11・21~22本部塩川港での集中行動

人が大勢集まれば、ダンプは止まる

沖縄報告 12月4日

沖縄 K・S

 11月21~22日の両日、辺野古埋立の土砂を搬出する本部(もとぶ)塩川港で、土砂搬出ダンプの運行を阻止する集中行動「塩川デイ」が実施された。主催は本部町島ぐるみ会議が呼びかけ団体となって結成された塩川デイ実行委員会。実行委員会では「塩川港からの土砂搬出を止めよう!」と次のように呼び掛けた。

 塩川デイ趣意書・抜粋

 「辺野古の海に今日も土砂が投入されていきます。あの透き通るような青い海に、赤い土が落とされています。沖縄がどんなに拒んでも、止めてほしいと頼んでも、埋め立て工事は続けられています。
 土砂が運び出されているのは、本部半島にある安和(あわ)桟橋と塩川港です。2017年12月から始まった塩川港の作業は、5年目に入りました。工事を少しでも遅らせたいという思いで、ダンプの前を横断する牛歩が続けられています。……
 コロナ禍の影響で抗議に来る人が少なくなる中、本部町島ぐるみ会議のメンバーは、毎日塩川港での抗議行動を続けています。地道な牛歩行動が、一日に約200台のダンプ(これは大型船一隻分ほどに相当します)を減らしています。こうした抗議行動や海上行動の結果、埋め立て工事は5年間で全体のわずか13%しか進んでいません。……
 「復帰」50年、半世紀が過ぎたというのに、沖縄は国策の犠牲を強いられ続けています。それでも私たちは負けないし、諦めません。……
 塩川港からの土砂搬出を止めましょう!」

2日間で延べ300人以上が参加
1日のダンプを約200台にとどめる


 本部塩川港は、土砂を採掘・搬出する琉球セメント安和鉱山の国道を挟んだすぐ海側に位置する。バースは6カ所、①②番・⑤⑥番が辺野古行き、③④番が離島行きとされており、港湾敷地内も大半が辺野古行によって占有される事態となっている。本部塩川港は本来沖縄県が管理する港だが、日本政府が振りかざす「平等の使用原則」の圧力に負けて、辺野古埋立に従事する一業者による事実上の独占状態を招いている。
2日間の塩川デイには、全県各地から延べ300人以上が参加した。辺野古の宿泊施設に泊まって現場に通う参加者たちもいた。参加者たちは港内の一車線道路で、ダンプの運転手にお辞儀をしたり手を挙げて合図を送ったあと、思い思いのプラカード、ノボリを手にゆっくり横断をくり返した。時折、傍らの歩道から参加者の吹くシャボン玉があふれるように飛んでくる。
 2日目には、初日にはなかった「離島」行のダンプが辺野古行きダンプの合間に入ってくるようになった。「離島」行は止めない。「お疲れさま」とあいさつしてそのまま通過させる。「辺野古」行だけを止める。数人の行動では通常、どんなにゆっくり歩いても5~6mの幅の道路を横断するのに数十秒とかからない。数の力は偉大だ。
 この日は数十人、時には百人もの人々が途切れることなく横断をくり返すため、ダンプは身動きできない。ゲート入り口から交差点の信号、そして国道に沿って長いダンプの行列ができた。すると間もなく、機動隊員を乗せた警察車両が3台到着入し規制を始めたが、港内のあちこちで行われる抗議行動を抑えることはできない。沖縄防衛局職員の「通行の邪魔をしないでください」とのハンドマイクに負けず、本部町島ぐるみのスピーカーからは、「牛歩は私たちの権利です。ゆっくり歩いて意思表示をしましょう」との檄がくり返し飛ぶ。解放感にあふれた阻止行動が終日展開された。
 11月21~22日の両日、ダンプによる一日の土砂搬出台数をともに200台にとどめた。大勢による非暴力直接行動の成果だ。各地からの参加者の感想をきくと、「楽しかった。また行きたい」という声が多く寄せられている。実行委員会では、引き続き第2、第3回目の塩川現地行動を計画するという。県民の意思を踏みにじる埋立工事を中止させるため、塩川港での土砂搬出阻止行動に全力で結集しよう!

2022.11.22 本部塩川港。11月21~22日の両日、延べ300人以上結集。塩川港の交差点に掲げられた横断幕。

2022.11.22 本部塩川港。11月21~22日の両日、延べ300人以上結集。大勢の非暴力直接行動のパワー。
2022.11.30 琉球セメント安和桟橋入口ゲート。たゆまない抗議が続く。

12・3辺野古ゲート前に550人
雨の中、新基地反対!埋立ストップ!の決意示す

 12月3日、恒例の第1土曜日辺野古県民大行動がキャンプ・シュワブゲート前で行われ、県内外から550人が集まった。沖縄でコロナが比較的おさまる中、10月、11月、12月と3カ月連続で実施することができた。2~3カ月に一度来沖し辺野古に通っている内田雅敏弁護士やほぼ2カ月に一度来沖し安和・塩川の現場に通う「あつまれ辺野古@関東」の福田さんの姿もあった。
 司会は平和運動センター事務局長の岸本喬さん。辺野古新基地建設断念を求める国会請願署名の取り組みを呼び掛けたあと、高里鈴代さん(オール沖縄会議共同代表)が「辺野古ゲート前の座り込みは9年目を迎えた。新基地建設は絶対に許さない。最後まで頑張りぬこう」と開会のあいさつをした。玉城デニー知事は「埋立変更申請を不承認にした判断に誤りはない。自治を守り抜く。辺野古・大浦湾を守り抜く」とのメッセージを寄せた。
 そのあと、沖縄選出の国会議員4人で構成する「うりずんの会」を代表して、伊波洋一参院議員が「沖縄は二度と戦場になってはならない。島ぐるみのみなさんと共に最後まで闘い抜く」と述べた。県議会与党会派を代表して、渡久地修さん(共産党)が「自公は敵基地攻撃能力の保有を確認した。これまでの専守防衛の大転換だ。アメリカの戦争に日本が巻き込まれる。77年前の沖縄戦の悲劇が繰り返されてはならない。沖縄を戦場にするな。捨て石にするな」とアピールした。
 その後、各市町村島ぐるみからの決意表明が続いた。はじめに本部町島ぐるみ会議共同代表で町議の仲宗根須磨子さんが「塩川デイでは、何もしなければ一日千台ものダンプが搬入されるところ、一日目203台、二日目238台に抑えることができた。人が集まれば搬入を遅らせることができる。今後も第2回、第3回と企画するので、結集してほしい」と呼びかけ、大きな拍手を受けた。島ぐるみ八重瀬の会事務局長は「本日は糸満島ぐるみと共に60人乗りの大型バスで参加した。先週の塩川集中行動には南城市島ぐるみと共にマイクロバスで参加した。塩川の闘いを全体の力でやりぬこう。闘いはこれからだ。万国津梁の沖縄、アジアの平和の架け橋・沖縄、米軍基地も自衛隊基地もない沖縄の実現のため、全力をつくそう」と訴えた。オール沖縄那覇の会の長堂登志子さんは「毎週定期的に、那覇の県庁前から辺野古へバスを運行している。安和・塩川にも行っている。塩川の行動は厳しい闘いだが、力を合わせて立ち向かおう」と辺野古・安和・塩川の現地行動への一層の結集を呼び掛けた。
 集会前から少し降り始めた雨が次第に激しさを増す中、与勝へのミサイル配備に反対する「ミサイル配備から命を守るうるま市民の会」共同代表の照屋大河県議、PFASなど米軍汚染の究明を続ける「有機フッ素化合物から市民の生命を守る連絡会」共同代表の桜井国俊沖大名誉教授の報告が行われた。
 さらに、現地闘争本部の山城博治さんの呼びかけ、「今こそ立ち上がろう」の歌声のあと、糸数慶子さん(オール沖縄会議共同代表)の閉会あいさつ・ガンバロー三唱で集会の幕を閉じた。参加者は激しい風雨の中、闘志を胸に帰途についた。

2022.12.3 キャンプ・シュワブ辺野古ゲート前。第一土曜日県民大行動。本部町島ぐるみの仲宗根須磨子さん。

ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会シンポジウム報告集
また「沖縄が戦場になる」って本当ですか?

 9月25日(日)午後、宜野湾市民会館で、「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」主催のシンポジウム「台湾有事・日米共同作戦の正体~メディアはどう闘うか」が開かれた。
 共同通信編集委員の石井暁さんによる基調講演に続いて、山城博治さんを進行役に、新垣毅さん(琉球新報報道本部長)、阿部岳さん(沖縄タイムス編集委員)、三上智恵さん(ジャーナリスト・映画監督)を加えたシンポジウムが行われた。
 その内容を収録した報告集が発行された。中身の濃い議論が盛られている。日米軍事一体化の内容に関し深く学習・理解するテキストとして広く利用してほしい。連絡先=ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会HP(http://nomore-okinawasen.org)Eメール(info@ nomore-okinawasen.org)

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(80)
日本軍による戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号から、『那覇市史』資料篇 第3巻8「市民の戦時・戦後体験記」(1981年)に掲載された9人の証言を順次紹介していきたい。
 まず今号で紹介するのは、比嘉亀吉さん。1941年、満州に派兵された比嘉さんは、1945年ソ連軍に拘束され、シベリアで三年間捕虜生活を送った。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

16『那覇市史』資料篇 第3巻8「市民の戦時・戦後体験記」(1981年)

比嘉亀吉「関東軍大演習に召集されて」


 わたしは、昭和十六〔1941〕年「関東軍大演習参加のため召集を命ず」という召集令状(赤紙)を受けて召集され、満州の警備に当たった。
 昭和二十〔1945〕年七月三十日付で陸軍兵長になったわたしは、満州では警備と訓練の繰り返しで抑留も含めて七年いた。だが、私たちは戦闘の経験はない。
 昭和二十年八月八日、ソ連軍がくるというので私たちは五人のグループをつくり、満州の牡丹江から馬で北朝鮮に越境した。北朝鮮にはうまく潜入したつもりだったが、北朝鮮の警備隊に捕まってしまった。
 牡丹江から馬で北朝鮮まで十日くらいかかった。翌日、ソ連軍に引き渡されたが、北朝鮮に一か月くらいいてシベリアに連れて行かれ、約三年間ソ連軍の捕虜になった。私たちの仕事は農場の手伝いで、朝は九時ごろから午後五時頃までの農作業できつくなかった。特別なノルマはなく、ソ連のブルドーザーで掘ったジャガイモを集めて選別をする作業が主で、それが部隊の食糧になった。
 ソ連軍の中尉は「ヤポンスキーはゲルマンがモスクワを包囲した時どうしてウラジオストックから攻撃してこなかったか、もし日本軍がウラジオストックから攻撃してくれば、ソ連軍は降参していたのに」と語っていた。ヤポンスキーは日本、ゲルマンはドイツのことである。ソ連軍の中尉とは捕虜収容所の所長で「日本海側のウラジオストックは隙だらけだった」ということを、わたしたちヤポンスキーに話していた。
 ソ連捕虜収容所の食事は米と粟のスープや黒パンだけで、肉やチーズ、バターもなかった。魚のくん製が時々あったが、食糧事情は良くなかった。ブルドーザーも列車の機関車も食糧の缶詰などもアメリカ製で、ソ連の製品は少なく、ソ連も物資が不足しているのだな、と感じられた。ソ連では食糧事情が悪くなり、栄養失調で死んでいく戦友も多く、夏よりも冬になると、零下40度くらいまで気温が下がったので死亡者も多かった。
 ソ連の捕虜収容所で悲惨だと思ったのは、満蒙開拓義勇軍という青少年たちの犠牲が多かったことで、高等小学校を卒業したばかりの十六、七歳の少年から徴兵検査前の二十歳までの青少年が多かった。彼らは栄養失調で死ぬ者が多く、死亡した死体は冬は外に出されてコチコチになり、私たちが収容所の外に出すと、ソ連軍がいつの間にかその死体を処理していた。寒さと栄養失調で毎日、五、六人くらい死んでいった。
 捕虜収容所はコンクリート造りで風が入らないので、暖房はないが寒さは何とかしのげた。そこではゲルマン(ドイツ)の捕虜たちも一緒だった。日本人の捕虜よりもドイツ人捕虜のほうがショボショボしていた。日本軍は、ソ連とは事実上の戦闘はなかったが、ドイツ軍はソ連と戦闘を経験したうえでの捕虜なので、ゲルマン兵は「三年したらもう一度ソ連のモスクワを攻めるんだ」といっていた。捕虜の作業も、日本人とドイツ人は区別され、日本人は零下25度まで、ドイツ人は零下30度まで作業をさせられた。
 戦闘をしたドイツ軍と、事実上戦闘をしなかった日本軍の捕虜に対して、ソ連軍はある程度の差別はしていたが、私たちのいた捕虜収容所では、捕虜虐待の事実はなかったと思う。ソ連軍の捕虜収容所の警備兵の話では「ゲルマンにはソ連はいじめられたが、ヤポンスキーにはいじめられなかった」と言っていた。だから捕虜生活は不自由ではあったが、それほど苦しくはなかった。毎年三月と九月には日本への帰還のデマが出てそれが三年も続いた。……

週刊かけはし

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