自立発展のための独立行政の確立を
出口調査によると、辺野古反対が59・5%
沖縄報告 10月23日
沖縄 K・S
那覇市長選挙
オール沖縄の翁長雄治候補が敗北という残念な結果
10月23日投開票の那覇市長選は、オール沖縄から立候補し、立民・共産・れいわ・社大・社民・にぬふぁぶしの推薦を受けた翁長雄治(たけはる)候補が、自公の支持を受けた知念覚(さとる)候補に約1万票差で敗北した。地元紙は、「オール沖縄の牙城に穴」「城間氏後継指名が転機」(タイムス)、「オール沖縄自壊」「暮らし再建期待」(新報)と報じた。他方、4人が立った同日の那覇市議補欠選挙では、翁長雄治候補とセットを組んだ永山盛太郎候補が5万1318票(51・8%)を得て当選した。
開票結果は次の通り(選管最終)。9月11日投開票の県知事選挙の那覇選挙区と比較してみよう。
【那覇市長選挙】
有権者数 25万3833人
投票者数 11万9423人
投票率 47・05%
翁長雄治 5万4125
(45・8%)
知念覚 6万4165
(54・2%)
【県知事選挙の那覇選挙区】
有権者数 25万5440人
投票数 13万7757人
投票率 53・97%
玉城デニー 7万2688
(53・3%)
佐喜真淳 4万7925
(35・1%)
下地幹郎 1万5775
(11・6%)
この1カ月余りで有権者数は1607人減少した。投票率は7%近く、投票者の実数にして1万8334人減少した。知念候補の得票が、知事選での佐喜真、下地両候補の得票合計に相当するのに対し、翁長候補の得票は知事選での玉城デニー票から約1万8500票減らした。これは投票数の減少分にほぼ相当する。投票率の低下は翁長候補の得票の低下に直結した。
基地受け入れと引き換えの経済振興は砂上の楼閣
東アジアの軍事緊張激化でひとたまりもなく崩壊する
知念候補は、故翁長雄志知事の市長時代からの側近と言われ、翁長市長を受け継いだ城間幹子那覇市長2期8年の副市長だった。ひやみかちうまんちゅの会会長として玉城デニー知事の選挙運動を進めた城間市長は、今回の市長選告示間近になって、自民・公明の推薦で立候補した知念候補を自らの後継として支持する態度表明を行った。メディアは「オール沖縄の分裂」「故翁長知事の身内対決」などと書き立てた。多くの市民は混乱し疑問をもったまま選挙の意義を見失い投票を取りやめたのである。
知念候補の主張の中心は「即戦力となる行政手腕」であった。辺野古新基地建設に対しては、「国と県との係争を見守る名護市長の立場を尊重」、辺野古県民投票については「日米両政府に尊重を求める」、玉城県政と岸田政府に対しては是々非々と、もっぱら国との対立を避けながらいかにうまく那覇市の行政を運営するのかを訴えた。これこそまさに政府が求めていることなのである。国策を強行する政府と地域の民主主義と人権を求める市民という本当の対決構図は後景に退き、行政運営という側面が前面に出た。
沖縄タイムスが実施した出口調査によると、①辺野古反対が59・8%、容認は34・5%、②9月の知事選で投票したのは玉城デニー56・5%、③そのうち今回の投票先は、翁長76・8%、知念23・2%、④重視した政策は「経済振興」32・2%、「基地問題」21・8%、であったという。県民の総意が依然、辺野古NO!であっても、市民の日常生活により密着した市町村レベルの自治体選挙では、経済が優先順位のトップを占め、国から交付金を多くとりうる行政手腕へと投票基準が移っていく。
10月22日の県庁前集会で、れいわの山本代表が述べたように、「国がポンコツでも市長が市民の生活を守るために自立した行政をできる」のだ。国策の遂行を前提として国に頼る旧態依然の地域の経済発展ではなく、国策の強行を拒否し沖縄の自立発展のための独自行政を確立しなければ、基地のない沖縄の未来を描くことはできない。
天皇制国家の侵略と暴力の歴史を振り返る
「天皇の軍隊」と「天皇の警察」の暴力に対する徹底的な究明を!
国外での侵略戦争には国内での締め付けが伴なう。明治維新で成立した天皇制国家は日本列島から四方へ、沖縄、台湾、朝鮮、中国大陸、北方、小笠原等へと軍事的膨張を遂げていくと共に、国内においては、天皇を頂点とする軍事警察国家をつくりあげていった。大日本帝国憲法をはじめ、教育勅語、軍人勅諭、選挙権と抱き合わせの治安維持法など、天皇を現人神とするカルト的支配を進めたのである。侵略と暴力を正当化する「神国日本」のイデオロギー教育が徹底された。
旧統一教会の実態がこの間全国の様々なメディアを通じて明らかになってきているが、戦前の日本こそまさに、天皇を万世一系の神と称え一切の批判を許さず、天皇のためならば侵略・殺人・拷問などすべてが合理化される「カルト社会」であった。中国侵略の「天皇の軍隊」が行った殺戮・略奪・放火・強かんの数々の有様は正視できないような残酷さに満ちている。他方、「天皇の警察」による反戦・反政府とみなされた団体・個人に対する執拗で過酷な暴力には果てがない。
関東大震災における朝鮮人・中国人・労組活動家の殺害、大杉栄・伊藤野枝・橘少年の惨殺、治安維持法による数万人にのぼる犠牲などを振り返ると、日本社会はいわば過去に頬かむりしたままで、いまだ過去の過ちを省みて正すことをしていない。日本社会が一人ひとりの人権に配慮した社会に発展するためにはこのままでいい筈がない。
今回は、鋭い言葉の刃で権力者に立ち向かい1930年代を走り抜いた、反戦川柳作家・鶴彬を取り上げてみたい。
言葉の刃で権力者に立ち向かった、反戦川柳作家・鶴彬
中国大陸への日本軍の派兵は、1932年の満州国建国宣言と1937年の盧溝橋事件を経て急拡大したが、国内では、「普通選挙」と共に施行された治安維持法による弾圧が反戦・非戦の声を沈黙させた。伊藤千代子など1600人が逮捕された1928年3月15日の全国一斉検挙、4月16日をはじめ一年で約5千人が検挙された1929年など、言論・出版・結社の自由と人権はことごとく踏みにじられた。窒息しそうなその暗い時代に、鶴彬(つるあきら)、本名=喜多一二(きたかつじ)は川柳を武器に反戦反弾圧の意志を貫き通した。
1937(昭和12)年11月15日発行『川柳人』通巻第281号に掲載された最後の一連の作品を紹介しよう。
高粱の実のりへ戦車と靴の鋲
屍のゐないニュース映画で勇ましい
出征の門標があってがらんどうの小店
万歳とあげて行った手を大陸において来た
手と足をもいだ丸太にしてかへし
胎内の動き知るころ骨がつき
1937年11月といえば、大本営が設置された時だ。そして12月1日に南京攻撃命令が下され、20万をこえる日本軍が南京に殺到し、南京城陥落、さらに、南京大虐殺の6週間に続く。国中が排外主義に染まり、戦果に酔いしれて提灯行列をしている時に、鶴彬は、冷徹な目で戦争をとらえ、侵略された国の民衆の苦しみや出兵した一般兵士とその家族の悲哀を書いた。
鶴彬は12月3日、治安維持法違反を理由に特高警察に逮捕され、『川柳人』は発禁処分となった。そして、拘留されたまま重病になり翌年9月、29歳の若さで死亡した。死因は赤痢とのことだが、元731部隊の伝染病棟の医師であった湯浅謙さんは、「留置場で赤痢で死亡することは特異だ。特高関係について真相は依然闇の中」と語っているという。
「川柳というジャンルを守るのは、短歌や俳句の追随しえない風刺的レアリズムを愛するからである」と、鶴彬は述べている。日本が米国の対中軍事政策に従って再び軍拡の道を突き進もうとしている今、鋭い言葉の刃で権力者に立ち向かった鶴彬の生涯と彼の作品はあらためて光を放って見える。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(77)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する豊見城村の運天さんは、1943年、相浦海兵団に入団し重巡洋艦『那智』乗組員となり、フィリピンのレイテ海戦ののち台湾を経て帰還するまでの様子を詳しく証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。
『豊見城村史』第6巻「戦争編」(2001年)
運天信成
「レイテ海敗戦からの生還」
「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」の言葉どおり戦後五十年平和が続き、物が豊かになるにつれ戦争の悲惨さが今忘れ去られようとしている。戦争は瞬時に多くの尊い命や財産を失う、このようなことが再びあってはならない。
昭和六年満州事変勃発。日支事変、太平洋戦争と続き、軍国主義教育を受けた私は十七年に海軍水兵に志願した。翌十八年四月相浦海兵団に入団、十月に重巡洋艦那智乗組員となった。
那智は一万トン級の重巡洋艦で、第5艦隊司令艦であり、装備は目をみはるばかりであった。アッツ島沖海戦や第1次キスカ撤退作戦のあとで第5艦隊は北方警備の任務についていた。私の艦内での配置は第2砲塔の旋回伝令で楽な場所であったが艦内勤務は厳しかった。
那智は昭和三年に建造され、十年、十五年と改装されたが主砲身取替と対空火器取り付けのため十九年になってドック入りした。三か月余りで改装をおえ、佐世保港を出て瀬戸内海の柱島に待機、戦況は日々悪化し、九月末第5艦隊も南方に出撃することになった。
十月末にルソン島東方海上に到着。艦長から「米軍はレイテ島上陸のため機動部隊はレイテ湾に集結しており、これを第3艦隊が沖合に誘導し、第2艦隊と第5艦隊が双方から挟み撃ちにし、米機動部隊をせん滅する作戦であり、連合艦隊の命運、帝国興廃はこの海戦で決する」と告げられた。
夜に入って第5艦隊はレイテ島めざして出撃、スリガオ海峡に入ったところ、真っ暗闇の島影から米軍の水雷艇が機銃掃射をしながら艦に魚雷を発射。これをかわし、レイテ湾に近づいたところ「敵艦が火災になっておる」が、しばらくして火柱を噴き上げているのは戦艦山城であることが分かった。
連合艦隊は米軍の罠にはまり、レイテ湾に敵機動部隊はなく、もぬけの殻であったとの事であった。間もなく航行不能になった重巡最上と那智が衝突、艦の前部が大破し、応急修理のためマニラ湾に退避した。
十一月五日午前八時、マニラ湾に停泊していた那智に米空軍の大編隊が爆撃を開始、艦は応戦しながら湾外に出て反撃した。しかし艦と戦闘機ではあまりにも差があり、爆雷撃を無数に受け航行不能となった。単装機銃以外の火器は全く使用不能となり、私たちが上甲板に出たら、そこにいた兵士は爆弾や機銃掃射で撃たれ、甲板は血の海となっていた。
艦内が雷撃で浸水し、上甲板と海面が水平になり、全く反撃できない艦に米軍機の攻撃は激しさを増した。兵士は倒れ、艦は真っ二つに割れ、大音響とともに沈没。私たちは必死になって艦を離れた。振り返って見ると、艦の姿はなく、海面から空の高さまで黒煙が噴き上げていた。
米軍機は艦が沈んだ後も泳いでいる兵士に低空飛行で機銃掃射をくり返していた。この日一日といっても僅か五時間あまりで那智乗組員793名の(第二復員局調べ)若い命が失われた。
レイテ、マニラ両海戦で沈没した各艦艇の生き残った兵士がサントス丸に乗船して十一月二十四日、マニラ湾を出港、日本へ帰国することになった。沖合に出た後は左右に護衛艦がついての航海であった。
バンタリン、バシーの両海峡は米潜水艦が出没し、危険海域になっての護衛だったと思われる。バブヤン諸島近くから日が暮れたので「夜は島陰に停泊し、明るくなってから航海してくれれば」と気になっていたが、船は航海を続けていた。
夜も更けてバシー海峡を通る頃、護衛艦の一隻が魚雷攻撃を受け爆沈、続いて二隻目も沈没。次はサントス丸かと思う間もなく、前部に魚雷攻撃を受け船尾を上にあっという間に沈没。私は真っ暗闇の海上で船から遠ざかるため泳いだ。
夜が明けると十数人が一団となって泳いでいたが、時がたつにつれ一人減り二人減りして陽が高く上った頃は数人だけが大海原に浮いていた。陽が西に傾いた頃友軍の偵察機が上空を旋回していたので手を振り助けを求めたが去って行った。私は「必ず救助される」と確信をもって浮いていた。日が暮れる頃海防艦に救助された。
一昼夜も泳いだので疲れ切って眠かったが「寝込んでしまうと死ぬ」といわれ我慢していた。が、いつの間にか寝てしまい、夜明けに「台湾が見える」と聞かされた。正午前に高雄港に着き、警備隊に収容された。今回の遭難で那智乗組員の死没者は196名(第二復員局調べ)との事である。フィリピン群島は最大の激戦地で日本兵の戦死者は47万6千人余といわれる。
那智生存者は高雄警備隊勤務となり、二十年のお正月を迎え、お互いの健在を喜びあった。
軍隊は何の生産手段もなく朝から晩まで殺人を指導し、戦争になり多数の人(敵)を殺した者が英雄としてあがめられる。このようなことがない様に思うこの頃である。
週刊かけはし
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