沖縄報告:第7回世界ウチナーンチュ大会/11・5沖縄県民大行動

基地のない沖縄に向って固い絆

沖縄報告 11月6日

沖縄 K・S

海外20カ国1地域から2345人が結集

全国一の移民県という抑圧の歴史を世界的抵抗の基盤へ

 多くの国民は知らないだろうが、10月30日は「世界のウチナーンチュの日」だ。2016年の第6回世界ウチナーンチュ大会の閉会式で、大会実行委員会長を務めた故翁長雄志知事が宣言して制定されたものである。
 10月30日午後、国際通りでの華やかな前夜祭パレードで幕を開けた第7回世界ウチナーンチュ大会は、11月3日、那覇市の沖縄セルラースタジアムでの閉会式・グランドフィナーレで4日間にわたる日程の幕を閉じた。第7回大会は当初、昨年に予定されていたが、コロナの世界的感染拡大のため、日程を一年延期して今年の開催となったものである。世界各国からの派遣は、7000人を超えた6年前からはかなり少なくなったが、事前登録した海外20カ国1地域の2345人がルーツをたどって沖縄に集まった。
 4日間の会期中、歓迎レセプション、開会式、各種ステージ、ワークショップ、出展・出店、各市町村での交流など、多彩なプログラムが実施された。玉城デニー知事は閉会式で、「私たちはウチナーネットワークという固い絆で結ばれた家族だ。ユイマール(助け合い)、ヒヤミカチ(困難に打ち勝つ精神)、チムグクル(心)、命どぅ宝といった沖縄の心をつなぎ、世界中から戦争の恐怖を取り除くことができるよう、対話と共存を求めて頑張っていこう」と呼びかけた。
 また、ウチナージュニアスタディ―に参加した平田菜乃華さんと知念パブロ明さんは「私たちウチナーンチュは目に見えない固い絆で結ばれています。……私たちウチナーンチュは柔らかな心を持っています。だから、どこにいても〝平和の緩衝”の役割を担うことができます。私たちウチナーンチュは強い心を持っています。だからどこにいても〝困難を乗り越える”ことができます。私たちの祖先が〝万国津梁の精神”で海を越えたあの日からずっと。そしてこれからもずっと」との大会メッセージを発表した。

2022.10.30 国際通り。世界ウチナーンチュ大会の前夜祭パレード。インドネシアからやってきた人々

日本の支配のゆえに沖縄は有数の移民県となった

 いま世界各地に散らばっている2~4世のウチナーンチュは約42万人と言われている。最も多いのが南米で、ブラジル約16万3000人、ペルー約7万2000人、アルゼンチン約1万6400人、ボリビア約7000人など、次に北米で、ハワイを含め米国約10万5000人、カナダ約2000人、メキシコ約1000人、キューバ約250人など、アジアはフィリピン約1800人、グアム250人、中国200人余、シンガポール100人足らず、タイと韓国各50人、台湾35人など、ヨーロッパには、ドイツ80人余、フランス60人、イギリス35人、スペイン10人余、少数だがアフリカにも、ザンビア20人と、海外の沖縄人社会は5大陸に広がっている。
 なぜ沖縄に海外移民が多いのか。初めての海外移民は1899年、27人がハワイに渡り、サトウキビ農業に従事した。そのあと、金武村(きんそん)をはじめ全県各地から北米、南米への移民が続いた。沖縄県によると、1899年から1938年の移住者数は7万2134人であり、1940年当時の沖縄県の人口(57万4579人)比で、県民の約12%が移住したことになる。明治政府による琉球併合の進展の中で生活基盤を破壊された県民は、主に阪神工業地帯での製紙・紡績への出稼ぎと共に、海外で稼いで沖縄の家族を支えるため多くの人が続々と海外に移民したのだ。海外では、日系人に対する差別・さらに沖縄に対する差別をはね返し、言葉・習慣・芸能など沖縄の文化・伝統を守りながら移民国の土地に溶け込み生活基盤を確立して代を継いできた。
 そして戦後、沖縄戦の破壊と米軍政支配に直面し、沖縄での生活が困難になった人々は海外へと向かった。1950年に朝鮮戦争が勃発した後、米軍は、牧港住宅地区、那覇海軍補助施設、キャンプ・ズケラン、伊江島爆撃訓練場などの造成・拡張のため、銃剣とブルドーザーによる新たな強制収用を行った。土地を奪われた人びとがやむなく海外移民の道を選んだ。国際協力事業団の「海外移住統計」によると、1952年~1993年の都道府県別移住者数は全体で7万3035人、内訳は一位沖縄県7227人、二位東京都6002人、三位福岡県4536人、四位北海道4487人、五位熊本県4454人、六位長崎県3877人、七位高知県2723人、八位鹿児島県2618人、九位福島県2616人、十位神奈川県2364人となっている。沖縄県は全体の約1割を占める。
 沖縄は戦前も戦後も全国有数の移民県なのである。その結果、20世紀から21世紀へ世紀をまたいで生き抜く誇り高いウチナーンチュたちのネットワークが、沖縄に146万人、世界に約42万人をむすんで築かれることになった。5年に一度開かれる世界ウチナーンチュ大会はその確認と発信の場だと言ってよい。

ウチナーネットワークの力を沖縄の非軍事化へ


 今後、沖縄はどこに向かうのか。母親が沖縄県久米島出身の作家・評論家の佐藤優さんは、池上彰さんとの共著『大世界史』(文春新書)で「大日本帝国は滅びましたが、現代の日本も、均質な国民国家ではなく、沖縄という外部領域を持つ『帝国』であるという視点が必要です」と述べている。沖縄は、薩摩の琉球侵攻と明治の琉球併合を経て日本の一部とされたが、屈服し同化されたのではない。むしろ同化されずに成長を遂げて今なお「外部領域」として存在し、独自の政治的文化的発信を続けている。
 世界ウチナーンチュ大会は、琉球・沖縄の独自の歴史・文化・芸能などを共有すると共に、「万国津梁」の沖縄、平和の架け橋としての沖縄の将来像を共通の価値観として確認しあう場となった。米国に追従する日本政府の「南西諸島」軍事要塞化・軍事植民地支配を拒絶し非軍事化により平和を保障するという道は、大国間の無意味な対立のはざまで生き延びる小さな島々の人々の知恵であると共に、武力による紛争を避けて国と国との共存を実現する国際平和共存の未来へのさきがけを意味する。
 危機の深化に伴ない国家権力の暴力性が露わになっていく。日本の保守政権が民主主義の仮面をかなぐり捨て暴力的な側面をいっそう強めるような事態になれば、沖縄との対決はさらに深まる以外にない。世界のウチナーネットワークは沖縄の平和の未来への闘争において重要な力になるだろう。

辺野古県民大行動に766人
辺野古新基地はつくらせない!つくれない!


 11月5日(土)米海兵隊キャンプ・シュワブゲート前で、10月に続き、オール沖縄会議主催による第1土曜日辺野古県民大行動が行われた。全国からの参加者を含め各地から766人が結集し、辺野古新基地反対!埋立ストップ!と声をあげた。
 午前11時から始まった集会は、はじめに糸数慶子さん(オール沖縄共同代表)の開会のあいさつが行われた。さらに玉城デニー知事のメッセージ、那覇市長選の立候補者・翁長雄治さんのあいさつが続いた。翁長さんは「市長選応援の礼を述べたい。これまでの人生で最上の経験だった。のど元過ぎれば熱さ忘れるのことわざがあるが、これからも沖縄の未来を切り開くために力を尽くしたい」と決意を語った。
 福元勇司事務局長は、県民民意を顧みず強行され続けている辺野古新基地建設の中止を求める国会請願運動を提起し、署名への協力を呼び掛けた。いつも通り、沖縄選出の国会議員(衆院の赤嶺政賢さん・新垣邦男さん、参院の伊波洋一さん・高良鉄美さん)は全員参加し、代表して高良さんが発言した。高良さんは「世界のウチナーンチュは沖縄を祖国と呼んでいる。辺野古の基地建設は世界のウチナーンチュにとっても許されることではない。沖縄復帰50年の今年、下地島の軍事利用などの動きが露骨になっている。軍事利用を許さない」と訴えた。
 県議会与党会派を代表して、仲村未央さん(立憲おきなわ、沖縄市区選出)が「与那国空港の軍事利用が計画されている。台湾有事が沖縄有事であってはならない」と述べた。各団体のあいさつが続いた。平和市民連絡会の上間芳子さんは「8年前、このゲート前で闘いが始まった。大きな集会は大事だが、毎日の行動をどうしていくのか。辺野古ゲート前の搬入、安和の土砂搬出を現場で止める闘いを根気強く継続しなければならない。国家権力より1日でも長く頑張りぬけば基地建設を止めることができる」と檄を飛ばした。ヘリ基地反対協議会の東恩納琢磨(名護市議)さんは「国に対し裁判で闘う玉城知事を支える意味でも名護住民訴訟をやりぬく。防衛省が私人などというおかしいことを通用させてはならない」と訴えた。
 南部からは南風原町島ぐるみの玉城さん、中部からはうるま市島ぐるみの宮城さん、北部からは名護市島ぐるみの翁長久美子市議がそれぞれ決意を表明した。翁長さんは「本日午後2時から名護島ぐるみの総会を開く。玉城デニー知事の講演もある」と参加を呼び掛けた。
 統一連の瀬長さんの現場結集の訴えのあと、稲嶺進さん(オール沖縄会議共同代表)が「沖縄は米軍が直接支配する軍事植民地から、日本復帰によって国内植民地になってしまった。先人たちのように一歩一歩闘いを進め権利を獲得しよう。あきらめたら負け。闘いを積み重ね必ず勝利へ」と述べ、ガンバロウ三唱を行った。参加者は辺野古新基地はつくらせない!つくれない!との決意を新たにし帰路についた。

2022.11.5 キャンプ・シュワブゲート前。第一土曜日辺野古県民大行動に766人。 辺野古新基地NO!

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(78)
日本軍による戦争の赤裸々な描写


 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する豊見城村の大城さんは、1936年に中国へ出兵して満3年間従軍、その後帰還が取り消され南方へ派兵され、ブーゲンビルで終戦を迎え米軍の捕虜となった体験を詳しく証言している。引用は原文通り、補足は〔 〕、省略は……で示した。

『豊見城村史』第6巻「戦争編」(2001年)
大城秀雄「私の戦争体験記」


 私は昭和十四年に満二十歳で徴兵検査をうけて、兵役で中支へ出征した。アメリカとの戦争はなく支那事変の最中だった。自分たちが中支に行ってから大東亜戦争が始まった。……
 出征する前夜は家族だけで送別会をやって、特別なことはしなかった。出征する当日は公民館の所に集まって、字民の見送りはあった。
 最初は熊本の13連隊に入ってから、中国戦線に行った。九州全体で第6師団という大きい部隊だった。熊本には一か月くらいいて、訓練を受けて、すぐ中支の戦地へ行かされた。中国は当時、北支・中支・南支とあった。
 私たちが駐留したのは武昌〔ウーチャン〕・漢口〔ハンコウ〕で、揚子江を隔てて自分たちの側が武昌、対岸が漢口だった。そこは名高い「武漢山地」といっていた。自分たちは武昌から6師団の本部があった黒竜江省の富錦(フキン)に行き、さらにヨウロウドウという所に派遣された。中国との戦いがあった。
 そこに満三年いた。それから昭和十八年の正月前に、師団から凱旋の命令が下って、 一応は解散し家に帰りなさいと命令が出た。ところが、上海に来てから凱旋の命令は取り消され、今度は南方に行くようにと夏服が支給された。これはおかしいなと思ったが、結局6師団は南方に行くことになった。
 貨物船で南方に向かう途中、台湾沖で昭和十八年の正月を迎えた。船には護衛艦は付いていなく、魚雷にやられないように、ジグザグの航路をとったために一か月もかかった。その間、風呂にも入れないからスコール(雨) が降るのを待って、体をふいた。
 6師団は南洋のブーゲンビル島に上陸した。ブーゲンビル島では物資の後方輸送もないため、食物もなくて、木の実、雑草でも何でも食べた。たくさんの兵隊がいたわけで、食物が無くて大変だった。この島は沖縄本島よりやや大きい島だったが、色の黒い地元住民が少しいるぐらいだった。
 ブーゲンビル島では、相当の人数を失った。戦死と戦病死だ。軍医さんはいるけど、手の施しようがなかった。薬も僅かしかなかった。風土病のマラリアに多くの兵隊がかかった。相当ひどかった。風土病には熱帯潰瘍もある。できものができる、潰瘍だから腐っていく。薬もないからナイフでその部分をえぐり取る。麻酔もないから大変だった。多くの兵隊は潰瘍にかかった。自分もその時の傷が今でも両足に残っている。
 米の飯を食べたいと思った。弾にあたって死んだ人は少ないけど、栄養不良でバンバン倒れた。
 ブーゲンビル島での戦争は二か年続いた。昭和二十年に降伏して、アメリカの捕虜になった。柵に囲まれた収容所は無く、寝るのはそのまま地べただった。
 捕虜になってから、アメリカーがオートミルといって柔らかい食べ物を配給してくれた。捕虜になってから、ブーゲンビル島には三~四カ月くらいいて、それから神奈川県の浦賀港に日本の船でつれて来られた。
 ブーゲンビル島から日本へ連れていかれた人数は、はっきりは分からない。生き残ったほとんどの兵隊は、栄養不良のため船の手すりにつかまって上がれない状態だった。私はゆっくり、ゆっくり歩いて上った。……

週刊かけはし

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