沖縄を三度訪れたゴルバチョフ
2003年、那覇市役所前に記念碑を設置
沖縄報告 9月11日
沖縄 K・S
ゴルバチョフの死と沖縄
ゴルバチョフ元ソ連大統領が死去した。1985年にソ連共産党書記長に就任してから、国内では共産党一党独裁の廃止と民主化を進めると共に、国外ではアメリカとの間で中距離核戦力(INF)廃棄条約をむすび「東西冷戦の終結」を宣言した。1990年にベルリンの壁崩壊と東西ドイツの統一へ道を開き、ノーベル平和賞を受賞した。しかし、翌1991年のクーデターを契機に失墜し、12月のソ連の解体と独立国家共同体の創設と共に、大統領を辞任した。大統領にあったのは6年余りと決して長くはなかったが、歴史的な業績と強い印象を残した政治家であったと言える。ロシアメディアによると、2年前から入院していたモスクワ市内の病院で亡くなった。91歳だった。
告別式は9月3日、モスクワの労働組合会館「円柱ホール」で行われた。レーニンやスターリンら歴代のソ連指導者の葬儀が行われた場所で、大勢の市民が花を手に列をつくり、葬儀は予定の2時間から4時間に延びたという。プーチンは参列しなかった。
ゴルバチョフ元大統領と沖縄とは深いつながりがある。2001年、2003年、2005年の三度、沖縄を訪れて講演会を開き、各地をまわって交流した。2002年、国際平和の推進や環境問題に取り組むことを目的としたゴルバチョフ財団日本支部が那覇市に設立された。2003年、那覇市庁舎の一角に「私たちは地球という惑星の子ども」というタイトルの「ゴルバチョフ氏来訪記念碑」が建てられた。翁長知事時代の2016年には、琉球新報を通じて県民への手紙を寄せ、「沖縄県民が平和のために闘い、島の軍事化に反対し、日本と世界中の観光客にとって魅力的な島にしようと奮闘していることを応援している」と述べた。
ゴルバチョフ元大統領を招待したのは故翁長雄志知事
はじめの沖縄訪問を推し進めたのは、故翁長雄志知事だった。翁長さんは2014年県知事選で当選するまで、2000年から4期連続で那覇市長に就任していたが、2001年に那覇市制80周年を迎えた時、記念する講演会にゴルバチョフ元大統領を招待したのである。グラスノスチ(情報公開)、ペレストロイカ(改革)を掲げて、戦後東西冷戦の世界構造を変えようとしたソ連の指導者の発信力により、アジアの軍事対立の谷間に固定化された沖縄基地の現状を打破しようと試みたのだった。招待について翁長さんから相談を受けた当時那覇市長公室長の宮里千里さんは、「保革の分断を乗り越える術を学びたい、という思いがあったのだろう」と述べている。ちなみに、宮里さんは那覇市職労の幹部であったが、保革の壁を破りたいという翁長さんの要望で、市長公室長という要職に就いたのであった。
ゴルバチョフ元ソ連大統領の沖縄訪問は県民の間に大きな反響を呼び起こした。翁長さんはその時のことを、『戦う民意』(角川書店、2015年)で、次のように書いている。
……大切なのはソ連最後の大統領だったゴルバチョフさんが、極東で最も多く米軍基地を抱える沖縄に来ることでした。それによって時代の潮流が変わったことを沖縄の人々に肌で感じてもらいたかったのです。……これが私の「オール沖縄」「イデオロギーよりアイデンティティー」の第一歩でした。
そうして2001年11月14日、那覇市制施行80周年の記念講演会に招待し、ゴルバチョフ元大統領は娘のイリーナさんと沖縄の地に降り立ちました。定員1500人の市民会館に4000人ほどが押し寄せて館外にあふれ、沖縄県民のおじい、おばあがみんな「ありがとう、ありがとう」と言って、ゴルバチョフさんに抱きつきました。
翁長さんは信念の人だ。仲井真知事が公約に反して普天間の県内移設を容認し辺野古新基地のための埋立承認をすると、自民党とは袂を分かち、「軍事基地は沖縄発展の阻害要因」として「辺野古新基地反対、普天間返還」を公約とし、「誇りある豊かさ」を掲げて2014年知事選に立候補した。那覇市長時代から抱いていた「保革の壁を越えて東西の軍事対立の谷間にある沖縄を打ち破る」というプランの実現のために県知事として日米両政府を相手に真っ向から闘うことになった。県民の力強い支持を背景に辺野古白紙撤回を迫る翁長知事は、日本政府にとっては沖縄が中央政府の統制下から離れて自立し軍事植民地を打ち破る主張と運動を進めることを意味するもので、脅威だった。沖縄県と安倍・菅・岸田政権との全面対決は、2018年8月の翁長さんの急死の後も玉城デニー知事に受け継がれ、現在進行中である。
翁長さんが亡くなったとき、ゴルバチョフ元大統領は追悼文を寄せて、次のように述べた。「翁長雄志知事の突然の訃報に深い哀悼の意を表します。……彼はいつも不変で堅固な意志を持ちながら、将来への明確なビジョンを持っていました。彼の活動の基本方針は、平和のための戦いであり、軍事基地拡大への反対と生活環境向上が両輪でした」
翁長さんもゴルバチョフさんも、アジアの軍事対立を解消する未来へ向けて、要塞基地・沖縄の非軍事化を追求し、県民の反戦平和の意思を重んじた政治家だった。
沖縄の非軍事化とアジアの緊張緩和
戦後77年・復帰50年の現在、依然として沖縄は軍事植民地だが、沖縄県民は屈することなく、基地のない平和で安心できる社会のために闘い続けている。
米国という強大な国家がアジア地域の支配を続けるために沖縄基地を手放そうとせず、日本政府が米国に追随して南西諸島の平和と沖縄県民の安全を全く考慮しない戦後政治外交の構造はいつまで続くのか。節操のない岸田内閣は、日米同盟の下とめどのない軍拡へと進み始めた。現在の5兆円余から倍増まで盛んに言われ始めた軍事費の大幅増、長距離射程のミサイルの南西諸島への配備、いっそうの武器輸出の推進、などにより、アジアの軍事緊張は高まり一触即発の戦争の危機が深まる。その結果、軍需産業はうるおい、株価が上がり、利権を持った政治家たちは得をすると思うかもしれないが、一般国民は福祉の切り捨てと重税、生活苦に陥り、南西諸島の住民は常に命と暮らしが脅かされることになる。
過去の日本の国の災いは常に、天皇と国家権力を掌握する政治家・官僚・軍人・経済人・学界・マスコミの有力者たちが起こしてきた。国家と国家の対立をあおって軍事をもてあそぶ彼らに任していては国の災いが大きくなるばかりだ。ゴルバチョフさんと翁長さんの闘いから学ばなければならない。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(74)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する南風原町の大城さんは、20歳で鹿児島の45連隊に入隊し満州に出兵からソ連に抑留されシベリアで生活した様子を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。
「南風原町史第9巻戦争編本編『戦世の南風原~語るのこすつなぐ』(2013年)
大城誠光
「シベリア抑留体験」
私が出征したのは1941(昭和十六)年で満20歳の時でした。当時は、兵役に就く事への恐れはそれほどなく、本土を見てみたいという気持ちや、何よりも軍隊ではご飯を十分に食べることができるということだったので、食い気が先に立ちました。……私は鹿児島の45連隊に所属しました。……
1部隊は約4000名ほどで、鉄条網で囲われた1・5km四方の中に12の中隊がありました。まず、3か月間訓練を受け、それが終わるとそれぞれの部署に配属されました。それ以後は訓練はなく楽になりました。……
上からの命令により武装解除をして、指定された場所に集合させられ、そこから汽車に乗りました。……
抑留地には兵舎が不足していたので、自分たちの力で半地下のトタン葺きの丸太兵舎を手斧とノコギリだけを使って建設しました。そこではまず体力検査をされて、1級から4級までに分けられました。1級と2級は炭鉱労働で、3級は地上労働、そして最も体力が弱っている4級は労役なしでした。労働は、日本兵だけが働かされるのではなく、ソ連人労働者と日本兵が一緒になって働いていました。ソ連人はなるべく日本兵を働かせようとしていましたが、日本兵は適当に手を抜きながら仕事をしていました。炭鉱労働は3交代8時間勤務で1班2班が掘削をして3班がワゴンへの積み込みをしました。運搬には馬車を使っていました。
地上労働は水道工事などで、深さ4mほどの溝を掘る作業でした。ソ連人6~7人のグループに日本兵が6~7名加わって仕事をしていました。日本人同士の会話の内容といえば、毎日帰る話ばかりでした。
抑留地での食事は、1日に黒パン200gとスープ1杯。たまにチーズやバターがありました。しかし、食糧を運んでくる列車の到着が遅れると食事はなくなり、栄養失調状態になりました。遅れていた食糧が届くとまとめて配給されるので、今度は食べきれずに捨てることさえありました。
シベリアの冬は確かに厳しかったのですが、作業中に凍え死ぬほどではなく、室内には石炭ストーブがあって暖かかった。ただ、抑留地の水は劣悪で生水をそのまま飲むことはできませんでした。なかには赤痢にかかって死ぬ人もいました。診療所には薬がほとんどなく塩水で済ますことすらありました。抑留中に一割の日本兵が死亡しています。(『照屋が語る沖縄戦』1994年)
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