対馬丸撃沈1482人の犠牲者が伝える日米両国の戦争犯罪

沖縄報告

人道が空語に 戦争の論理まざまざ

沖縄 K・S 8月28日

8月22日は対馬丸撃沈78周年

無料開放の対馬丸記念館に来場者続々

 1944年8月22日夜10時過ぎ、沖縄から九州に疎開する学童らを乗せた対馬丸は、トカラ列島悪石島(あくせきじま)付近を航行中、米海軍の潜水艦ボーフィン号による魚雷攻撃を受けた。船は約10分後に多くの人々を船底に取り残したまま沈没、脱出した人々も台風接近の海の中で多数亡くなった。氏名が判明した犠牲者は学童疎開784人、一般疎開623人、訓導・世話人30人、船舶砲兵隊21人、船員24人、合計1482人にのぼる(『対馬丸記念館公式ガイドブック』による。連絡先=098―941―3515)。
 対馬丸撃沈は一般住民の人権を無視する日米両国の戦争犯罪を示す悲劇である。日米戦が激化する1942年、日本が「臨時海運管理令」によって民間船舶の軍徴用を進めると、米軍は補給路を断つため無差別攻撃を戦術とした。真珠湾攻撃の翌年竣工したボーフィン号は、ニックネームを「真珠湾の復讐者」と言い、沈めた艦船は合計44隻にのぼるが、最大の犠牲者を生んだのが対馬丸だった。
 1944年7月7日のサイパン陥落の直後、東条内閣は沖縄県庁あてに電報を打ち、「老幼婦女子」を島外に疎開させるよう命じた。すでに南太平洋や小笠原諸島・沖縄近海は米軍の制海権・制空権が支配するところとなり、日本船舶の沈没が多発していた。船舶による疎開そのものが危険な時期だった。学童疎開を目的としていたならば、対馬丸の運航を明確に民間の赤十字船として行う選択肢があった筈なのである。ところが対馬丸は軍用船として、少数ではあるが船舶砲兵隊を乗船させ、多数の学童疎開者・一般疎開者を乗せた。
 対馬丸は、第一次世界大戦が始まった1914年にイギリスの造船所で建造された日本郵船の貨物船であった。軍によって徴用された対馬丸は船体が灰色に塗り替えられ、甲板には高射砲が設置された。那覇から学童たちを乗せて九州へ向かう前々日の8月19日には、上海から第62師団の兵隊たち数千人を乗せて那覇港に到着していた。ボーフィン号はこの時から攻撃のチャンスを狙っていたのである。戦争の論理の前には人道は空語になる。
 第32軍(沖縄守備隊)のもとには、8月24日に、魚雷攻撃により沈没との報告が入っていた。ところが日本軍は箝口令(かんこうれい)を敷いた。乗船者の家族を不安に陥れ、辛くも生き残った人々に「話すな!」と新たな苦しみを与えたのである。
 対馬丸記念館は、撃沈60年の2004年8月22日に、那覇市旭ヶ丘公園の一角に開館した。以来、8月22日は無料開館日として開放されてきた。展示は丁寧で分かりやすい。対馬丸への乗船と撃沈、遭難の様子、疎開に至る経過、沖縄戦の推移、様々な遺品と共に、目を引くのが壁一面に掲げられた犠牲者の遺影である。
 旭ヶ丘公園の一角に、遭難学童、訓導・世話人、遭難一般者の名を刻んだ小桜の塔がある。この間コロナのため、遺族・関係者多数が参列する慰霊祭は開かれていないが、対馬丸記念会による法要が行われた。地元紙には、対馬丸で家族を失った遺族の方々の記事が掲載された。母と姉、弟、妹を亡くし、2才年上の姉と共に孤児となった当時12才の女生徒は、地上戦の地獄と戦後の苦しみを生き抜いた。毎年8月22日が近づくと小桜の塔に向かい、「しょっぱい海水を飲んでどんなに苦しかったか」と思い返すたびに胸が痛むという。


『対馬丸のこどもからあなたへ』

ときどきでいいのです
どうかわたしたちのことを思いだしてください
あなたは、海へ行くことがありますか?
海へ行って海の水にさわりますか
その水は、私たちの眠るあの悪石島の海へつながっているのです

真っ白い雪や大きな汽車
そして、真っ白いご飯にあこがれ
まるで修学旅行にでも行くように船に乗ったわたしたちは
アメリカの潜水艦の攻撃を受けて沈められました

炎と水
たくさんの子ども達のそして大人達の悲鳴
想像できますか?
なぜ
わたしたちは、そんな目にあわなければならなかったのでしょう

わたしたちは、生きたかった
おいしいものを食べたり
思いきり遊んだり
大人になって世の中で自分の力を試したり
すてきな相手にめぐり会ったり
わたしたちは、生きたかった

なぜそれが許されなかったのでしょう
なぜ
ああ、でも海の底にいるとよく聞こえるのです
今も世界中のあちこちで子ども達が悲鳴を上げています
なぜ なぜ なぜ

(記念館の展示より)

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(73)
日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。今号で紹介する南風原町の赤嶺さんは、船舶通信兵として徴兵され、長崎で被爆した様子や後遺症で苦しんだ経過を詳しく証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。

南風原町史第9巻戦争編本編『戦世の南風原~語るのこすつなぐ』(2013年)

赤嶺高三
「船舶通信兵として長崎で被爆」

 昭和19年に徴兵され、陸軍の船舶通信兵になり広島へ行った。……私たちの任務は、満州で作られた戦車を運ぶ輸送船の護衛で、韓国の釜山港から福岡の門司港を往復した。昭和20年にその途中で魚雷に当たって、乗っていた船が沈没するということもあった。船に積んだ弾薬などに敵の弾が当たってもすぐに引火しないように周囲に砂袋を積み、さらに竹や松の木でイカダのように組んでいた。私はそのイカダにつかまって辛うじて助かった。
 昭和20年、造船所で実地研修を受けるため私ともう一人が門司で降ろされた。新しい船ができると試運転をするので、それに研修生として参加するためであった。長崎へ行き、市内からポンポン船で島に渡り、川南造船所に宿泊した。
 8月9日、5人で長崎市内に食糧を取りに行く途中被爆した。最初に空襲警報がなった時は上空を米軍機が飛んだので、人々は建物や壕の中へ避難したが、警報が解除され人々が表に出始めたころ、飛行機が旋回して来て原爆が投下されたのだ。私は原爆投下の中心地から約3・2kmの県庁の陰にいたので、ヤケドなど直接の被害はなかった。翌日、市内に知人がいたので様子を見に行ったが、本当に何もかもがなくなってしまい、知人の行方は分かるはずもなかった。川には人々が重なり合い、また死体がずらっと浮いて水面が見えないほどであった。……
 その後、原爆の後遺症から胃潰瘍になり、入院して手術してもまた吐血を繰り返した。沖縄はアメリカの支配下にあったので、治療を受けに本土に行くことができず、10年ほど治療が遅れた。自費でもいいから本土で治療を受けようと決めて、沖縄の被爆者協会の人の勧めで広島に行くことにした。
 昭和42年、原爆投下21周年記念式典に参加する代表と一緒に広島に行った。沖縄で琉球政府発行の被爆手帳(原爆被爆者健康手帳)をもらっていたが、治療を受けるには再度本土でも手帳の申請が必要だと言われた。その手続きがとても大変で、体調も悪いのに最初は病院にいれてもらえず、役所の被爆課と宿泊先とを毎日行ったり来たりしていた。入院できなかったのは、日本人登録と広島市民登録をしていないという理由からだった。二週間後、沖縄びいきの院長のはからいで、空きベッドに入院でき、専門的な検査が始まった。その後も何度も役所に行ったが、私が確かに被爆したことを証明するには、被爆した瞬間に一緒にいた人(同一被爆者)二人以上の署名が必要だった。被爆した時に一緒にいたのは研修のために各地から集まった別の部隊の人達で、名前もわからなくなっていた。それを説明すると、その理由を詳しく書いて提出しろという。提出すると、これでは簡単すぎるからもっと書きなさいと何度も書き直しをさせられた。一週間ほど手続きが前に進まず、腹が立ち、沖縄を特別扱いしていると感じた。私が同一被爆者を捜していると聞きつけて、マスコミが何度もインタビューに来ていた。役所で6回目の手続きをしている時に、近くで聞いていた人が口添えをしてくれ、やっと申請の手続きをすることができた。その人は偶然にも、私が所属していた船舶通信隊で隣の部屋の班長をしていた元軍曹だったが、お互い全く覚えていなかった。その人が「同じ部隊の者でも20年も経てばわからなくなる。まして、同じ部隊でもない者を捜せる訳がない」というと、役所の係は何も言えなくなったのである。こうしてやっと手続きが通ったが、病院側に沖縄に戻るよう言われたため、とうとう広島で被爆手帳はもらえなかった。治療は結局、沖縄で受けた。
 私は今でも毎年5月と11月に2回の検査を受けている。最近は、これまで被爆したことを知られたくないと手続きしなかった人が、年をとり、健康に不安を感じて検査を受けに来たりしている。しかし出てきていない被爆者がまだたくさんいる。沖縄にも、原爆によるケガや後遺症に苦しんでいる人がいるのである。

2022.8.22 対馬丸記念館。子どもたちをはじめ犠牲者の遺影。
2022.8.24 琉球セメント安和桟橋入口ゲート。右折、左折、直進ダンプで混雑するゲート前。

週刊かけはし

購読料
《開封》1部:3ヶ月5,064円、6ヶ月 10,128円 ※3部以上は送料当社負担
《密封》1部:3ヶ月6,088円
《手渡》1部:1ヶ月 1,520円、3ヶ月 4,560円
《購読料・新時代社直送》
振替口座 00860-4-156009  新時代社