沖縄報告 日本政府は南西諸島で軍事をもてあそぶな!
沖縄は平和外交の要になりたい
沖縄 K・S 10月9日
沖縄戦の始まり10・10空襲
多くの沖縄県民は沖縄戦の記憶と共に暮らしている。78年前の1944年10月10日は、沖縄戦の始まりを告げた10・10空襲の日だ。この日、沖縄近海に進出した米機動艦隊は、早朝から夕方にかけて計5波、延べ約1400機にのぼる艦載機による沖縄各地に対する空襲を行った。飛行場、港湾施設、軍の弾薬・食糧など、日本軍の被害は莫大であるばかりでなく、各地の人家・学校・病院が炎上(11451戸)。とくに那覇の被害が大きく、90%が全焼・全壊した。死傷者は軍民合わせて668人の死者を含み約1500人にのぼった。
10・10空襲は沖縄戦の悲劇の前哨である。牛島司令官と長参謀長の第32軍(沖縄守備軍)は10月10日に軍首脳部を集めて大掛かりな図上演習を予定していて、前日の9日夜は那覇・辻の料亭に各地の軍司令官たちを集めて宴会を開いていた。米軍機動艦隊が沖縄に迫っていることを全く知らなかった。10・10空襲により壊滅的打撃をこうむった日本軍は、沖縄周辺の制海権・制空権を失なった状態で、兵員・軍備いっさいの補充のないまま、「60万県民の総決起。軍官民共生共死の一体化」のスローガンの下、海の孤島と化した沖縄での絶望的な戦争に沖縄県民を総動員していき、取り返しのつかない戦争被害をもたらした。
沖縄タイムス2022年10月9日に、「毎年、10月になると燃え上がる那覇の街を思いだす」という、当時9歳の宮城シゲ子さんの体験談が掲載されている。シゲ子さんの父はテニアンで戦死、学徒隊の兄は戦後数年して結核で死亡、高校生の頃、母も病死し、姉が懸命に働いて生活を支えてくれたという。
戦争はもうこりごり、絶対にやってはいけないというのは沖縄県民の総意だ。日本政府は「台湾有事」をあおり沖縄の島々で軍事をもてあそぶことを止めよ! 中国軍に対抗する南西諸島を舞台にしたミサイル配備と沖縄の軍事要塞化を中止せよ! 沖縄を軍事基地とミサイルの要から非武装と平和の要に! 「非武装平和の島々」として、沖縄はアジアの平和の架け橋、中国・台湾・南北朝鮮の国々との平和外交の要になりたいのだ。
本部塩川港・安和桟橋で連日の抗議
本部の土砂を辺野古に運ぶな! 埋立を中止せよ!
辺野古新基地反対!の意思表示を県民が重ねて行なった県知事選挙のあとも、本部塩川港・琉球セメント安和桟橋から辺野古への土砂搬出は猛烈な勢いで進められている。2つの港からの土砂搬出は、1日当たり10トンダンプの数にして1500台前後にのぼる。岸田政権の閣僚や官僚たちには、県知事選挙で示された県民の意思を尊重するという議会制民主主義のあたりまえの考えが全くない。鉄面皮な人たちだ。本部塩川港と琉球セメント安和桟橋には連日、本部島ぐるみ会議を中心にして、全県各地から少人数だが、早朝から日暮れまで土砂を運搬するダンプに対し、手をあげあいさつし、「土砂を運ぶな!」「埋立に協力するな!」と訴えながら牛歩の行動を続けている。
雨の日も風の日も炎天下でも変わりなく、ひたすら辺野古の海に投入される土砂の速度を落とすために行動することは根気がいる。時には運転席からVサインを送ってくれたり、信号待ちに丁寧に応じてくれるダンプもあるが、中には乱暴に突っ込んできたり、血相を変えて怒鳴り散らす運転手もいる。それでも、宮沢賢治の詩の中の人のように、決して怒らず淡々と、埋め立て中止の訴えをやりぬくのである。
国家権力が本気になって強行する国策に立ち向かうことは、例えれば、象に蟻、巨石に卵のようなものかもしれないが、「雨垂れ石を穿つ」のことわざ通り、継続と蓄積が不動のものと思われた国策を止める力になる。
10月5日水曜日の塩川・安和行動には、南風原・南城・八重瀬など島ぐるみ南部のメンバーと普天間爆音、集まれ辺野古などが結集した。塩川のベルトコンベアー2基は先週木曜日から故障して、ダンプが直接台船に土砂を積み込み、台船が沖合で運搬船に積み替える作業を行った。
また、安和では相変わらず、採石場からの右折、直進、遠回りしての左折の3方面からの進入で、桟橋ゲート前の交差点は一触即発の危険極まりない状態が続いた。ゲートの中から沖縄防衛局の職員は「通行妨害をしないでください」と声を張り上げているが、実際のところは、左折や直進など無理な搬入をあえて強行する結果、交通事故の危険と一般車両の通行妨害を創り出しているのである。ゲート前の行動は、沖縄防衛局のマイクを圧倒するスピーカーで、「沖縄を返せ」「島人の宝」「五月のパリ」「岩のように」などの歌を流すと共に、代わるがわるマイクを手に、新基地反対!埋立やめろ!土砂をいれるな!と訴え続けた。
10・1辺野古ゲート前県民大行動に750人
玉城デニー知事が新基地阻止! を訴え
10月1日(土)午前11時から、米海兵隊キャンプ・シュワブゲート前で、オール沖縄会議主催による県民大行動が行われ、全県各地から750人が結集した。第1土曜日のゲート前県民大行動は6月以来だ。10月とはいえ昼の日差しが強く、参加者の多くはテントの中に入り集会に臨んだ。
進行役は山城博治さん(オール沖縄会議現地闘争部会長)。「座り込めここへ」の歌のあと、高里鈴代さん(オール沖縄会議共同代表)が、「今日は4カ月ぶりの県民大行動だ。国のひどい仕打ちに対し県民はオール沖縄に結集し意思を示してきた。豊見城市長選、那覇市長選に勝ち、オール沖縄が弱体化していないことを示そう」と訴えた。
玉城デニー知事は「二期目が昨日からスタートした。辺野古をつくらせないとの決意を新たにしている。普天間飛行場は人の住んでいない所に造られただとか、沖縄は特別に振興予算を多くもらっているというフェイクがまかり通っているが、沖縄の現状をしっかりと伝え、基地集中を打ち破って77年前の捨て石の悲劇を繰り返さないために全力を尽くしたい」とアピールした。そのあと、メモを手に、政府との裁判「抗告訴訟」について県の立場を説明し「勝つことはあきらめないこと」と支援を訴えた。最後に、夫人の千恵子さんも紹介され、山城さんの掛け声に合わせ、参加者全員で、「辺野古新基地建設NO!」「知事の不承認支持!」のプラカードを掲げた。
そのあと、今年6月の参院選で二期目の当選をした伊波洋一さん、県議会与党会派を代表して「ティーダ平和ネット」の当山勝利さん(浦添市区)、那覇市長選の予定候補で、前県議の翁長雄治さんがあいさつした。翁長さんは、「辺野古の問題は名護市だけの問題ではない。どこに住んでいようが関係がある。子ども達を取り巻く環境を大人たちがどう作り上げるのか、次の世代に何を残していくのか。玉城デニー知事と手を携えて、子ども達に誇れる那覇市をつくりあげて行く」とアピールした。
各地域からの決意が続いた。普天間爆音訴訟団の新垣清涼さん、国の違法を許さない住民訴訟の会の浦島悦子さん、豊見城島ぐるみ会議の新田宣明さん、うるま市島ぐるみ会議の宮城事務局長、9月11日の村長選挙で当選した大宜見村(おおぎみそん)の友寄景善村長がマイクをとった。友寄村長は、「大宜見村に基地はないが他人ごとではない。先日2人目の孫が生まれた。基地のない、戦争のない、平和な社会を築くことが一番のプレゼントだ。辺野古新基地を断念させるまで頑張りぬく」と訴え、ひときわ大きな拍手を受けた。
現地闘争部の部長代行の瀬長和男さん(統一連)は、「一週間に一度、一カ月に一度でもいい、現地に足を運んでほしい。あきらめず、現場の闘いを強力に続けていこう」と呼びかけた。締めくくりに、「今こそ立ち上がろう」を全員で力強く歌った。
10・4千葉さん裁判の口頭弁論
海保側が準備書面と動画を提出
10月4日午後、那覇地裁で、海保の高速ボートに衝突され負傷した千葉和夫さんの国家賠償請求裁判の口頭弁論が開かれ、次回期日を来年の1月19日と決めて閉廷した。これに先立ち、海保側は準備書面と動画を提出したが、その要点は、①衝突はしたが軽微である、②千葉さんは歩いて救急車に乗った、③カヌーは台船に向かっていた、などというものである。
そのあと、裁判所向かいの城岳公園で、報告集会が開かれ、千葉さん本人、支援する会の鈴木公子さん、スタッフの西川さん・大畑さん、弁護団の松永弁護士らが裁判にかける思いを語った。
千葉さん事件の構図は単純だ。国家権力の執行機関が過ちを犯したにもかかわらず自らの非を決して認めようとしないということである。内容は異なるが、名古屋の入管当局が、収容中のスリランカ人女性・ウィシュマさんの死に対し責任逃れを続けているのと同じである。国家が民衆からかけ離れたところに位置している。根気強くめげない闘いを続ける以外ない。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(76)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する南風原町(はえばるちょう)の金城さんは、福岡の12師団に所属して満州へ出兵し、発病して帰国する経過を証言している。引用は原文通り、補足は〔 〕、省略は……で示した。
南風原町史第9巻戦争編本編『戦世の南風原~語るのこすつなぐ』(2013年)
金城愛吉「二度の出征について」
昭和12年、20才になった私は、その当時の成人男子の義務であった徴兵検査を受けることになりました。私を合わせて10名ほどが神里の区長に連れられ、与那原のとある学校で検査を受け、体格のよかった私は甲種に合格しました。……
昭和13年、日本が盧溝橋事件に端を発する日中戦争のまっただ中、私は12師団歩兵第14連隊に所属することが決まり、同年1月10日に福岡県の小倉に赴くことになりました。出発の前には部落をあげての送別会があり、ヤギをつぶしてお祝いをしました。出発当日には字の青年団が稲嶺駅まで見送りに来て「♪勝って来るぞと勇ましく……」の歌で私を送り出しました。親戚も当時としては大金の20銭ずつの餞別を私にくれました。那覇港から家族に見送られて小倉へと向かいました。……
4月に訓練が終わり、私は満州に赴くことになりました。博多から旅順〔リューシュン〕に渡り、汽車の荷台に乗って、一週間かけてロシアとの国境である大河の近くにある大城子に行きました。ほかにも牡丹江、小城子という所に行きました。大城子や小城子では主に国境警備にあたっておりました。国境である大河の向こう岸に同じように国境警備をしているロシア兵の姿を見ることができました。満州での月給は7円20銭ほどで、小倉にいた時が1円80銭でしたから、当時としては大金でした。給与の用途を金銭出納簿に記入して、収支と残高の検査を上官に受けなければならず面倒でした。
満州の零下40度にもなる寒さのため、多くの人が病気になったりしましたが、私も7月頃に胸に水のたまる病気をわずらい、穆棱〔ムーリン〕陸軍病院に入院してしまいました。医師が胸にたまった水を注射器で取り除くのが痛くてたまりませんでした。その後ハルビン、旅順と転地療養を重ね、昭和14年2月か3月頃日本に帰って来ました。佐賀で療養していましたが、健康を取り戻すと再び小倉で訓練をしたり、新参の補充兵を指導したりして残る任期を過ごしました。昭和16年8月20日、入隊から2年8か月目にして満期除隊となり、私は沖縄に戻ることになりました。そしてまた以前のように家族とともに農業をしながら暮らす生活に戻ったのです。
昭和19年、私は28才になっていました。……沖縄守備軍は現地召集を行ない、防衛隊を編成しました。9月10日、私も赤紙と呼ばれる召集令状を受けとり、再び戦場に赴くことになりました。
……〔戦争が終り〕
私はすぐさまイモ掘り作業にまぎれて大見武収容所に行きました。そこで、家族との再会を果たすことができました。しかし残念なことに二男が病死していたのです。私が防衛隊に入隊してから約1年半の月日がたっておりました。それから間もなく私たちは神里に戻ることを許されましたが、神里には一軒の家も残っておらず、一面の焼け野原でした。両親は帰らぬ人となり、私たちは米軍の金網を使って家を建て直すとともに、一から生活を立て直さなければなりませんでした。
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