沖縄を非軍事化しアジアの平和のかけはしに!
沖縄報告 6月26日
沖縄 K・S
6.23復帰50年の慰霊の日
玉城知事の「平和宣言」と小2生徒の「平和の詩」
6月23日、復帰50年の慰霊の日。糸満市摩文仁(まぶに)の平和の礎(いしじ)には、花束や飲み物を手にした遺族の方々が次々に訪れ、それぞれの刻銘板の前に集まり、刻まれた名前を丁寧になぞり、平御香や食べ物をそなえ、手を合わせるなどして追悼した。また、魂魄の塔、ひめゆりの塔、白梅の塔、沖縄師範健児の塔、南洋群島県人慰霊碑、海鳴りの像などなど、県内各地にある数多くの慰霊碑にも関係者遺族の方々が集まり、手を合わせ追悼した。
平和祈念公園の一角では、戦没者の遺骨が混じる土砂を辺野古埋立に使うな!と要求する具志堅隆松さん及び支援者のハンスト・テントと平和の礎の刻銘者24万人余を読み上げる実行委員会のテントが並んで建っており、訪問者がひっきりなしに訪れた。
コロナ対策のため参加者が300人余に制限されて行われた沖縄全戦没者追悼式で、玉城デニー知事は平和宣言を読み上げた。県民から公募したメッセージをもとに作成したという今年の平和宣言は、沖縄の基地問題と平和を求める県民の意思をより前面に出し、普天間飛行場の速やかな運用停止、辺野古新基地建設の断念などを求めるとともに、ウクライナ戦争の一日も早い停戦を訴えた。そして締めくくりに、ウチナーグチと英語で「命どぅ宝」という格言こそ何物にも勝る黄金言葉(こがねことば)だとし、「平和で豊かな沖縄の実現」に向けて全力で取り組む決意を宣言した。
そのあと、小学2年生の德元穂菜(ほのな)さんが、911点の「平和の詩」公募作品の中から最優秀賞に選ばれた「こわいをしって、へいわがわかった」を朗読した(別掲載)。
また、追悼式に出席した岸田首相に対して、「沖縄に基地を押し付けるな」「沖縄を二度と戦場にさせない」などのプラカードを手に集まった数十人の市民たちが、「帰れ!」と抗議した。
慰霊の日には特に、凄惨な沖縄戦を体験し、沖縄が再び戦場となる悲劇にならないことを強く願う県民の平和への意思があふれ出る。沖縄を非武装のエリアとしアジアの平和のかけはしとすることこそ、沖縄戦で命を失った24万余の人々を慰霊する道だ。
平和の礎の刻銘者全員の読み上げ完遂
平和の礎がつくられたのは戦後50年の節目に当たる1995年。当時の大田昌秀知事がリーダーシップを発揮し、並んで立つ平和祈念資料館とともに建立した。沖縄県民、日米両軍兵士、台湾・朝鮮から動員された軍人・軍属など、国籍に関わらず沖縄戦のすべての犠牲者の名前を母国語で刻み、凄惨な戦争の記憶をとどめる平和の発信地となっている。但し、沖縄県出身者については、1931(昭和6)年の「満州事変」に始まりアジア太平洋戦争に至る期間中に、県内外で戦争が原因で亡くなった犠牲者を刻銘の対象にしている。今年の追加刻銘は県内27人、県外28人の計55人で、刻銘者の総数は24万1686人になった。
平和の礎の刻銘者全員の名前をリレー方式で読みあげる運動が6月12日、沖縄戦での米軍上陸の地・読谷村でスタートした。主催は、沖縄「平和の礎」名前を読み上げる実行委員会。会場となった読谷村文化センターの様子はリモートでネット配信された。最初の読み手は玉城デニー知事。知事は「平和で豊かな沖縄を子供たちに託すことができるように力を尽くしたい」と述べ、伊江島の沖縄戦犠牲者の名を読み上げた。そして、石嶺読谷村長、糸数慶子元議員と続き、読谷高校の生徒たちも制服姿で参加し、名前を読み上げた。この日から慰霊の日の6月23日までの12日間、朝5時から深夜の3時まで各地の会場を結んで連日続けられ、その様子はユーチューブで伝えられた。
戦死者は一人ひとり命があり生活があり未来があった。一人ひとりの名前を読み上げることで、命の重さを知り、戦争で殺しあうこと・殺されることの不条理を認識することにつながる。刻銘者読み上げ運動は日を重ねるごとに反響が大きくなり、小中高生、大学生、遺族の方々、さらに県外、アメリカ、台湾へと運動の輪が広がって行った。そして、最終日の6月23日の午前中、平和祈念公園の一角で開催されたクロージング・セレモニーで、今年追加刻銘された55人の名前を読み上げて、刻銘者全員の名前読み上げを完遂したことが報告された。
朝鮮人刻銘者464人の読み上げ
朝鮮人刻銘者を読み上げる会のメンバー9人は6月17日夕方、那覇市おもろまちのなは市民協働プラザで、464人の刻銘者の名前をハングルで読み上げた。はじめに、沖本富貴子さんがパワーポイントの映像を使って、沖縄戦に動員された朝鮮人の歴史とその実態に関して簡潔な解説を行い、要旨次のように述べた。
平和の礎には朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国に分けられ、464人が刻銘されている。日本政府は朝鮮人犠牲者の正確な調査をしておらず、刻銘された方々は犠牲者の一部にすぎない。
日本軍の留守名簿の朝鮮出身者は生死不明が大部分だ。日本軍の名簿から沖縄戦に動員された朝鮮人は少なくとも3500人が数えられる。このほかに日本軍慰安所が143カ所確認され朝鮮の女性たちも連行されたが、はっきりした人数はわからず、戦場で犠牲になった方も少なくない。
各地に建立された朝鮮人追悼の碑を紹介しよう。
・宜野湾市嘉数高台の『青丘之塔』
・『沖縄兵站慰霊之塔』。朝鮮人部隊の特設水上勤務第103中隊・104中隊が刻銘されている。
・久米島の『久米島住民・久米島在朝鮮人 痛恨之碑』。
・摩文仁の一角にある『韓国人慰霊塔』。
・渡嘉敷島の『アリラン慰霊のモニュメント』
・石垣島の『留魂之碑』。
・読谷村の『アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発 朝鮮半島出身者 恨之碑』
・宮古島の『アリランの碑』と『噫々忠烈丈夫之墓』
本部町健堅に埋葬された彦山丸犠牲者の墓標の写真には2人の朝鮮人もいた。3年前、アジアの青年たちが集まって発掘作業をしたが、遺骨を見つけることができなかった。埋葬地の近くに、むくげ(無窮花・ムグンファ)と赤花(ハイビスカス)を植樹し犠牲者を忘れない誓いをたてた。
「朝鮮民主主義人民共和国」82人の読み上げが、元朝鮮総連の金賢玉(キム・ヒョノク)さんによって行われたのに続き、「大韓民国」382人の読み上げがリレー方式で行われた。2004年の追加刻銘分からラストを読み上げた沖縄在住在日韓国人の南成珍(ナム・ソンジン)さんがまとめの言葉を次のように述べた。
「多くの人たちが沖縄に動員され亡くなった。刻銘されているのはそのうちの一部に過ぎない。どんな思いで異国に連れてこられ、どんな思いで亡くなったのか。そしてまた、そのあと、故国が北と南に分断されたことにどういう思いをしただろうか。平和の礎刻銘者のこの読み上げに対し、誰か聞く人がいるの? と冷めた声があると聞いたが、何より亡くなった人たちが聞いている筈だ。平和のための努力を続けたい」。
こわいをしって、
へいわがわかった
沖縄市立山内小学校2年生 德元穂菜
びじゅつかんへお出かけ
おじいちゃんや おばあちゃんも
いっしょに みんなでお出かけ
うれしいな
こわくてかなしい絵だった
たくさんの人がしんでいた
小さな赤ちゃんや、おかあさん
風ぐるまや チョウチョの絵もあったけど
とてもかなしい絵だった
おかあさんが
七十七年前のおきなわの絵だと言った
ほんとうにあったことなのだ
たくさんの人たちがしんでいて ガイコツもあった
わたしとおなじ年の子どもが かなしそうに見ている
こわいよ
かなしいよ
かわいそうだよ
せんそうのはんたいはなに?
へいわ? へいわってなに?
きゅうにこわくなって おかあさんにくっついた
あたたかくてほっとした
これがへいわなのかな
おねえちゃんとけんかした
おかあさんは、二人の話を聞いてくれた
そして仲なおり
これがへいわなのかな
せんそうがこわいから へいわをつかみたい
ずっとポケットにいれてもっておく
ぜったいにおとさないように
なくさないように わすれないように
こわいをしって、へいわがわかった
(平和祈念資料館提供)
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(70)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する多良間村の松堂さんは、小学校教員から満州の国民学校勤務、召集、敗戦、帰国に至る経過を証言している。引用は原文通り、補足は〔 〕で、省略は……で示した。
『島びとの硝煙記録』多良間村民の戦時・戦後体験記(1995年)
松堂春政「開戦前後」
昭和十二年七月の日支事変まで小生在住の周辺は極めて静かな農漁村地帯でした。小生は小学校教員として在住勤務をしていた。七月七日開戦の報と共ににわかに緊張高まり、青年学校男子の軍事教練は強化され、小学生も体操に重点が置かれるようになった。
やがて日が経つにつれ在郷軍人の中から一人、また一人と召集されて戦地へ、我々はこの出征兵士を見送るために明け暮れ、授業もおろそかになった。開戦後一か月もたったであろうか、その見送った人々の中から一人、一人と無言の帰還が起ころうとは――。学校は村葬の場に利用され、授業どころではなかった。……
兵隊として、満州東北部のソ満国境へ訓練後、スイフンガ〔綏芬河、黒竜江省にある街〕奥の陣地に国境警備の任につく。眼前にソ連のトーチカが見える。小生、無電室勤務を兼ねるその関係上、東京空襲、サイパン、アッツ、沖縄戦等受信、特に沖縄戦には胸の痛む思いがした。……
山中、他部隊から、日本が無条件降伏したとのニュースを受けとった。来たるべきものが来たという感じ。もはや戦争は終わったと思うと「ほっと」した気持ちと同時に複雑な気持ち。……。鉄道を横切り一路南下日本へ、これが最良の方法と決まって、夜を待って無事鉄道は横切ったものの食糧はつきて、三日間も食せず、山から出て民家を襲い食料を確保し山中に……。なくなればまた民家に……。匪賊同然の行為を平然と行なった。その間悪いことをしたとは思わなかった。……
どうともなれと、部落が見えたので戦争準備を整えて近づくと一人の日本人らしい人間を、数名の満人が囲んで白旗を掲げてやって来た。この部落、日本の開拓団の部落であったらしい。その日本人から、敗戦の事を聞かされ初めて実感がわいた。彼の言うには、終戦と同時に主客逆転、家屋は奪われ、衣服は着のみ着のままで、元使用人としていた満人が主人となり、その世話を受けている。もしここで貴殿等が戦を交えれば我々団員は皆殺しにあう、どうか武装解除してくれと嘆願した。今さら抵抗したって勝ち目はなく団員を皆殺しさせる訳にもいかず、とうとう武器を渡し、兵隊としてでなく、団員の一員となった。
ここでもまた部落の満人に襲われて三分の一の婦女子は死んだとの事。死体の山を見ると土がかぶせ、子供の腕等外に出て、犬が食いちぎった後があちらこちらに散っていた。……満人曰く、満州建国当初、我らの父、兄、子の半分は日本兵に匪賊と名指しされ後ろ手に縛られ、岡の上に追い上げ機銃で撃たれ死んだとか、(日本の神社)に閉じ込め戸を閉め、鉄条網でくくり火をかけ、戸を蹴破って出てくる人間は機銃で撃って死亡させた。それを思えば、今度の満人の襲撃は我々の品物を取り返すだけで、命を目当てにしたのではないと、言うのだから……これにも一理ある。……
四人の仲間と共に(昔個人で自衛のため、何人かの人を雇って生活していた、大家族集団六夫婦三十人)、100メートル四角の土塁で守られた家の使用人(苦力)として働くようになった。……
九月下旬町から引き揚げのニュースが入った。彼等も喜んでくれた。今度はいつ来るか、今度来る時は戦争でなく品物の売買で来いよ、と励まして、賃金まで支払い、モロコシの粉までくれた。大陸人はそれだけ心が広いと感激した。……
週刊かけはし
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