私たちは絶対にあきらめない
県民の平和の思いを踏みにじるな
沖縄報告 4月10日
沖縄 K・S
国交相が県の変更申請不承認を取り消し
日本政府は辺野古埋立NO!という沖縄の意思に耳を傾けよ!
4月8日、国交相は、沖縄防衛局の辺野古埋立設計変更承認申請(2020年4月)に対する沖縄県の不承認処分(2021年11月)を取り消す裁決を行った。合わせて、4月20日までに埋立設計変更申請を承認するよう県に勧告した。国交相の斎藤鉄夫は公明党のただ一人の閣僚として、沖縄県民の意思を踏みにじっている張本人であることの自覚がないのか。公明党・創価学会の一般党員・会員は公明党の閣僚が沖縄弾圧の先兵になっていることを容認するのか。
辺野古埋立工事は、当時の仲井真知事の埋立承認(2013年)から9年目になる。辺野古新基地のきっかけとなった橋本元首相の「普天間飛行場の5~7年内の返還」は何処へ行ったのか。安倍元首相の「普天間の5年以内の運用停止」の約束はどうなったのか。辺野古の埋め立てはこのまま工事を続けても完成しない。
埋立承認の時点では全く想定されていなかった、大浦湾の埋め立て予定海域の大半を占める軟弱地盤が立ちはだかっている。最深部で水深90mにおよぶ、これまで日本だけでなく世界中でやったことのない地盤改良工事という難題に直面しているからである。すでにこれまでの埋立工事により、世界から‘HOPE SPOT’(希望の海)と認定された辺野古・大浦湾は大きく破損され、3頭が生息していたジュゴンも1頭は死に、他の2頭も行き先が知れない。10年におよぶといわれる埋立のための地盤改良工事の強行は、莫大な予算の投入を必要とするだけでなく、生物多様性にあふれる亜熱帯のサンゴの海を破滅させてしまうだろう。
沖縄県の設計変更
不承認は正しい
防衛局の設計変更申請に対する沖縄県の不承認は正しい。大規模軟弱地盤の改良工事を前にして、一度立ち止まって辺野古・大浦湾の埋め立て工事の経過を振り返り再検討せよと提起しているのである。
ところが、日本政府は沖縄の声に耳を傾けようとしない。行政不服審査制度という国民の行政に対する不服申し立て制度を利用して、またも防衛省の申請を国交省が採決するという方法で、沖縄県の不承認を取り消した。沖縄県民の総意を背景とした県の処分を取り消すために、日本政府が同じ内閣の右手から左手への手品のような行政処分を行ったのは今回で何回目か。何と形容すればいいのか。行政の堕落、傲慢、惰性、硬直、何より、沖縄県民に対する軽視に満ちている。
今後、国地方係争処理委員会や抗告訴訟を通じて、沖縄県と日本政府との裁判に舞台が移ることになろう。政府のお抱え公務員でしかない裁判官たちが、専門用語を駆使して、第三者を装いながら政府の政策にお墨付きを与えることになる可能性大だ。しかし、沖縄は決して屈しない。屈する訳にはいかない。150万人の生活と命がかかっているからである。
『世界』4月号特集「中国とどう向き合うか」
河野洋平「外交の知恵を尽くせ」を読んで
南西諸島を非軍事化し、非武装中立の沖縄をつくり出そう!
『世界』4月号に、河野洋平さんの「外交の知恵を尽くせ」と題したインタビュー記事が掲載されている。日中国交正常化50年という節目の年にあたって、日本の戦後政治に深くかかわった政治家らしい、考察と思慮に富んだ発言がまとめられているので、ぜひ目を通して欲しい。なお、このインタビューの聞き手の熊谷伸一郎さんは季刊『中帰連』の編集長をながらく務め、『金子さんの戦争』(リトルモア)をまとめたジャーナリストであることも注目される。
以下、少し長くなるが、いくつか重要なポイントとなる文章を紹介しよう。
〈インタビュー記事抜粋〉
「いま思い返して痛感するのは、国交正常化への賛否を超えて戦争で中国の人々に大変な迷惑をかけたという意識は多くの人たちに共有されていたということです。……過去の誤りの責任を自覚したうえで、隣国との関係を正常化しなければ、という思いに立って、初めて正常化交渉が成立したのだということを、今の人たちにも知っておいてほしいのです」。
「正常化に際しての最大の論点は、賠償問題であり、領土であり、戦争責任でありました。……1972年7月に二度目の訪中をした竹入氏は、北京で会談した周恩来総理から、毛沢東主席は日本への賠償請求権を放棄すると言っている、賠償を求めれば日本人民に負担がかかるでしょう、と伝えられ、いろいろな情報から500億米ドル程度は払わなければならないと思っていたので、この予想外の内容に体が震えたと、後に話されています。500億ドルといえば、当時の為替レートで15兆円ほどの額です。当時の日本の国家予算が11兆5000億円ですから、その大きさがわかります。……日本との関係正常化がアジアの安定にとって重要と中国側も考えて、賠償放棄を決断し、戦争責任についても戦争指導者にあるのであって、日本国民は中国国民と同じ戦争被害者なのだという認識を示したのです」。
「この反覇権条項を中国も日本も遵守すべきです。……互いに共同声明と平和友好条約の精神と内容を守ることをことあるごとに確認するべきです」。
「2018年に李克強首相が来日した際、多岐にわたる合意文書を交わしました。民間企業の仕事にかかわる合意もたくさんあり、今それが相当滞っています。一つずつ実行していくことが必要でしょう。しかし、何よりも急がれるのは、しっかりとした安全保障面の対話の枠組みをつくることです」。
などと述べたうえで、沖縄に関して次のように提言している。
「今年は沖縄の復帰50年という節目の年でもあります。新たな軍事拠点の整備に膨大なコストを費消していくのではなく、むしろ緊張緩和のため、日本側から積極的に、南西諸島を非武装地帯としていく提案を行ってはどうか。当然、中国など関係諸国もこの地域での軍事行動や挑発を一切行わないことを約束する。そのことにより、この地域での軍事的衝突を永久に防ぐという提案です。……北東アジアの平和と安定こそ、日本外交における重要な目標であり、使命です。南西諸島の非軍事化は、まさにその目標に近づく一歩となるのではないか」。
尖閣を棚上げにした日中国交回復の原点に戻ると共に
南西諸島の非武装中立地帯化で沖縄の恒久的平和を!
全く同感だ。50年前、田中首相と大平外相が訪中してまとめあげた日中国交回復の原点に立ち戻ろう。多くの政治家やマスコミもこぞって賛成し、東西対立の谷間で閉塞感に満ちていた日本社会に解放感があふれたことをあらためて想起しようではないか。
日中の軍事的対立のエスカレーションを避けるために直面する課題は「尖閣領有権問題の棚上げ」である。琉球併合と日清戦争・台湾併合を経て尖閣諸島を領有しこれまで実効支配を続けてきたという歴史的事実は、日本の領有権主張の正当性の証明とはならない。琉球併合・日清戦争・台湾併合そのものの正当性に立ち返って検討しなければならないからである。ウクライナを見よ。領土紛争は軍事力では解決できない。互いに納得する対話しか方法がない。
そして、日中平和共存の戦略的なカギが「南西諸島の非軍事化」である。冷静に考えてみれば、軍隊のいないところで戦争は起きない。与那国島から石垣、宮古、沖縄、奄美に至る島々からすべての軍事施設をなくし中立地帯とすることは、これらの島々を武力対決と戦争の惨禍から守ることになる。それは中国の侵略を導くものではなく中国との友好共存を固める道である。軍事力対軍事力では何も解決しない。国会議員、政府閣僚は歴史に対する洞察力を持ち、日本外交のかじを転換させよ。強者にすがっていれば大丈夫という米国追従外交から脱却せよ。
そして、「南西諸島を非武装中立地帯とする」ために、具体的には「沖縄特別自治県」や「沖縄特別自治州」としての制度的な保証が必要となるだろう。日本外交の転換に沖縄の側から呼応して「非武装中立」を実行する沖縄県は日本政府から独立・対等の行政主体とならなければならない。「基地のない平和な島」という将来像を凝縮し「非武装中立地帯」宣言を行うことが第一歩である。さらに、米軍・自衛隊のあらゆる軍事演習、軍事施設の改修・新設、軍事基地の存在そのものに対する反対を県政の柱として主張し実行する行政主体として発展しなければならない。そうでなければ、「南西諸島の非軍事化」は絵にかいた餅に終わる。
河野洋平さんの提言は、沖縄と日本の安全保障の未来に関する非常に重要な発言である。辺野古、宮古、石垣など各地で、米海兵隊基地建設、自衛隊ミサイル基地建設、軍港での訓練・移転、訓練区域外訓練等に対する抗議行動に持続的に取り組みながら、沖縄の平和の未来に関する河野洋平さんの提言を大いに議論しよう。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(67)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する多良間村の花城さんは、広島・長崎の原爆投下の後、気象兵として中国に出兵し、すぐに終戦を迎えた。引用は原文通り、省略は……で示した。
『島びとの硝煙記録』多良間村民の戦時・戦後体験記(1995年)
花城朝勇「上海で終戦を迎えて」
昭和二十年八月九日に長崎に投下された特殊爆弾(原爆)の描くあのきのこ雲は、大村航空隊の退避していた防空壕で眺めた。そんな緊迫した時だったのに私達気象兵は、八月十一日勇躍上海に向かったのである。……
空襲が一日に何回となくくり返されていた頃だったので、私達が待機していた大村飛行場を飛び立ったのはうす暗い早朝であった。そして敵機接近の情報のため途中済州島に着陸し、目的地上海の海軍中支航空隊に到着したのは夕方の6時ごろであった。……
上海近郊にあった東洋一といわれた海軍中支航空隊に、内地から転勤してきてわずか数日で終戦になった。……あっけない幕切れであった。しかしやはり終戦は、日本の惨敗ではあっても、やっと安堵の胸をなで下ろしたというのが本音ではあった。
ともあれ、その日から隊員は各人の身辺はもとより、気象隊の内外や気象計器等の武器の整理に忙殺された。いわゆる武装解除、城の明け渡しの準備である。……とある日、気象隊に残るのは先任下士のK上曹外二名だけ、という命令の伝達があった。私はまたこの三名の中の一人になった。……
ある日ついに来るべきものが来た。気象隊舎玄関近くに車輪のきしむ音と人声のざわめきが聞こえた。ただ事ではない、とひそかに窓からのぞくと、トラックの荷台いっぱいに武装した兵士十数人と将校二人の姿がすぐそこにあった。三人は顔を見合わせて色を失った。トン、トン、トンとドアを叩く音がした。先任下士のK上曹が、「おい花城、お前は師範学校を出ているから英語は喋れるだろう。早く玄関に出て対応してくれ」とあわてている。私も英語はしゃべれないし、こんな時こそ上級者が行くべきではないか、と反発したかったが、ノックの音が次第に激しくなるので仕方なく飛んで行った。
すると二人の若い将校と年かさのいった通訳が立っていた。背広の通訳が「何も心配することはありません。今日はご挨拶に参りました」と、流暢な日本語で、しかも穏やかな表情で言い、そして二人の将校を紹介した。私はそれこそホッとして、頭から引いて行った血が戻ってきた感じで三人を部屋に招じ入れた。K上曹たちも胸をなで下ろして笑顔をつくって寄って来た。彼等は丁重に挨拶をし、私たちをねぎらい勇気づけてくれた。そして格納してある兵器の簡単な点検をすまし、「この次は遊びに来ます」と言って帰っていった。
次の日将校二人だけで訪ねてきた。手にはそれぞれウイスキーと「慶祝勝利」と印刷された戦勝記念紙巻たばこを持って。ことばでは通じないが、漢字を並べて書くことによってお互いによく理解できた。筆談である。これから平和になったから文通したい、と言って、出身地の住所氏名を書いてくれた。……
城明け渡しの責任を果たし、昭和島にいる本隊に加わって抑留生活を始めたのは九月に入ってからであった。
収容所では、社会復帰の勉学と、上海市内にある倉庫での労働作業が日課であった。私は学校教師の経験者ということで、教官として国語、算数の基礎指導を担当させられた。教官である私はポツダム二等兵曹だが、生徒は上等兵曹、一二等兵曹、兵で、だだっ広い仮設の教室はいつも満員であった。一足先に娑婆に帰ったようで、私にとってはむしろ楽しい毎日であった。……
週刊かけはし
《開封》1部:3ヶ月5,064円、6ヶ月 10,128円 ※3部以上は送料当社負担
《密封》1部:3ヶ月6,088円
《手渡》1部:1ヶ月 1,520円、3ヶ月 4,560円
《購読料・新時代社直送》
振替口座 00860-4-156009 新時代社