝苗沖縄県知事)とのメッセージをはじめ、参議院議員の喜屋武真栄さん、県議会議長の平良幸一さん、遺族連合会会長の金城和真さん、など多くの弔電、激電が届いた(上江洲盛元『太平洋戦争と久米島』)。
久米島の虐殺は沖縄戦の収束と共に始まった
沖縄上陸にあたって、東シナ海を西から接近した米軍艦隊の大船団は久米島を通り過ぎて慶良間諸島へ向かった。そして、3月26日、慶良間諸島に上陸、4月1日、読谷・嘉手納・北谷の海岸に上陸し、沖縄島・伊江島での地上戦に突入した。久米島は毎日のように米軍機による空襲にさらされ学校や各地の民家が焼けた。摩文仁で牛島司令官・長参謀長らが自死し日本軍の組織的な抵抗が終わった後、6月26日、米海兵隊約1000人が久米島のイーフ海岸に上陸してから、久米島の日本軍による住民殺害が始まったのである。
久米島に配備された日本軍は鹿山(かやま)正曹長を隊長とする約30人の海軍通信隊で、島の北部に位置する標高300m余りの山岳地帯に引きこもった。住民たちは「山の兵隊」と呼んだ。鹿山隊の住民虐殺については、大島幸夫『沖縄の日本軍~久米島虐殺の記録』(新泉社)をはじめ詳しい出版物がある。昨年は、久米島出身の元県議会議員・上江洲トシさんの長女・次女が中心となって久米島の戦争を記録する会が聞き取りとフィールドワークを重ねて『沖縄戦 久米島の戦争』(インパクト出版会)が出版され、また、鹿山事件に関する資料と住民の戦争体験記録を収録した『久米島町史』資料編1「久米島の戦争記録」が刊行された。
安里正次郎さんの刺殺・銃殺
最初の犠牲者・安里正次郎(正二郎との表記も見られる)さんは首里出身で、当時、有線電信保守係として久米島に赴任していたが、米軍上陸と共に妻の実家たる字山城の家族と共に避難した。久米島郵便局の喜久里教文さんは「元逓信従業員沖縄戦記」に次のように死に至るいきさつを書いている。
「避難小屋の床板に使用するため、夜闇にまぎれ宮城の住家の床を取って来るべく出かけて行ったがその夜は避難小屋に帰らず、そのまま部落内の家に寝込んで夜明けを待つことにした。安里君が翌朝目を覚ましたら武装した米兵が既に安里君を取り囲んでいた。そのまま米軍駐在地に同行されたのである。
米軍は正次郎君をして日本軍(電波探知機を持つ海軍見張り部隊三十名内外)に対して書面を持たせてやった。多分降伏勧告状だったろう。正次郎君は日本軍に殺されて遂に帰らなかった。正次郎君の妻カネ子もその後強迫観念にかられて山田川に投身自殺した」
鹿山はインタビュー記事で自分が銃殺したと述べている(『サンデー毎日』1972年4月2日)
「これは私みずから拳銃で処刑しました。ええ、拳銃を一発撃ってね、一発では死にませんから、苦しんでいる。かわいそうだから、兵隊にちゃんと銃に着剣させといて、両側からこうやって、息を引き取らせたんですよ」
具志頭(ぐしちゃん)のクラシンウジョウガマから「犬死はいやだ」と逃亡した七人の日本兵の一人、渡辺憲央さんはその後、糸満からくり舟を出したが嵐で久米島に流れ着き、病に伏しているところを安里正次郎さんのカネ子さんと父・宮城亀さんに助けられた。カネ子さん父子は毎日お灸をすえ、ヨモギの葉をつぶした青汁を飲ませた。その甲斐あって病から回復したという。
自著『逃げる兵』に久米島の様子を書いている渡辺さんは、屋良捕虜収容所にいる時、糸満から一緒に逃げた元海軍兵が目撃した、安里さん処刑の有様についても次のように記している。
「処刑は部落会長や警防団長らの面前で行なわれた。後ろ手に縛った正二郎さんを立木にくくりつけ、二人の兵隊が銃剣で刺したが死にきれず、鹿山隊長がピストルでとどめを刺した。処刑する前、隊長は正二郎さんに向かい『お前は日本人でありながら降伏状を持って来るとは何事か、こんなものを持ってくる以上覚悟はできているだろう』といった。すると正二郎さんは涙を流し『ありがとうございます』といって頭を下げたという」
北原区長ら9人の刺殺・焼殺
そのあと、鹿山による9人の住民殺害が続く。米軍は部隊の上陸に先立つ二週間前の6月13日、偵察要員を密かに送り現在の久米島空港北側の北原区の牧場から、比嘉亀さんら三人の住民を連れ去った。鹿山は6月15日、村長・警防団長宛に『達』を出し「本島の如何なる場所に上陸帰島する共其の家族は勿論一般部落民との会話面接を絶対厳禁直ちに軍当局に報告連行のこと」「相反したる場合関係者並び責任者は軍則に照らし厳重処分す」(原文抜粋、旧漢字を当用漢字に、カタカナをひらがなに改めた)と命じていた。
米軍が星条旗を立て占領宣言をした(6月28日)翌日、鹿山は命令に反したとして、米軍に拉致された三人、牧場主・宮城栄明さんとその妻、比嘉亀さんの妻と長男夫婦、北原区長の小橋川共晃さん、警防団長の糸数盛保さんの九人を北原区の宮城さんの牧場の小屋に集め、針金で手足を縛り目隠しし、銃剣で何度も突いて殺し、小屋が血の海となり全員が息絶えたところでガソリンをかけて小屋もろとも焼きはらった。
殺された北原区長の親戚にあたる小橋川共徳さん(87)は現場近くで牛小屋を持ち牧畜業を営んでいる。当時の現場に案内していただいた。牧場だった現場は今、キビ畑になっている。小橋川さんは当時、10才。キビ畑を眺めながら「以前、このあたりに家は一軒しかなかった。9人がここで殺されて家が丸焼けになった」と話した。刈り取りを終えたキビ畑は数十センチの高さの葉がそよ風にゆれていた。しかし、まぎれなく天皇の軍隊による残虐な住民殺害の現場なのである。
仲村渠明勇さん一家3人の殺害
鹿山による住民殺害の第三の被害者は仲村渠明勇さん一家である。仲村渠さんは小禄の海軍根拠地隊に属する上等兵だったが、沖縄戦で捕虜となり嘉手納の捕虜収容所に収容されていたところ、知り合いの通訳から近く米軍が久米島へ上陸することを聞いた。米軍が事前に作成した上陸作戦では、久米島に合計5080人の日本軍が駐留していると記されている(大田昌秀『久米島の「沖縄戦」』)が、実際にはほとんど武器も持たない少人数の通信隊がいるだけだった。
米軍は通常上陸にあたり、初めに徹底的な艦砲射撃を行ない予想される抵抗を無力化する。そうなれば故郷久米島が廃墟になってしまうことを憂えた仲村渠さんは、米軍通訳が誰か道案内がいたら攻撃しないと約束したのを幸いに、何とか久米島住民を救おうと道案内を買って出たのだった。仲村渠さんは、住民が避難している場所を訪ね回って、米軍は住民に危害を加えないから安心して山を下り家に戻るよう懸命に説いた。逃げる兵の渡辺さんたちも、仲村渠さんに連れられて、イーフビーチの米軍キャンプに投降した。久米島の日本軍捕虜第一号であった。
この仲村渠さん一家が鹿山により殺害されたのが8月18日。天皇の降伏宣言の3日後だった。鹿山が差し向けた数名の殺人部隊がイーフビーチ近くの仲村渠さんの隠れ小屋を襲い、仲村渠さんを刺し殺し、逃げる妻をアダンの垣根のところで殴り殺した後、2才の子供を含む三人の死体を家に集めて火を付けた。遺体は家の真ん中で黒焦げになっていた。
谷川昇さん一家7人の虐殺
鹿山の凶行は続く。8月20日、在日朝鮮人の谷川昇さん(本名=具仲會〔ク・チュンフェ〕さん)一家7人を皆殺しにしたのである。谷川さんは、当時の久志村(現名護市)出身の美津さん(久米島では童名のウタを名乗っていた)を妻とし、上江洲集落の一軒家(屋号トーマ)を借りて、鋳掛け屋をしながらくず鉄、古着などを買い集める仕事(フルガニコーヤー)をしていた。10才の長男和夫、7才の長女綾子、5才の二男次夫、2才の次女八重子、生まれたばかりの乳児、5人の子がいた。T字路の角にあるその一軒家跡にいま瓦葺のしっかりした造りの家が建てられている。地域に根付いて生活していた谷川さん一家の様子がうかがわれる場所である。
谷川さんのことを覚えている字西銘の譜久里広貞さん(93)の自宅を訪ねて、お話をうかがった。
「当時、私は15才。学校を出たばかりで、竹槍を担いで伝令などをした。ルーズベルトやチャーチルのわら人形を突く訓練をやった。軍の防空壕づくりにもかり出された。谷川さんはいい人だった。子どもたちは勉強家だったね。川村さんの持ち家で空き家になっていた瓦葺の家に住んでいた。フルガニ―とあめ玉を交換しによく回って来て、子どもたちに喜ばれていたよ。住民からはサブロータンメ―と呼ばれでいた。住民同士では谷川さんのことをチョーシナ―とも言っていた」
鹿山は谷川さん一家に目を付けた。「スパイとして処刑する」「谷川一家をやるから監視せよ。逃がしたら上江洲部落の住民も同罪」との指示が出たため、谷川さんは二男を連れて鳥島(2030年の硫黄鳥島の噴火の際、避難して来た住民が定着したところ)集落の知人の家にかくれた。鹿山がさし向けた十人程の殺し屋部隊は、谷川さんの首に縄をかけて引きずり殺し、鳥島の護岸から突き落とし、子どもを父親の遺体の上に投げつけ、日本刀で刺し殺した。鳥島の護岸は戦後、新しく築造されて殺害現場がどこであるか特定できないが、護岸に立つと77年前の殺害現場の情景が目に浮かぶようだ。
字上江洲の家にいたウタさんは赤ちゃんを背負い、長男の手を引き逃げたが、日本刀を振りかざした兵隊に捕まり三人とも斬り殺された。場所は家から数十m下った坂道の大きなガジュマルの下だったというが、今はもうない。兵隊たちはそのあと家に引き返し、家の中でふるえている長女と次女を連れ出し、約500m離れた字山里の雑木林、通称ナッコーの森で絞殺した。
鹿山隊長と殺害実行責任者のその後
約1万2000人の住む久米島に駐屯した30人余りの海軍鹿山隊は、食料・労務を全面的に住民に依存した。そこに上陸した1000人近くの米軍。鹿山は米軍を恐れ、住民を恐れた。自分は16才の少女を愛人にして逃げ回りながら、切り込みを実行しなかった部下を命令違反だとして処刑し、住民殺害をくり返した。
NHK沖縄放送局の夕方のテレビ「おきなわHOT eye」(2022年3月31日)の久米島特集では、「恐かったのは米軍ではなく日本軍」「鹿山隊にスパイと思われて逃げ回っていた」など、当時を振りかえる住民の証言が紹介された。鹿山は、「スパイは処刑」と言う恐怖支配で住民を統制しようとしたのである。
鹿山の下で殺害実行部隊の責任者だった常(つね)恒定電信長は、戦後、奄美の徳之島に帰り農業に従事した。琉球新報に常元電信長のインタビュー記事が掲載された(琉球新報1975年8月16日)。
「〔北原の9人の殺害〕わしらは反対したのだが、指揮官(鹿山)が全部命令していて、わしは先任下士官になっているから、上官の命令は直ちに服従でしたから、当時としてはやむを得なかった。……道義的にも法律的にもとても許せるものではない。いかに命令とはいえ、味方の民間人ですから。わしは現場責任者でしたから、相手にわしを憎んでくれるな。命令でやむをえません―と一人一人にはっきりいってやりました」
「〔谷川さん一家の殺害〕谷川さんの奥さんと背中の赤ん坊はわしが日本刀で切った。谷川さん本人は子供一人と海岸の民家にかくれているところを発見、ロープで首をくくって殺した。子供も殺した。残り二人の子供もいたが、これはなだめすかして山に連れて行き首をしめて殺した。いまになってどうしてあんなことをしたのかと思う」
命令だからやむを得なかった、で済む訳がない。ところが、日本のアジア侵略の捕虜・民間人殺害で、当事者の日本兵は全く同じ言い訳をする。中帰連(中国帰還者連絡会)の元戦犯のように、自分自身の戦争犯罪を深く自覚する発言をする人はまれだ。直接手を下した自身の責任回避・自己弁護は命令を下した上級の責任者たちの免罪につながる。非人道的な虐殺に手を染めない道は、結局のところ、住民に振りかざした刃を上官に向けるか、それとも刃を捨てて戦場を離脱するか、二つにひとつであり、それ以外の道はなかった。
鹿山は戦後、故郷徳島県に帰り、何の罪に問われることもなく、農協の理事になり地域のリーダーとしてのうのうと暮らした。そして、復帰の年の新聞社のインタビューに答えて、「日本の国土防衛の点から考えてやった。謝罪するつもりはない」と述べると共に、「島の人から情報の注進があり、勝手に独断でやったのではない」(琉球新報1972年5月28日)と責任転嫁しているのである。
鹿山事件は国会でも度々取り上げられ、遺族に対する補償が議論されたが、不法な民間人殺害に対しては不問にしたままだ。戦後日本社会はなぜ鹿山のような犯罪者を裁こうとしないのか。理由は明らかだ。大日本帝国の最大の戦犯・天皇が一切罪に問われることなく国の象徴に収まって良しとする戦後日本社会のあり方が、かつての帝国の数々の戦争犯罪の解明・追究をなおざりにしているからである。それゆえ、同じような状況になれば同じような事が起こりうる危うい社会なのである。






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