千葉で起きた事件から考える
関東大震災と朝鮮人らの虐殺から99年
100周年に向けた課題は何か
【千葉】9月11日、千葉県八千代市高津で「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会(千葉実行委員会)」地元自治会高津区特別委員会、慰霊碑を設置し会場を提供する観音寺の3者で「九九周年慰霊祭」が行われ、約50人が参加した。千葉実行委員会は震災から60周年に『いわれなく殺された人びとー関東大震災と朝鮮人』(青木書店)を著し、この製作までに千葉県内外で多くの基礎資料をもとに真相調査を重ね、虐殺地周辺の住民の聞き取り調査だけではなく、犠牲者遺族や韓国・朝鮮の民族団体や宗教団体、市民団体などとも共同し、慰霊碑などの建立などを平和活動の一環として行ってきた。そして来年に向け、『新版ーいわれなく殺された人びと』の刊行が県内研究者や学生らも参加して準備されている。この八千代市で継続されてきた活動以外の県内の朝鮮人犠牲者追悼のためのようすを簡単に紹介し、来年の100周年に向けた課題を考える。 (向井)
「検見川事件」
殺された〝日本人〟たち
秋田・三重・沖縄出身の3人が地元自警団らによって殺害された、いわゆる「検見川事件」がある。2017年11月4日の琉球新報Web版では、千葉県在住のジャーナリスト安田浩一さんの話として次のように報じている。
……検見川事件は大震災発生から4日後の23年9月5日、現在の千葉市内で発生した。同年10月17日付「報知新聞」によると、犠牲者は「沖縄県中頭郡潰太村×××」ら3人となっている。東京から避難の途中、地元の青年でつくる自警団員30人余りに囲まれ、こん棒や日本刀で「めちゃめちゃに惨殺」されたという。伊江島出身の島袋和幸さん(東京都)は30年ほど前から検見川事件を調べてきた。犠牲になった3人は沖縄、秋田、三重の出身だった。自警団に捕らえられた際、言葉のなまりから朝鮮人と決めつけられたと分析する……
安田浩一さんのウェブマガジン「ノンフィクションの筆圧」では「報知新聞」記事の画像が貼り付けられ、そこには「三名の避難民を/青年団が虐殺/警察の証明まで持った者を/検見川の惨事」と見出しがある。記事では「警察署の身元証明迄も出して哀訴懇願するもきかず」と読める。
関東大震災では、一般住民の加害者を「自警団」とよぶが、当時もその呼称はあったろうが、多くは事件後の報道などの字数制限などで、さまざまな加害者を簡略化して「自警団」と報じたのだろう。
翌6日に、香川県から千葉県東葛飾郡野田町(現野田市)に行商に来ていた一行15人が、茨城に転地する途中の福田村(現野田市)で、隣接する田中村(現柏市)の「自警団」に襲撃され、幼児や妊婦を含む9人が殺害された。『柏市史年表』には「(1923年)3月20日、松戸警察署、国民警察機関としての保安組合設置を管内町村長に達す」とある。
殺害に使われた凶器に「鳶口(とびぐち)」がある。鳶口の呼び名の由来は、江戸時代の町火消がとび職を中心に組織されており、現在でも丸太などの木材の移動、木造の建築物の解体に使用されることもある。自警団の多くは青年団であったり、消防組を兼ねるものも多く、海外侵略に駆り出された在郷軍人などで構成された。当時の国家警察は、こうした在郷の青年らを治安組織に組み入れようとしていた時期だったとも言えるだろう。
消防組とは別に1930年に「防護団」が設立。防護団は法令に基づくものではなく市町村長によって任意に設置される団体で、消防組員が兼務していることが多く、1939年には警防団令が公布され、消防組と防護団を合体させた警防団が発足、敗戦時まで在郷では消防が治安警察の指揮下にあったと考えられる。
部落差別と「福田村事件」
福田村事件は千葉実行委員会の調査により、遺族に真相の一部が伝わった。調査が全国新聞の記事になり、追悼を続けてきた遺族に伝わった。この遺族は、事件で生き残った被害者の証言から、おおよその概要は聞いていたが、詳細までは知ることができなかった。この報道を知り、遺族は千葉実行委員会に問い合わせ、現場周辺を案内してもらう。
千葉実行委員会には県内の研究者や教員らで作る歴史教育協議会(歴教協)が加わっており、香川の同会に調査を依頼する。この調査をもとに、生き残った被害者の生の証言をえられ、遺族から手記の存在を知らされ、一次的な資料も得られた。合わせて、被害者は被差別部落の出身で、同地の多くの人が行商に従事していた。被差別部落であったことで、事件当時に当局の保護が不十分で、補償も得られず、慰霊のてだても奪われた。同地域には部落解放同盟が組織されており、真相調査と追悼事業は香川と千葉の解放同盟を軸にすすめられることになる。事件から80年目の2003年9月、事件現場の近くに慰霊碑が建立、目的の一つが達せられ、真相調査も事実上止まっていた。
この追悼事業の報道を映画監督で作家の森達也さんが知り、独自に調査と映画化を模索し続けてきた。このことを記した著書を読んだシンガーソングライターで翻訳家の中川五郎さんが楽曲「1923年福田村の虐殺」をつくった。この歌を聞いた別の映画関係者も映画化を考えはじめ、森監督の構想を知り、共同で事件100年目の2023年9月公開に向け映画『福田村事件(仮)』の製作がはじまった。
映画製作にあたっては、香川と千葉で追悼を続けてきた市民らが地元の案内などを通じて協力をしてきた。しかし製作が進行すると状況も変化し、「寝た子を起こすな」と映画化を歓迎しない声も出てきた。その理由のひとつが、『部落地名総鑑』の再刊とウェブ公開しようとして訴えられ、昨年9月に「違法」判決を受けた示現舎(じげんしゃ)が、映画製作費のためのクラウドファンディングの告知日の前日、事件犠牲者・被害者の出身地を取材した動画と記事をウェブ公開。個人情報がわかる文章・写真・動画をさらされた地元では、行政を通じて法務局に削除させる手続きを行った。
被害、加害の地元では、「映画関係者の中に、この事件を利用して自分の考えを表現したいだけの者がいるのではないか」という疑念が生まれたようだ。
「誤認説」に反対する追悼慰霊碑保存会
福田村追悼慰霊碑保存会の会長の市川正廣さんはこの間、現地案内をする際に「誤認説に反対しています」とタイトルをつけた資料を参加者に渡している。冒頭部分を以下に紹介する。
「朝鮮人と疑って~」「朝鮮人と間違って~」「朝鮮人と誤認して~」と、いろいろありますが、私たちはこの「誤認説」に反対です。
「誤認説」は犠牲者の追悼にならず、加害者の都合の良い言い訳(方便)と考えます。
犠牲者側は、全く何の理由もなく殺害を受けたわけです。
加害者が裁判などで、この言い訳を強調したのは、罪の軽減を図るためのものでした。
「誤認説」は「朝鮮人」ならば殺していいのかと、なりませんか。
聞き慣れぬ、「讃岐弁説」は、こじつけ理由ではありませんか。
身分証明の、薬行商鑑札(香川県交付)を示し「日本人」であることを訴えました。
前記のように、解放同盟関係による真相調査が止まるが、「福田村事件を心に刻む会」事務局長だった市川さんは保存会として香川県側と連絡を取り合い、追悼の継続と人権問題として啓発を続けてきた。現地フィールドワークでは、3000人以上を案内してきたという。
市川さんらの活動とは別に、2003年までに調査した「真相」をもとに、著作物が発売され、著者の独自の見解などが付け足されるようになる。「讃岐弁説」は、事件後にこじつけられたもので、創作の部だ。事実が捻じ曲げられた著作や示現舎のアウティングがあり、こうした傾向が映画製作によって拡大することを保存会は危惧している。
99年前の事件現場にいたら、自分だったら加害者側にいたのか、被害者側にいたのか、あるいは傍観者、止めようとした人、どんな立場だったのだろう。歴史に「もしも」はないし、「マルクス主義者」らしくはないが、節目の100年目を前に、こう考えざるをえない。
八千代市の観音寺には、韓国の仏教界や市民らのカンパで建立(1985年?)された慰霊塔と梵鐘がある。これらは2003年以来補修しておらず、瓦がずれ、塗装も色あせてきた。韓国では再びカンパを集め、来年の100周年慰霊祭までに補修するため、カンパを集めている。目標額は6661万ウォン。この金額は、本紙前号で紹介されている当時の上海の大韓民国臨時政府の機関紙『独立新聞』社長の金承学の調査した朝鮮人犠牲者数である。これに中国人、日本人(琉球処分後なので沖縄を含む)などが加わる。保存会では、朝鮮人だけではなく中国人、日本人も殺害されていることを「複合的差別事件」と表現している。他にも、かつての調査の主力が日本共産党支持者が主体の歴教協であり、距離感があることなどの課題も交差している。「マルクス主義者」が「慰霊とはナンセンス」という見方もあるだろう。
99年前の証言には、妊婦の腹を裂く、女性器に竹やりを突き刺すなどの記述もある。いまも続く戦時性暴力と同じであり、ジェノサイドと認識する以外にはない。近代天皇制と日本帝国主義によるジェノサイドとして、国際的にも認知されなければならない課題である。

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