日米共同統合演習「キーン・ソード」

沖縄戦の二の舞を避けなければならない

沖縄報告 11月20日

沖縄 K・S

沖縄を舞台とした対中国戦争の予行演習

 大規模な日米共同統合演習(米軍によるコードネームは「キーン・ソード(Keen Sword)23」)が11月10日から19日まで、自衛隊2万6000人、米軍約1万人、両軍の航空機約370機、空母を含む艦艇約30隻を動員して実施された。オーストラリア軍、カナダ軍、英軍も加え、NATO(北大西洋条約機構)軍もオブザーバーとして初めて参加した。
 10月21日、浜田防衛相が会見で発表した内容によると、「あらゆる事態に即応するための抑止力・対処力を強化するとともに、日米の強固な意思と連携を示すことで、わが国の防衛及び地域の平和と安全の確保に寄与していく」とのことだ。一言でいうと、「台湾有事」や「尖閣有事」を念頭に、武力攻撃かどうか判別が困難なグレーゾーン事態から「武力攻撃事態」に至るまでいかなる事態にも対応できる対中国戦争の予行演習であると言える。

中城湾港に自衛隊200人と車両73台が上陸
ゲート前の座り込みを警察機動隊が強制排除

 キーン・ソード自体はほぼ2年に1回実施され、今回で16回目となるが、今回の最大の特徴は公然と沖縄を舞台に民間の港湾・空港・道路も演習場所としたところにある。防衛省統合幕僚監部は演習の開始に備えて、事前に兵員・装備を輸送した。11月8日午前、民間チャーター船「はくおう」が鹿児島港―名瀬港を経て、県が管理する中城湾港に自衛隊員約200人、車両73両を陸揚げした。「はくおう」は民間チャーター船とはいっても、実は全長200m、最高速力30ノットの性能を保持する自衛隊・米軍専用の軍用輸送船である。
 8日朝、平和市民連絡会・うるまをはじめ各地の島ぐるみのメンバー約200人は、自衛隊員と装備の陸揚げに反対して、はくおうが接岸する岸壁前第4ゲートに結集した。ゲート前には、「沖縄を再び戦場にするな!」「日米共同統合演習を中止せよ!」「自衛隊は中城湾港の使用をやめよ」などの横断幕やプラカードがあふれた。
 陸揚げされた各種自衛隊車両は港の新港地区にズラリと並べられた。その光景は、民間港は有事には自衛隊が使用するという軍事優先の姿そのものであった。
 自衛隊車両の通行を阻止するためにゲート前に座り込んだ人々を警察機動隊が強制排除した後、自衛隊車両は長い列をつくって国道を南下し那覇基地など各地の自衛隊基地へ向かった。

中城湾港。日米共同統合演習に参加する自衛隊員と装備の上陸に抗議行動(11.8)
中城湾港。日米共同統合演習に参加する自衛隊員と装備の上陸に抗議行動。後ろが軍用輸送船はくおう(11.8)
中城湾港。日米共同統合演習に参加する自衛隊員約200人と車両73台が上陸(11.8)

台湾に最も近い島・与那国で日米両軍が戦術調整
陸自戦闘車が民間空港を使用し県道を走行

 与那国島では、防衛省が示した資料によると、自衛隊40人と米海兵隊40人による「日米連絡調整所」の設置訓練が行われ、通訳を交えて自衛隊員と海兵隊員が共同で作業する有様がテレビで放映された。米軍の与那国での訓練は初めてだ。琉球新報(11月19日付)によると、この合同訓練は米軍の発表では「二国間陸上戦術調整センター」と記述され、那覇、奄美、さらに熊本にも設置され、地図を見ながら戦術のすり合わせを行ったという。
 11月17日、県が管理する民間空港である与那国空港を使用して、陸上自衛隊の16式機動戦闘車(MCV)を九州から空輸する訓練が実施された。MCVは戦車である。違いはキャタピラーに変えてタイヤを装着しているため、道路上の移動がたやすいという点である。105ミリ砲を搭載する戦闘車はその後、地元住民の抗議を無視し、県道216号線をゆっくりと走って陸自与那国駐屯地に入った。この日の抗議行動には、与那国だけでなく石垣からも駆け付けた。MCVは翌日、陸自与那国駐屯地から与那国空港へ県道216号線を自走し、空自輸送機に積み込まれ離陸した。与那国に滞在したのはわずか1日に過ぎないが、県の管理する民間空港を使用して輸送し県道を自走するということ自体が実践的な予行演習だった。

南西諸島の軍事要塞化をもくろむ「防衛力強化に関する有識者会議」の妄想


 中城湾港や与那国空港だけではない。11月9日に官邸で開かれた「防衛力強化に関する有識者会議」によると、南西諸島の民間空港や港湾を軍事目的に使用することができるよう「特定重要拠点空港・港湾」に指定して整備に向けた予算を優先的に配分すると共に、平時から訓練などに使用できるよう施設の利用方針を改定していくという。とくに復帰にあたり、1971年に政府と県が締結した「屋良覚書」で軍事利用を排した下地島空港が狙われる。日米軍事一体化の下で、中国の脅威をあおる急ピッチの軍拡と共に、沖縄の軍事要塞化が急速に進んでいる。
 日本にとって沖縄とは何なのか。軍事のための道具なのか。南方の防衛の防波堤なのか。そうであるなら、戦前の天皇制国家により「帝国の南門」と呼ばれ日本本土防衛の盾とされたのと何も変わらない。その結果、沖縄戦の破滅に至った歴史を再び繰り返すのか。
 沖縄県行政の在り方もまた根本的に問われている。県は自衛隊による中城湾港・与那国空港の使用を認めた。本部半島の土砂を辺野古へ搬出する塩川港の防衛局による使用も認めている。辺野古新基地の埋立承認取り消しと撤回、政府との一連の裁判闘争、埋立変更申請の不承認、サンゴ移植の不許可、辺野古NO!の全国キャラバン、県ワシントン事務所を拠点とした米国に対する工作など、様々な行政努力を続けてきたことは敬意に値する。しかし、いま必要なことはもう一歩踏み出し、沖縄を戦争に導く一切のものに非協力を貫く頑固な反戦行政を実行すること、すなわち自治に内実を付与することである。沖縄県の行政権力を日本政府から独立して行使しなければならない。できる筈だ。基地も戦争も拒否するという県の「平和行政」を具体的に実行することにより、政府諸機関との大きな軋轢が生まれるだろうが、県民の結束で必ずはね返すことができるに違いない。

11・12沖縄のミサイル戦場化を許さない島々シンポジウム


 11月12日午後、沖縄市民会館で、ノーモア沖縄戦・命どぅ宝の会が主催して、南西諸島のミサイル基地化に反対するシンポジウムが開かれた。はじめに、小西誠さんが「中国へのミサイル攻撃基地と化す沖縄列島」と題して講演した。小西さんは結びで、「自衛隊の島嶼戦研究は、軍民混在の戦争で住民の避難は困難であると指摘している。住民保護は自衛隊の主任務ではない。有事の住民避難は不可能。かつて沖縄は1922年のワシントン条約ののち非武装地帯だった時期がある。先島諸島や琉球列島の住民は自らの命を守るため、ハーグ陸戦条約第25条に定められた〝無防備都市”に基づき、〝無防備地区”宣言をすべきだ」と訴えた。
 そのあと、山城博治さんを進行役として、与那国島の田里千代基さん(与那国町議)、宮古島の清水早子さん(ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会共同代表)、石垣島の内原英聡さん(石垣市議)、沖縄島の照屋寛之さん(うるま島ぐるみ会議共同代表)による提起が行われた。軍事要塞化が進む各島からの代表が一堂に会してのシンポジウムは初めての試みである。参加者は300人足らずであったが、シンポジウムの内容は小西さんの「無防備地区」の提起も合わせ、非常に充実していた。各島の運動が連携し協力して日米両政府に対抗する一つの大きな塊の抵抗体として立ち向かっていく足掛かりとなるものであった。

沖縄市民会館。沖縄のミサイル戦場化を許さない島々シンポジウム

八重瀬岳・与座岳の自衛隊フィールドワーク

 11月12日午前、島ぐるみ八重瀬と南城市の有志17人は、日米共同統合演習のさなか、八重瀬岳・与座岳にある陸自・空自3カ所をめぐるフィールドワークを実施した。県内の多くの自衛隊基地がそうであるように、八重瀬岳の陸自・空自の基地も、米軍政下、住民の土地を強制収用して米軍基地をつくり、復帰に伴い自衛隊に移管したものである。3カ所の自衛隊基地はいずれも、八重瀬町の東風平方面から糸満市の摩文仁に抜ける県道15号線の両側に布陣している。
 大里砕石東風平鉱山の後ろの崖にそびえるガメラレーダーの空自与座岳分屯地は米軍Xバンドレーダーと連動した通信情報基地である。ガメラは全国に、与座岳のほかに三沢、佐渡、奄美の3カ所しかない。陸自南与座分屯地は、高射教育訓練場で、今回の日米共同統合演習で、青森県から持ち込まれた地対艦ミサイルの展開訓練が行われた。対中国の地対艦ミサイル網は、「第一列島線」と命名され、台湾に連なる石垣・宮古・沖縄・奄美諸島をむすぶ琉球列島に展開される。第15高射特科連隊本部が置かれている陸自八重瀬分屯地は、ゲートに小銃を構えた衛兵が二人配置され、物々しい雰囲気を醸し出していた。
 南西諸島の自衛隊は米軍との一体化を進めながら急速に攻撃基地として増強されている。その実態を調査・把握し軍事問題に精通すると共に、沖縄の非軍事化へ向けた歩みを強めなければならない。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(79)
日本軍による戦争の赤裸々な描写


 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する具志川市(市町村合併でうるま市に)の銘苅(めかる)さんは、徴兵検査から出兵、輜重兵としての訓練、熊本第24連隊の中国大陸への派兵、沖縄から1000人の動員、上海での捕虜生活、帰還に至る経過を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『具志川市史』第5巻「戦争編 戦時体験Ⅱ」(2005年)

銘苅盛永

 昭和十三〔1938〕年五月頃、具志川尋常高等小学校で徴兵検査を受けた。検査後三か月ぐらいして、募集人の紹介でヤップのフハイス島へ行った。沖縄から出航して長崎で乗り換えて、フハイスに着いた。沖縄からたくさんいたが、赤道〔あかみち〕からは僕一人だった。燐鉱で半年ぐらい働き、十一月ぐらいに大阪の西淀川の民間の工場に行った。募集ではなく、行ってから探した。そこでは軍需工場に送られるドリルの芯を造っていた。
 大阪に住んでいても、沖縄に召集がきた。それで、昭和十四〔1939〕年四月から熊本で一か月間教育を受けた。射撃訓練もあり、毎日戦争訓練ばかりだった。私たちは輜重兵だから、朝から晩まで馬乗りの稽古だった。馬車を引っ張って、荷物を積んで歩く稽古が多かった。
 徴兵検査のとき第二乙といわれ、第一はすぐに合格で、私の場合は第二だが戦争が厳しくなって第一に変更され、現役よりも先に行った。……
 昭和十六〔1941〕年五月に第一線に行った。召集令状がきて、具志川からだいぶとられた。神田幸治さんと兼城英真さんに、もう一人いたけど名前は忘れている。赤道からは宮里朝明さんと大奥間の奥間さんに私の三名。
 赤道の見送りは、赤道モーグヮーでやっていたが、今は崩してなくなっている。部落の婦人会や青年が集まり、見送りは盛大だった。出発のとき千人針を持っていった。
 那覇の学校に集合し、波上宮に参拝して船に乗って出発した。具志川から行った人たちも全部召集兵。沖縄から千人ばかりだった。着いたところは熊本で第24連隊であった。名前が変わって西部24といっていた。……
 熊本には4、5日しかいなかった。五月頃に門司を出発して大連に行った。大連から汽車に放り込まれて、国境まで5日間。着いたところが東安省。それから鶏寧というところに行った。……
 国境警備に半年ばかりいて、帰ってきて上海の東京師団の1643部隊の獣医部に、昭和十七〔1942〕年転勤になった。戦争では馬が一番大事。任務は軍馬防疫廠という馬の病気を治すところである。馬を検査するだけだから、良馬療養所になっている。何百頭と馬がいて、そこは良馬ばっかりだから、治療は何十名といる獣医がやって、兵隊はえさをやったりするだけであった。
 軍馬防疫廠に二か月ばかりいて、それから第一線に行かされた。第一線は湖南作戦で日本軍も敵も相当被害が出た。私は第一線といっても、直接戦闘には出なかった。直接戦闘に出るのは歩兵だった。……
 前進、前進で四か月ばかり夜に行進した。一番辛かったのは水である。揚子江の真っ赤な水で食器を洗ったり、洗濯したり、飲みもした。大きいクリーク(支流)があって、あそこに水牛も人間も落ちて死んでいた。……
 寒さも暑さも知らんです。どんなに寒かろうが、雨が降ろうが毎晩行軍だった。見られたら飛行機でやられるから、昼は隠れて、夜に湖南から重慶に向かって行軍したが、僕らは柳州というところでストップした。B29爆撃機からの攻撃が激しくて前には進めなかった。……
 戦争が終わって、最後には上海に引き返した。みんな捕虜になって、大きい建物に放り込まれ、長い間座ったまま八か月間押し込められているだけだった。食事はあったが外に出られない。毎日ただ座ってばかりで、何もすることはない。仕事も何もなかった。
 船に乗るとき持っているものを全部取り上げられた。収容された建物は大きかったから、何万人と入っていたんじゃないかな。荷物は少しずつ返していた。日本に帰るのは翌年の五、六月ごろじゃなかったかと思う。上海から長崎の佐世保に着いた。……
 長崎に上陸した日に、500円と米一升をもらって解散し、行くのはどこでも自由である。……私は遅くに帰ってきた。昭和二十二〔1947〕年じゃなかったかと思う。……戦争中、お母さんと妹は、チジヌシーの下に小さい墓があってそこに避難していたという。父の盛友は私が子どものときに亡くなっていた。長男が私で、二男の盛孝は戦地から帰ってきて病気で亡くなり、三男の盛吉は防衛隊へ行き、豊見城で戦死したそうだ。……

週刊かけはし

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