沖縄報告 沖縄と2つの7月7日
悲劇を繰り返さない決意新たに
沖縄 K・S 7月10日
7月7日―サイパン全滅と盧溝橋事件
歴史を振り返り、日中不戦の決意を固くする
7月7日というと、まず七夕伝説を思い浮かべるであろうが、1944(昭和19)年のサイパン全滅を想起する人もいるのではないかと思う。当時サイパン島に残留していた一般日本人約2万人は、義勇隊を編成して戦闘に参加したり、老人や女性も軍と行動を共にし、最後は手りゅう弾で自爆したりマッピ岬の崖から飛び降りたりして、1万人が犠牲になったといわれる。犠牲者の大半は沖縄出身者であった。県内市町村史に掲載されたサイパンでの戦争体験記を読むと、日本の南方植民政策の下で多くの県民がサイパンへ移住し、逃げ場のない小さな島での戦争で、米軍の鉄の暴風と日本軍の軍民共生共死により、地獄のような苦しみを味わったことが伝わる。そして、サイパンの次は沖縄だ、と県民はいよいよ間近に迫った戦争に危機感を募らせた。
1937年までさかのぼると、7月7日は北京郊外で日中両軍による小規模の武力衝突が起こった盧溝橋(ルーコウチャオ)事件(中国では、七七事変)の日である。これを機に、日本は日中戦争の泥沼へと突入していき、沖縄県民の中国大陸への派兵も急拡大した。中国大陸への派兵の拡大にともない戦死者も増加していった。平和の礎に刻銘されている県民約15万人の中には、中国での戦死者も多い。
旧東風平町(現八重瀬町)は、詳細な戦争被害調査をまとめた『東風平町史―戦争関連資料―』(1999年)を発行した。それによると、戦没者は当時の町民の約半数にあたる4019人を数える。死亡地は南部地域を主としながらも、アジア太平洋の各地が記録されている。サイパン(テニアンを含む)はほとんど一般住民で207人、そのうち0才から10才までの子どもが92人を占める。死因はほとんど被弾とされているが、栄養失調、戦病死、さらに自爆も記録されている。9才と7才の姉弟、15才と11才の兄妹などの自爆死があり、痛ましい。
盧溝橋事件から始まる日中戦争がアジア太平洋へと拡大していき、サイパン全滅、沖縄戦へとつながったのだ。平穏な生活を根底から破壊し命を奪うだけの戦争を止めるという決断をもっと早くできなかったのか。RBCテレビは1988年、慰霊の日特別番組で、近衛文麿元首相による上奏文を取り上げた『遅すぎた聖断』を放映した。その趣旨は、1945(昭和20)年2月に戦争を止める決断をしていれば、その後の東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎の原爆投下などは避けられたのではないかというものである。戦争を止めるチャンスは、サイパン陥落後の東条英機内閣の総辞職の際も、盧溝橋事件のあと現地軍の間で停戦が成立した際も確かに存在したのである。しかし、天皇を筆頭に国家権力は戦争を継続し拡大する道を選んだ。それが戦争の論理なのだ。
天皇制日本が「暴支膺懲」(悪い中国を懲らしめる)を掲げて侵略戦争を正当化した誤りを再び繰り返すべきでない。尖閣諸島や台湾をめぐって、アジアの隣国との対立を煽ってはならない。軍備増強・軍事費拡大は増税・福祉切り捨てを必然的に伴うだけでなく、戦争につながる軍拡スパイラルは破滅への道だ。7月7日にあたり、日中不戦の決意を固くする。
沖縄鍾乳洞協会の沖縄戦展示会
慰霊の日を挟んで約3週間、八重瀬町中央公民館具志頭分館で、沖縄鍾乳洞協会(山内平三郎理事長)が主催して、「洞穴調査(鍾乳洞、ガマ、陣地壕)から解った沖縄戦の実態展」が行われた。会場には、南部各地のガマ・壕の地形図や手りゅう弾・ヘルメット・軍靴・乾電池・認識票・茶わん・歯ブラシなど、収集した各種遺品が並べられた。
山内さんとガマとの関わりは長い。米軍政下の1967年、当時愛媛大の学生だった山内さんは、チームの一員として玉泉洞を調査したのを皮切りに、これまで約150カ所のガマ・壕を調査した。山内さんによると、隆起サンゴ礁地形の沖縄には、石灰岩で作られた大小さまざまな自然壕(ガマ)が約3000カ所あるという。戦争でこれらのガマは住民の避難場所や役場の書類保管場所となったり、日本軍の陣地として収用されたりした。今回展示されたのは、そのうち代表的ないくつかのガマ・陣地壕の詳細な地形図、写真、発掘品である。那覇市おもろまちの陣地壕や八重瀬町ギーザ(慶座)のガマの発掘調査には、私も同行し遺骨収集をしたので、現場の有様があらためて思い出された。
糸満市の轟の壕は、平和学習で中に入ったことのある人も多いだろう。今回、その轟の壕の詳細な地形図も展示された。壕は全長200mに及び、普段入るのはそのうちの一部に過ぎないことが分かる。
また、那覇市おもろまちの人工的につくられた奥行き20mほどの小さな陣地壕の発掘調査では、遺骨数人分とサーベル、銃弾、おわん、万年筆、印鑑などを多数収集した。遺骨はきれいで、戦闘で傷ついたような痕跡は全く見られなかった。山内さんの推測では、壕入り口近くに落ちた砲弾で生き埋めにされたのではないか、とのことである。印鑑の名前から持ち主が分かり、遺族に返された。私はこの時、土の中から泥まみれのハーモニカを見つけた。沖縄に派兵された若い兵士は戦場でハーモニカを吹いて何を思ったのだろうか。
摩文仁の戦没者遺骨収集情報センターによると、まだ3000体近くの遺骨が未収集とのことである。ガマフヤーの具志堅さんは「もっと多い、おそらく1万体がどこかに眠っている」と語っている。遺骨だけではない。不発弾は、毎年数百発を回収処理しているが、このペースではあと70年間なくならないという。戦後77年、復帰50年、沖縄はいまだ戦争と共にある。




県内市町村の中国での戦争体験記を読む(71)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する南風原町の花城さんは、幼いころからの暮らし、大阪での出稼ぎ、中国への派兵と負傷、入院生活などを証言している。引用は原文通り、省略は……、補足は〔 〕で示した。
南風原町史第9巻戦争編本編『戦世の南風原~語る のこす つなぐ』(2013年)
花城清光「熊本陸軍病院のこと」
私の生まれた大名は、戦前は非常に貧しい所でした。南風原尋常小学校の高等科を卒業した私は、父の農業の手伝いで、イモや野菜を作って暮らしていました。しかし、父は小作でしたが、もっぱらヒヨー(日雇い)といって、よその家の加勢をしたり、サータ―ヤー〔サトウキビの製糖所〕の手伝いなどもやって生計を立てていました。
ヒヨーはよく仲座さんという家に頼まれて行きました。首里の酒屋から肥料を桶で運ぶ仕事などは、一日に何度も行ったり来たりのつらい重労働で、大変くたびれた思い出があります。一日の賃金はだいたい一人前の男の人で五十銭、若いのは二十五銭から三十銭ほどで、いい稼ぎにはならないものでした。女の人の仕事は、どこかの家に四、五名集まったり、洞窟の中で帽子編みをやってました。いずれにしても、大名はヤードゥイ(屋取り)なので、土地を持つ人も少なく、ろくな仕事もなかったので、仕事を求めて出稼ぎに行く人がたくさんいました。
十八歳の頃でした。大阪に住む姉夫婦の呼び寄せで、私も出稼ぎに出ることになりました。大阪の旭区蒲生町という場所でしたが、 そこは沖縄出身の人が大勢住んでいました 最初に見つけた仕事は石炭仲仕といって、船に積まれた石炭を陸揚げする仕事です。これは非常にきつい仕事で、よほど身体が頑丈な人でなければつとまりません。沖縄からの出稼ぎの人は、最初そういう雑役のような仕事ぐらいしか探せません。おいおい慣れてきたら工場にも勤められるようになります。
私も仲仕の仕事で知り合った人に田中車両という会社を紹介してもらって、そこに就職しました。これは汽車の客車を作る会社で、私はそこの製材の仕事をやっていました。大名にいた時分は、学校を卒業しても畑の日雇いしかなかったのですが、大阪では仕事があり、お米のごはんも食べることができ、ときには家への送金もすることができました。
その田中車両に勤めていたときに、私は徴兵検査を受けることになりました。結果は甲種合格で、現役入隊することになり熊本へ行きました。昭和十二年一月十日、現役兵として、歩兵第13連隊第7中隊へ配属されました。そこの軍隊の厳しいことといったら、大変なものでした。初年兵は、よく整列ビンタをもらって、夜になれば「逃げようなぁ」といって、泣いているような状態でした。
そこでの訓練を終え四月になると、千葉県の陸軍歩兵学校の教導連隊軽装甲車隊へ編入になりました。……
その陸軍歩兵学校に移って間もない七月には支那事変が起こり、 その月に一等兵になった私は、支那事変へと参戦することになりました。……九月八日には河北省の永定河付近の戦闘に参加、さらに保定への追撃戦闘、保定での戦闘と息つくひまもない戦闘が続きました。杭州湾の上陸作戦の後、十二月一日に上等兵となった私は南京攻略戦が成功すると、しばしの休憩をとることができました。……
翌年の四月には廬州会戦に参加しました。あそこはクリーク地帯で、そのぬかるみを越えるのに苦労の連続でした。六月になり、私は安徽省舒城県での戦闘中に、敵の銃弾で左足の膝をやられました。それで前線から退けられ、現地の野戦病院、上海、門司を経て小倉陸軍病院へ護送されたのが七月十四日、それから二十六日には熊本陸軍病院へ転送されました。
熊本陸軍病院は、割と新しい病院で、第6師団の負傷者が増え、元々あった小倉陸軍病院では手いっぱいになったので、急いで建てた病院でした。そちらでも、患者数が増え対応できなくなってきて、分院というのが作られており、私はその分院へ入院しました。 ……
病棟は二十~三十棟あったかと思います。細長い病棟で、まん中は通路があり、両側にベッドがありました。その一つの病棟に二十四、五名の人が入院しており、全部で約五百名の患者を収容できる大きさでした。医者は内科や外科など合わせて十名前後いたように思います。入院患者はおもに、支那事変の負傷者でしたが、中には戦闘に耐えることができない程に、肝臓や腎臓を患っている人もおりました。……
(『大名が語る沖縄戦』1993年)
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