9・22辺野古座り込み3000日行動に200人

必ず辺野古新基地建設を阻止する

沖縄報告 9月25日

沖縄 K・S

 玉城デニー知事を再選した知事選挙(9月11日)は、県民のゆるぎない辺野古新基地反対!の意思を改めて明らかにした。基地受け入れの代償として中央政府から施される沖縄関連予算の獲得ではなく、基地のない平和で安心できる沖縄県に向かって子どもの貧困や教育、経済発展と所得向上に取り組んでいくという政治の方向を選択したのである。この県民の意思は、賛否が拮抗している状態ではなく、常に大差で継続的に示されてきた不変の意思だ。ところがまたもや、岸田政権は官房長官や防衛相をはじめオオム返しに「辺野古唯一」を繰り返すのみだ。故翁長知事はこれを「政治の堕落」と呼んだのである。

県知事選の結果を受けた本土紙の社説


 県知事選の結果を受けた本土各紙の社説を見出しのみだが紹介しよう。

毎日新聞「国は『アメとムチ』脱却を」
朝日新聞「県民の意思は明らかだ」
日本経済新聞「安保論議へ県民の民意は重い」
西日本新聞「復帰50年の不条理解消を」
東京新聞「民意と誠実に向き合え」
中国新聞「首相は民意受け止めよ」
北海道新聞「辺野古拒否の民意明白」
河北新報「辺野古反対、民意に向き合え」
信濃毎日新聞「国の不条理認めぬ声を」
京都新聞「政府は対話へと歩み寄れ」
読売新聞「不毛な対立を国と続けるのか」

 残念ながら、政府側に立つ読売新聞の論調だけが異なる。他はみな民意の尊重を訴えており、県民の側に立っている。

岸田内閣の三匹のムジナによる自作自演


 沖縄県は、大浦湾の軟弱地盤の地盤改良工事を主な内容とする埋立設計変更を不承認処分としたことと合わせて、大浦湾の小型サンゴと大型サンゴ・ショウガサンゴ計約8万4000群体の移植を不許可処分としたが、沖縄防衛局は9月20日、サンゴ移植不許可処分に対し、野村哲郎農水相に行政不服審査法に基づく審査請求を行った。斎藤鉄夫国交相が今年4月に、防衛相による大浦湾の軟弱地盤の埋立設計変更申請を認めるよう沖縄県に対し出した「是正の指示」に続くものである。
 同じ内閣の防衛相に国交相、さらに農水相と、「同じ穴の二匹のムジナ」どころか、ムジナが三匹になって、自作自演の違法行為を繰り返しているのだ。行政不服審査法は、行政に対する私人の救済を目的としたもので、政府の地方自治体に対する政策の押し付けに利用されるべきものではない。安倍から続く自公政府は、法の解釈と利用が手前勝手、あまりにも露骨で強引だ。内閣府設置法を国葬の根拠とする牽強付会、何でも閣議決定で決めていく独善。かつて麻生が言ったように、自公政権はすでに十分「ナチスのやり口」をまねているようだ。
 玉城知事は当選後のインタビューで、辺野古新基地建設に反対して知事の行政権限を最大限行使すると共に、国連をはじめ国際社会に積極的に訴えていく考えを明らかにした。辺野古新基地建設をめぐる政治的な力関係を世界レベルで変えていこうというこの考えに県民の多くは賛同するだろう。また、9月25日には、基地と沖縄の未来を若者と考える県主催のシンポジウムが那覇市内で開かれ、宜野湾出身のタレントりゅうちぇるさんらが、玉城デニー知事と議論した。2004年の沖縄国際大への米軍ヘリコプター墜落事故を目撃したというりゅうちぇるさんは、「上空をグルグルと変な動きをして急に止まって落ちた。心から怖いと思った」と証言した。
 浜田防衛相は9月21日、就任後初めて与那国町を訪問し陸自駐屯地を視察した。与那国には、陸自沿岸監視隊や空自の警戒隊など約200人が駐屯しており、来年度には電子戦部隊が配備予定だ。台湾から100キロ余りの国境の島は「抑止力」を口実とした要塞基地と化しつつある。さらに、有事を前提とした避難シェルターの宮古・八重山・与那国への設置計画が出てきた。有事になれば島嶼は全滅する。自然と人々の生活は根こそぎ破壊される。沖縄戦で血と涙と共にいやというほど身に染みた悲惨な体験を再び繰り返そうというのか! 沖縄を再び戦場にしてはならない。

3000日発し続けられた沖縄の声をきけ!


 辺野古新基地に反対するキャンプ・シュワブゲート前の座り込みは9月22日で3000日になった。ゲート前には約200人、いつにもまして多くの参加者が結集した。沖縄選出の国会議員(伊波洋一参院議員、高良鉄美参院議員、赤嶺政賢衆院議員、屋良朝博前衆院議員)も駆け付け、「辺野古の闘いは専制政治に屈しない民主主義と抵抗の国民的シンボルになっている」などと激励するあいさつを行った。
 ダンプが出入りする工事用ゲート前では12時の2回目搬入に約100人、午後2時半の3回目には約50人の座り込みが行われた。「辺野古NO!」「命どぅ宝」のプラカードを持ち、決意表明やシュプレヒコール、歌で元気いっぱい、粘り強い不服従の強い姿勢を示した。政府防衛局が頼るのは警察機動隊の物理力のみ。整然たる座り込みを排除し、2回目約50台のダンプと生コン車、3回目は約30台のダンプなどを入れた。
 辺野古の座り込みは、沖縄防衛局が陸上部分の工事に着手した8年前の2014年の7月に始まった。新型コロナ感染症が蔓延し、組織的な運動が中断する中でも有志をはじめ自主的な行動が一日も休むことなく続けられた。まさしく、県民の揺るがぬ意思を象徴するものだ。この間、3度の県知事選、辺野古県民投票、衆参議院選挙を通じて、県民は常に「辺野古埋立ストップ!新基地反対!」の意思を示し続けてきたのである。
この日のゲート前には県外からの参加者もいた。大阪の中学校教諭で、ドキュメンタリー映画『教育と愛国』にインタビュー出演した平井美津子さんが次のように発言した。
 「中学校の教科書では、沖縄戦のことはたった6行しか書かれていない。これでは沖縄戦のことは分からない。私は基地が集中する沖縄の現状を子供たちに伝え、沖縄戦は終わっていないと教えたい」。
 沖縄から全国へ発信され広がっていくことが、政府の横暴を止める大きな力になっていく。さらに強くさらに大きく発信しよう。沖縄は軍事基地の島であることを拒否する。サンゴの海、亜熱帯の森を子どもたちに残し、必ず基地のない平和な島にするのだ。

避難シェルターではなく、
戦争を未然に防止せよ!


 9月21日の昼と夕の2回、県庁前広場で「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」が主催する「避難シェルターいらない!ミサイル基地いらない!緊急集会」が開かれ、約100人が参加した。
 日本政府はアメリカと一体となって、対中国の戦争準備態勢を加速させている。敵基地攻撃能力(反撃能力)を具現化する長射程ミサイル1500発の南西諸島などへの配備、台湾有事による沖縄の戦場化を前提とした避難シェルター設置構想が表面化した。県民は沖縄が戦場となった77年前の沖縄戦と当時の避難シェルターともいうべきガマ(自然洞くつ)で起きた日本軍による暴力を想起すると共に、沖縄を戦場にさせない平和外交こそ必要だと声をあげている。
 9月18日は、関東軍が謀略により満州事変をフレームアップし満州国をつくりあげ中国侵略へと突き進んだ柳条湖事件(1931年)の日だ。この事件は日中戦争・アジア太平洋戦争の15年の始まりとなった。9月29日は、田中首相と大平外相が訪中し周恩来首相と直会談して日中共同声明を出し国交回復に道を開いた日(1972年)だ。この9月の2つの記念日を振り返り、日本政府の誤まった日米同盟の下の軍拡政策を止めなければならない。
 琉球新報(2022年9月25日)が1面で報じたところによると、日本の軍事費はこの5年間で40兆円に達する見込みだという。5年間の平均で約1・5倍、最終年度には現在の5兆円余の2倍に膨れ上がる。安倍・菅・岸田の10年間に、GDP、為替レート、賃金、教育予算、報道の自由度など多くの面で、日本は後退した。さらにこの先5年間、日米同盟のもとアメリカの指示に従って軍事優先政策をとり続ければ、外には軍事対立の緊張激化、内には福祉切り捨て・増税・生活苦がいっそう押しかかる。
 自公に政権を任せておいて大丈夫なのか。もう瀬戸際に来ているのではないか。安倍の国葬と旧統一教会の問題で暴かれた自民党政治の実態に対する追及を徹底し、これまでの政治の在り方を根本から変革しなければならない。沖縄に続き、本来の政治の主人公たる国民が全国津々浦々で声をあげよう。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(75)
日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する南風原町の花城さんは、熊本の第6師団に所属して満州のハイラルに配属された後、フィリピンを経てマレー半島に移動し、その地で捕虜となった経験を詳しく証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。

南風原町史第9巻戦争編本編『戦世の南風原~語るのこすつなぐ』(2013年)
花城清喜
「海外出征兵士の体験」


 昭和17年1月、長男が誕生したばかりであった。適齢(20才)で熊本の陸軍歩兵部隊に入隊、そこで軍人としての訓練を3か月受けた後、満州のハイラル(ソ連との国境近く)へ配属された。満州での任務はソ連に対する防備であった。ノモンハン事件の後ということもあり、当時の関東軍は片目や片耳の人が多く、激戦だったことを感じさせた。ハイラルに約1年ほどいたが、マイナス40度近くで行われる冬季演習での寒さは、痛いという感じの寒さであった。演習後、兵舎にもどると暖かい空気に触れた銃身が真っ白になっていた。
 雪中行進では凍傷による被害が大勢でたが、暖かい所から来て寒さに弱そうな沖縄出身の兵士に意外と凍傷が少ないと言われてめずらしがられた。……
 昭和18年夏、完全武装でハイラルからどこへ行くかも知らないまま移動させられた。韓国の釜山までは列車で、そこからさらに貨物船でフィリピンへ、ミンダナオ島で部隊は再編成され、マレー半島へと移動した。移動途中の貨物船の中は、700~800名の兵士の熱気で蒸し風呂状態であった。……
 部隊がコタバル湾に集結していると、水平線から戦艦「大和」と「武蔵」が8隻の駆逐艦とともにやってきた。はじめて見る「大和」は近づくとすごく大きく、8階建てのビルの高さくらいあったと思う。艦橋にいる人が小さく見え、動くまで人と分からないくらいであった。荷を降ろすのに1週間かかった。その時、主砲や装備を見て、こんな戦艦を持っていれば日本は負けるわけがないと強く感じたものだ。
 ある日、物資を運搬中、夜が明けたので隠れていると、すぐ近くに敵の潜水艦が浮上していた。上官らしき兵士が出てきたので、撃とうかと議論したが、しばらくすると潜水艦は姿を消した。中隊にもどると、中隊長が隊員を集めて「銃についている菊の御紋を消しなさい」と命令した。これまでは銃に傷をつけただけでも殴られたのに、こんな命令を出すようでは「日本は負けたのだなぁー」と感じた。
 マレー半島にいた日本兵はクアラルンプールの捕虜収容所に集結させられ、英軍の兵士に銃や兵器をとり上げられた。そこで、沖縄全滅のことを知った。中隊長が気の毒に思ったのか、自分の故郷の栃木へ来いと誘ってくれた。
 しばらくは英軍の物資を船で運搬する作業を手伝った。英軍の倉庫は豊富で、水までも缶詰に入っていた。これらの食糧や兵器の違いに「よくこんな敵を相手に戦争したものだ」と痛感した。
 また、捕虜収容所では階級がなくなったため、上官への仕返しがひどく、いざこざが絶えなかった。殺人事件まで起こった。帰国する引揚げ船のなかで殺されて海に投げ出された人もいた。日本の近くまで行って降りる人数を数えたら、乗った人数と合わなかったため、マレーシアに引き返してきた船もあったらしい。……
 今思うと、もっと早く日本は降伏しておればよかったと痛感する。そうすれば、沖縄戦も広島・長崎もなかったからだ。最近の国際情勢をみても、民族紛争のように、戦争という重大な過ちを犯していることをとても悲しく思う。体験者として戦争ほど愚かなことはないと強く訴えたい。

2022.9.22 キャンプ・シュワブゲート前座り込み3000日行動。
2022.9.16 ひやみかち・うまんちゅの会八重瀬支部の知事選勝利の集い。
2022.9.21 琉球セメント安和桟橋。

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