県内市町村の中国での戦争体験記を読む(69)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する多良間村(たらまそん)の青木さんは、小中学生としての戦争体験を詳しく証言している。引用は原文通り、補足は〔 〕、省略は……で示した。
『島びとの硝煙記録』多良間村民の戦時・戦後体験記(1995年)
青木秀雄「私の戦争体験記録」(下)
慰問文を書かされるようになったのは、四年生後半になってからであったと思う。
沖縄県の一孤島の児童の下手な慰問文を、例えば気候風土の異る東北出身の兵隊さんが読んでも何ら面白い所はなかったと思う。……
せっせと千人針に針を通す女性たちがいた。千人針とは「腹に巻く程度の布に千人の女が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫玉を作り、出征兵士の武運長久を祈願して贈るもの」と辞典にある。小さな多良間で千人もの女性に一針ずつ頼むのは一苦労であったと思うが、寅年生れの女性は、「虎は千里走って千里をもどる」の言い伝えから一人で何十針も縫えたという。家族、知人は言うに及ばす村人達の祈りを込めて作り上げた千人針を腹に巻き、千人分の後ろ盾を背に受けて出征兵は勇躍出発していった。……
「東洋平和の為ならばなんの命が惜しかろう」という歌をよく歌った。南京、上海、北京など主要都市は制圧され、国内は勝利に酔っていた。
しかし、我が村からも名誉の戦死を遂げ、無言の凱旋をする幾柱かの英霊があった。
長閑な一孤島にも戦争というものが忍び寄って来ているという事を小学校低学年の者でも感じ取っていた。大人達のショックは大きかったと思う。……
「ススメヘイタイススメ」の読本で始まった小学校は、学年が進むにつれ忠君愛国、義勇奉公に徹する教材でいっぱい詰まっていた。「キグチコヘイのラッパ」「爆弾三勇士」「佐久間艇長」「広瀬中佐」など挙げれば切りがない。
支那派遣軍の兵隊さんに慰問文を書き、出征兵士を見送り、出征兵士の家の農作業手伝い等々、児童は児童なりに戦争の手伝いをした。
小学校が国民学校と改称されるのは昭和十六年である。この頃からABCDライン、大東亜共栄圏という言葉が聞かれ、さらには八紘一宇という分かりにくい言葉が使用される様になった。
昭和十五年春、キヨは女子師範へ、私は県立二中に進んだ。首里の男子師範に下地昌一、多良間朝常両兄がいた。従姉キヨ〔ひめゆり学徒隊の美里キヨさん〕がたどる運命は才女なるが故に進んだ女子師範の生徒になった事で決まった、と言っても言い過ぎではない。……
平成四年二月、ひめゆり平和祈念資料館を訪れた。キヨの写真の前に立った時は、とめどなく涙が流れ、命を断つ寸前の彼女の気持ちを思うと腸がえぐられ、熱鉄を飲む思いがした。
卒業証書をもらったらすぐ帰って来るからと言って家人の反対を押し切り、彼女は多良間を後にしたと私の姉は語る。「秀雄は少尉になれるんだネー」と運天マッチャン幸男と話しながら、私の兵学校合格を喜んでくれたという。生きていたらそろそろ七十歳か。彼女の冥福を心から祈る。……
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