沖縄報告 米国の中国封じ込め政策への追随は愚かで不合理 対中平和外交を
南西諸島のミサイル基地を撤去しろ
沖縄 K・S 1月8日
安保関連3文書の閣議決定(12月16日)以来、軍拡の動きはすさまじい。陸自与那国駐屯地に、現在の沿岸警備隊に2023年度の電子戦部隊に加えて、ミサイル部隊の配備のための土地約18万平方メートルの取得費が計上された。司令部は那覇、石垣と同じく地下化される。12月22日吉田陸幕長は、沖縄市の陸自沖縄訓練場内に、弾薬・築城資材・部品などを事前集積する補給拠点を整備することを検討していると明らかにした。与那国・石垣・宮古・勝連のミサイル部隊と連動する。琉球新報2023年1月3日によれば、ミサイルの射程距離は4年後には1000㎞、2030年代には2000㎞、3000㎞とさらに伸びる。沖縄から1000㎞で上海、2000㎞で北京に到達する。本当に中国とミサイル戦争をするつもりなのか。
南西諸島をミサイル基地化し中国を東シナ海に封じ込めるというのはアメリカの軍事戦略だ。日本政府は、軍需産業と権力者たちを潤すだけで国民に何の利益も与えず、沖縄県民には災いだけをもたらすミサイル基地化を中止せよ。米中の軍事対決の最前線に置かれた沖縄はミサイルではなく対話を求める。反撃能力の保有に対し「国民的議論が尽くされていない」と述べていた玉城デニー知事は、政府に対し、ミサイル基地に反対する要請をする準備をしている。また、沖縄県は独自の平和外交を推進していくため、今年度、まず職員3人程度で「地域外交室」(仮称)を発足させることを決めた。玉城知事は年頭インタビューで、「沖縄は、琉球王国時代から600年以上地域間交流を続けてきた。私自身、中国・台湾・韓国を訪問し、緊張緩和に貢献したい。沖縄を平和の拠点としたい」と述べている。
南西諸島からミサイル基地を撤去し、アジアの平和のかけ橋としよう!
1月4日、魂魄の塔前に150人
戦没者遺骨の尊厳を守る集会の熱気
1月4日、糸満市米須の魂魄の塔前で、ガマフヤーの具志堅隆松さんと支援者の会主催による「戦没者遺骨の尊厳を守る集会」が開かれた。熊野鉱山の採掘を計画する沖縄土石工業が提出していた自然公園法に基づく届け出を昨年12月1日付で沖縄県が受理したため、受理から30日後の事業開始が可能になった。沖縄戦の遺族をはじめ集会参加者は遺骨の混じる土砂を採掘することへの強い危機感をあらわにした。糸満、南城、南風原、八重瀬など南部島ぐるみのメンバーは「戦没者遺骨の混じる土砂採取反対」「遺骨が眠る糸満の土で辺野古埋めるな」などと書いた横幕やポスターを広げてアピールした。
摩文仁一帯に響き渡る土砂採掘反対の声
はじめに、具志堅さんがあいさつに立ち、「戦没者の遺骨が残る土を辺野古に投入することは考えられない。業者の金もうけの権利と戦没者の尊厳・権利とどちらが大事なのか。人間の尊厳がかかっている」と訴えた。
北上田毅さん(平和市民連絡会)は経過と現状を解説し、「糸満市風景づくり条例や農地転用の手続きがまだ終わっていないので、直ちに採掘に入ることはできないが、県にはもう少し頑張って欲しかった。これらの手続きが整う前に業者が魂魄の塔前の里道を使って何らかの準備作業に入る可能性がある。みんなで止めよう」と話した。
そのあと具志堅さんが「言い残したことがある」とマイクを握り、「日米は、普天間基地の返還の代わりに辺野古新基地をつくるように、那覇軍港の返還の代わりに浦添軍港を新設しようとする。1月18日に対政府交渉を行う。沖縄が再び戦場になろうとしていることはたいへん恐ろしい。そうなればわれわれが戦没者遺骨になってしまう。ノーモア沖縄戦!一緒に声をあげてほしい」と呼び掛けた。
続いて、幼いころ沖縄戦を体験し遺族となった二人の女性が証言した。奥田千代さんは当時4歳、「摩文仁で両親が死亡し、遺骨も戻っていない。南部から一坪たりとも採掘することは許されない」と切々と訴えた。石原絹子さんは7歳の時戦争を体験し、父母兄弟姉妹全員を亡くし孤児となって戦後を生き抜いた体験を語り、「二度と戦争があってはならない」と述べた。
南部島ぐるみ、ノーモア沖縄戦・命どぅ宝の会などの発言のあと、海勢頭豊さんのギターと愛さんのヴァイオリンによる伴奏で「月桃の花」などを合唱した。海勢頭さんは歌の合間に「琉球列島から軍隊をなくすことは可能だ。日本を正し、アメリカを正そう」と語りかけた。島田善次牧師は閉会のあいさつで、「ウチナーンチュはやさしすぎる。もっと怒らなければいけない」と檄を飛ばした。
戦跡公園内の熊野鉱山の稼働に反対!
熊野鉱山の土砂採掘が明らかになったのは2年前だった。沖縄戦跡国定公園の一角の小高い緑地の斜面(東京の塔の反対側)で、重機による樹木伐採により地層の石灰岩がむき出しの状態になったのだ。
ガマフヤーの具志堅さんの数度にわたるハンスト、遺族をはじめ県民の強い懐疑と抗議の声の高まりを背景に、沖縄県は2021年5月、熊野鉱山の開発届に対し、自然公園法に基づく措置命令を出して採掘前の遺骨確認と県との協議を命じた。対して業者は、総務省の公害等調整委員会に県の措置命令の取り下げを求める裁定を申請し、審査が続けられた。ところが昨年6月、公調委の提案した「和解」に業者と共に県が応じたことにより、採掘再開へのレールが敷かれてしまった。
和解案の内容は、遺骨の事前調査・収集はなく、「遺骨が発見された時は半径5mの範囲で工事を2週間停止し、遺骨の調査・収集を認める」という、採掘優先を意味していた。沖縄土石工業はこの和解案に基づいて、12月1日、新たに掘採行為届出書を提出したのである。それによると、採掘期間は3年、石灰岩採掘のあとに残土を入れ植栽を施すとしている。同時に業者は、鉱山開発に伴う一連の形状変更行為届出書を提出した。その内容は、①採掘場から農道に至る鉱山道路を有川中将碑の横・シーガーアブの上につくりダンプが行き来する、②鉱山敷地外に、鉱山道路に沿って石・残土一時保管場所、洗車場、計量台、事務所、トイレ、駐車場などを設ける、③それらの合計面積は約2700平方メートル(鉱山面積の約半分)というものである。
ガマフヤーの具志堅さんと支援者の会が提出した質問・要望書に基づいて、12月28日に県の自然保護課長との交渉の場を持つことができた。しかし課長は、シーガーアブの崩落の危険、遺骨・遺品調査、鉱山敷地外の広大な残土置き場などの設置、戦跡にふさわしい景観などの諸問題に向き合うことなく、「自然公園法に基づいて対応する」と繰り返すのみだった。県は公調委での和解後、日本政府の行政手続きの枠内に取り込まれ、熊野鉱山の再開に前のめりになってしまった。
何が問題か。まとめると、①遺骨が眠る鎮魂の場たる戦跡公園の緑地に重機を入れて採掘することは、戦没者とその遺族、県民に対する冒涜である、②一帯は遺骨がまだ完全に収容されておらず、採掘土砂に遺骨が混じる、③採掘した土砂が辺野古の埋立に使用される可能性が高い、④隆起サンゴ礁の島といわれる沖縄の石灰岩は県民の共通財産であり、日本政府の中央集権支配によって鉱業権を私企業にあたえて採掘を進める行政に問題がある。
沖縄を廃墟と化し15万県民をはじめ日米朝など多くの軍人軍属の命を奪った沖縄戦の悲劇を忘れてはならない。辺野古に海兵隊基地をつくるな。南部の土砂を採掘するな。辺野古に運ぶな。戦跡公園内の熊野鉱山の稼働に強く反対する。
1月7日、辺野古ゲート前に600人余
国会請願署名実行委員会
結成集会の決意
第一土曜日の1月7日、今年最初の辺野古ゲート前集会が開かれ、600人余が集まった。主催はオール沖縄会議で、集会名は「国会請願署名実行委員会結成集会」。集会に先立ち、仲宗根朝吉さんと黒澤慎一さんによるギターとアコーディオンによる演奏と歌が披露されている間に、各地からの参加者が続々と詰め掛けた。
司会は福元勇司さん(オール沖縄会議事務局長)。福元さんはオール沖縄会議の足掛け8年に及ぶ歴史を振り返りながら、「沖縄を戦場にさせないため、辺野古新基地を断念させるため、請願署名を成功させよう」と呼びかけた。
稲嶺進さん(署名実行委員長)は、「ハイサイ。グスーヨー(皆さん、こんにちは)」と切り出し、「昨年は復帰50年。50年の間、何が変わり何が変わらないのか。沖縄は二度建議書を提出した。国会請願署名は全国民に、民主主義と地方自治が踏みにじられている沖縄の現実を明らかにするものだ。沖縄の声を国会に届けよう。グスーヨー、チバラナヤーサイ(頑張りましょう)」と訴えた。
国会議員を代表して、赤嶺政賢さん(衆院沖縄1区)は「大浦湾の埋立は不可能。うりずんの会は沖縄の署名を国会に届けるという大きな役割を皆さんと共に担いたい。沖縄のミサイル基地化はこれまでの専守防衛からの大転換。抑止力を口実とした軍備は相手も同じことをやり、果てしない軍拡になる。戦争を止めるのは9条、平和外交だ」と述べた。伊波洋一さん(参院沖縄選挙区)は、「台湾有事は米軍の戦略である。有事には米軍は撤退し、自衛隊に戦わせるという戦略だ。日中の経済の絆は固い。軍事対決ではなく平和外交を」と語りかけた。
玉城デニー知事はメッセージを寄せ、「辺野古新基地に反対する県民の強い意思がある限り何年かかっても基地は完成しない。未来を担う子や孫のため平和な沖縄を建設しよう」と呼びかけた。
現場からの報告・決意では、統一連の瀬長和男さんが「新基地建設のため一日約2200万円の警備費が毎日湯水のように使われている。これでいいのか。平和を願う世界の人々と共に辺野古を止めよう。週に一度、月に一度でも現場に足を運んでほしい」と訴えた。各地の島ぐるみは名護、うるま、南城代表が各々決意を述べた。南城市島ぐるみ会議の瑞慶覧長風事務局長は「八重瀬の仲間と共にバスで参加した。県は今年度、地域外交室を設置するという。素晴らしいことだ。知事室には万国津梁の銘文が掲げられている。これは平良幸一知事の時から始まった。沖縄は平和の架け橋だ。政府に代わり沖縄県知事が平和外交を展開していき、国を正す。その気概を持って頑張ろう」と力強く述べた。
県議会与党会派の県議が並んだ中、仲村未央さん(立憲おきなわ)は「もはや日本は法治国家とは言えない。防衛局によるサンゴ移植はサンゴを死に追いやるだけだ。サンゴ移植を不許可にした県は正しい。玉城県政を支える県議として頑張りぬく」と決意を述べた。
最後に、高里鈴代さんがガンバロー三唱をリードし、一時間に及ぶ集会の幕を閉じた。
オール沖縄会議のWEBサイトで、辺野古新基地建設の断念を求める国会請願署名用紙がダウンロードできる。全国各地で取り組み、辺野古NO!の声を広げていただきたい。
https://all-okinawa.jp/shomei_202210/
12月17日、映画と講演会に35人
日本のアジア・中国侵略を
学び続ける覚悟
南京・沖縄をむすぶ会は、なは市民協働プラザで「南京大虐殺85年を迎えて12・17映画と講演の集い」を行い、35人が参加した。
はじめに、DVD『教えられなかった戦争・中国編―侵略からの解放・革命―』(高岩仁監督、映像文化協会製作)が上映された。シリーズの第5作として2005年に製作された本編は、2008年に亡くなった高岩仁監督が全霊を注ぎ込んでつくりあげた最後の作品にあたる。映画は、様々な元日本軍兵士、中国の労働者・農民、解放軍兵士などの証言を交えて、天皇の軍隊による侵略戦争の実態を描き出すものだった。
講演は、水木ゆうさんが「日中戦争・華北 戦場の村の日々」と題して、約10年前に山西省に留学して調査・研究した内容を発表した。
凄惨な結果を引き起こした天皇の軍隊による中国・アジア侵略に対し、戦後76年たった今も日本の国民の多数は真剣に向き合おうとしていない。反省がないから同じ誤りを繰り返す。岸田政権がアメリカの中国封じ込め政策に追従し軍拡・南西諸島のミサイル基地化に突き進むことに対し、メディアの調査によると、「増税には反対だが、軍拡は容認」が多数を占めるという。米国は太平洋の彼方の国だ。米国のアジア戦略は、かつて日本が「満蒙は日本の生命線」と中国侵略にのめりこんだ歴史と重なる。台湾有事を口実に中国との軍事対決を計画する米国に決して追随してはならない。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(81)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
輜重兵として動員された満州でソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された那覇市の宮里さんは、重労働・飢え・寒さに苦しむ収容所の仲間を元気づけるためにはサンシン以外ないと考え、自力でつくりあげたサンシンで夕食後、集まり歌い舞った。大勢の捕虜が参加し、ソ連兵も加わって一緒に歌とダンスを楽しんだという。
また、廃材でバイオリンをつくり、それをきっかけに楽団や劇団が生まれていき、過酷なシベリア抑留生活を生き抜いたという証言がある。『ヒロシマ通信』1847号に紹介されている(窪田由佳子『シベリアのバイオリン』地湧社、2020年)。音楽には、国や言葉の違いを越えて人々をつなぎ励ます力がある。
宮里さんは沖縄に帰還後、古典音楽研究所を開設して、戦後安冨祖(あふそ)流を復興し多くの門下生を育てた。那覇市与儀公園横の県立図書館敷地内に、宮里さんを讃える記念碑と銅像が建っている。
引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。
16『那覇市史』資料篇 第3巻8「市民の戦時・戦後体験記」(1981年)
宮里春行「収容所でカンカラ三絃」
…………
「沖縄玉砕」「敗戦」「捕虜」と三重の追い打ちで希望を失った戦友は語り合う言葉も哀れの極みであった。昭和二十〔1945〕年九月二十七日、ソ連領チグローワヤ(虎部落)の原始林山奥での捕虜生活が始まった。最初石炭掘りかと思っていたら家も何もない山中で鋸と斧が渡され、君たちの仕事はこの山林の伐採だから自分の住む家から造れと言われた。体の弱い者は有刺鉄線を解いて釘作り、健康な者は山から木材を切り出し、屋根は大陸ヨモギや雑草をかり集め、何とか山小屋が出来上がった。
食事は、やっと命をつなぐ程度の最低で、塩汁に米粒が泳ぐ位の雑炊と黒パンだったので、休み時間には木の新芽や色々の雑草を集め、飯盒にゆでて雑炊に混ぜ、腹を満たす状態で下痢をする者も多かった。
仕事は初めのうちは毎日山での伐採だが、慣れぬ二人用鋸と斧で5立方メートルから次第に上げられ、10立方メートルのノルマ遂行は非常に苦労した。
まずい食事と苦しい仕事で意気消沈した戦友を元気づけるには三絃以外ないと思い、私は直ちに三絃(サンシン)作りに取りかかった。山で仕事中にさがし求めた三味線木材を収容所に持ち帰ったが小刀も無い。戦友に話したら上原という上等兵が持っていたので、これを貰い受けて製作が始まった。十日目位に警戒兵に見つけられて取り上げられ、収容所長から呼び出しを受けておこられた。
私は手まね足まねで三絃を説明し、意気消沈の戦友を元気づけて仕事の成績も上げるつもりだと話したら、収容所長も納得して夜間だけソ連兵舎に保管するようにということで許可され、それからは堂々と三絃作りに励んだ。
次は警戒兵に煙草のパイプを作ってあげてワイヤー線をさがさせ弦代用にし、胴は缶詰カンカンを利用して二か月目にやっと待望のカンカラ三絃が出来上がった。
出来上がった晩、カンカラ三絃をならしたら各棟から戦友が相集まり、夜の更けるのを忘れて歌い明かした。ソ連兵も三絃の音に引かれ、沖縄音楽にダンスして互いに踊り喜び合った。音楽はどこの国にも通ずる平和の叫びだとつくづく思った。ところが、浜千鳥節だけは胸がふさがり、のどが詰まって涙が出るだけで歌えなかった。
「旅や浜宿り草の葉の枕」がシベリア山中で草ぶきの山小屋に草を敷いて寝起きしている現況があまりにも思い当たり、声が出なかったことを今でも思い出す時がある。
それからは毎日、夕食後は歌三絃で語り合い、皆元気が出て、互いに頑張ろうと生気を取り戻した。
昭和二十一年の大みそかには午後11時頃から非常招集され、翌日(昭和二十二年の一月一日)朝の6時までチグローワヤの駅における木材の貨車積み込み作業は、本当に哀れの極みで一生忘れることは出来ない。ソ連には盆も正月もない。十月の革命記念日と五月一日のメーデーがソ連人の祝日である。
私は昭和二十二〔1947〕年の夏頃から少しロシア語が話せるようになったので、作業隊長(赤軍少佐)のもとで配車係となった。自動車はソ連兵が米国製のスチードベイカー(大型トラック)、日本人捕虜がソ連製のゲース(大正年間の小型トラック)と各々15台位で各車に7、8名の人員を配置、各所に配車して薪、木材を搬出させ、各車両ごと、種目ごとに搬出量の記録をして作業隊長に報告するのが毎日の日課だった。
作業終了時に私がポケット用小型ソロバンで自動車ごとの搬出量の集計取りをしているのを見て、ソ連のデシヤートニック(山技手)たちは、魔法を使って計算しているのだろうと珍しくして見ていた。それ程ソ連の一般人は計算力に弱い。
……
ある日モスクワから偉い人が巡視にみえた。シーシカ(五葉松の実)が欲しいとのことで作業隊長に頼まれた。私の班に木村といってトビ職で木登りの名人がいたので、彼を呼び沢山のシーシカを採ってあげた。その時、かの偉い人が「収容所の食料状態如何」と尋ねられたので「今日は貴殿の巡視のお陰で上等だが、平生は良くない。再々巡視に来て欲しい」と話したら笑って帰った。その後大分給与が良くなりシーシカのお陰だと思った。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(82)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介するのは、那覇市の吉田さん。国民学校高等科の少年の海軍航空兵志願のいきさつとその顛末や職業訓練所を通じて満州に行き、敗戦を迎え一人になり中国人夫妻に助けられて生き延びた様子を証言している。
「中国脅威論」が政府・言論により声高に叫ばれる今日のような時代にこそ、冷静に過去の歴史に目を向けるべきだ。少し長いが読んでほしい。
引用は原文通り、省略は……、補足は〔 〕で示した。年号を西暦で補充した。
『那覇市史』資料篇 第3巻8「市民の戦時・戦後体験記」(1981年)
吉田昌賢「満鉄の電車区通信員」
昭和十八〔1943〕年夏、私が国民学校高等科二年の時、学校に陸軍と海軍の兵隊(下士官だったか将校だったか忘れた)が来て、運動場に全校生徒を集めて陸軍か海軍に志願するようにと、軍隊の良いところだけ話してすすめていました。
その後二、三日経って、先生から君は身体が良いので志願したらどうかと話しかけられました。その時の私の身長は志願募集ポスターの満十四才の1メートル47ありましたので、私は海軍に志願しました。というのは海軍の航空兵の七つボタンにあこがれていたし、映画も海軍ものが良かったからです。
海軍の航空兵は「甲乙丙」の三種類あり、甲は当時の中学校卒業程度の者、乙は国民学校高等科卒業程度の者、丙は水兵から志願してきたものでした。私は乙種飛行予科練習生に願書を出しました。願書には無断で親の印鑑を押しました。
一次試験は那覇市の公会堂で受けました。その日は先生には断わってあったので、家からはカバンを持って出かけ、教科書は友人の家にあずけて、弁当と筆記用具だけもって試験場に行きました。
一次試験に合格したので、学校では朝礼の時、胸に「少年兵」と書いたリボンをつけ、演壇に並べられ紹介され、校長先生からほめられて全校生徒の拍手を受けました。
一次試験に合格したのがあまりに嬉しかったので、すぐ父に報告しました。ところが父は、「兄たち(私は五人兄弟の末っ子)も皆軍人・軍属で行っているのに、お前まで軍隊に行ったらこの家はどうなるのか」と怒り、また、なだめられたので、次の二次試験には行きませんでした。
すると、二次試験の翌日、特高警察らしい人が私服で家に来て、父母と私三人に二次試験を受けない者は非国民だと、さんざん叱られました。それで仕方なく二次試験を受けることにしました。試験の前夜、父母が私に涙を流して「二次試験は不合格になるようにしなさい」と説得しました。
二次試験は適性検査でした。見えるものを見えないと言ったり、出来る所もはずしたりして、最後に試験官(海軍将校)がお尻を叩いて(試験の日はパンツ一枚)、「残念ではあるが君は不合格」と言われました。私は怖いやら嬉しいやらで、すぐ家に帰り父母に報告しました。すると、父母は戸を閉めて涙を流して喜び合いました。私と共に志願した友人で、一次、二次に合格して航空隊に入隊するため本土へ渡る時に、船が沈められて死んだ事は戦後初めて知りました。
昭和十八年の暮れから十九年の春頃にかけて多くの軍隊が外地から上陸して、学校や民家に分散していました。その頃父が私に、君は一度兵隊に志願したので、沖縄にいたらあぶない、軍需工場に行きなさいと言いました。
私はどうせ行くなら満州の大陸に行きたいと父に話したら、中国とは戦争をしているので、内地に行けと言われたが、那覇国民学校卒業の満鉄希望者五人と共に満州に行くことにしました。十九〔1944〕年三月に高等科を卒業して職業紹介所から知らせが来るのを待って、六月までぶらぶらしていました。
六月二十日頃だったと思う、一枚のハガキが来て何日までに、当時西新町にあった石原旅館に来るようにと知らせてきました。子供心で早く船に乗って本土または満州に行きたくて、前日は古ぼけた父のトランクに、満州は寒いと聞いていたので、冬ものだけ一杯つめて準備をしました。
……
那覇を出港してから、二、三日後敵の潜水艦に発見されたらしくて船団の一隻が沈んで行くのを目撃して恐ろしくなり、船に乗ったことを初めて後悔しました。機雷を投げながら古仁屋〔奄美の港〕に逃げて、一泊して出港。また潜水艦に追われて同じ所に引き返して一泊、夜中出港しました。那覇を出て五日目の夕方、鹿児島着。鹿児島湾に入った時のうれしさは何とも言えないものでした。
鹿児島に着くなりすぐ憲兵が乗船して来て、鹿児島に着くまでのこと、敵の潜水艦に襲われたこと、船が撃沈させられたことを絶対口外するな、と注意して私たちを小船に乗せて乗船させました。
……
私の職場は奉天駅の近くにあって、正式には奉天電気区奉天駅前通信工区という詰所でした。仕事の内容は奉天市内外に住む日本人住宅また会社内の電話の加入や修理など、電話工事に関する仕事でした。私はひと月早く六月一日までに奉天に着いていれば教習所の電信課に入所出来たのですが、遅く着いて、すぐ現場に見習員で配置されました。
……
八月の初め頃から満州人たちが私たちに「日本は近日中にひっくり返る」としきりに言っていました。昭和二十〔1945〕年八月十五日もいつも通り出勤したら、助役が十二時に重大放送があるので、待機しておくように言われました。
十二時になると、かの歴史的な玉音放送があった訳ですが、内容が聞き取れず、よく分かりませんでした。後で皆に言われて初めて終戦を知りました。
八月二十七、八日ごろ私たちの隊舎が数百人の満州人に襲われました。私は何も持たず裏のコーリャン畑に逃げました。四、五名一緒だったと思う。翌日おそるおそる出てみると、私たちの隊舎は何もありませんでした。服や寝具類、食堂の食器類まで何もありませんでした。
私以外の本土出身者は知人や親類をたずねていって、私一人残りました。私は行くあてもなく、やむなく現場事務所に行きました。現場事務所(三階建て)には宿直用の食料がありました。私は階下にいると危ないと思い、食料をもって三階に行きました。そして当分はここで寝泊まりすることにしました。水もあるし、電気もつきました。二、三日分ぐらいの食料もあったが、そのあとが大変でした。
下に降りて食料を求めようとしたら、道路では大変なことが起こっていました。日本が戦争に負けたので、満州人が暴れるのです。日本人所有の店やデパートは、商品は全部盗まれ建物だけになっていました。また日本人と知ると袋だたきです。三階から駅前の広場をみると、あちこちに日本人の死体がありました。食料はなくなったが、下へ降りてゆくと、満州人に殺される心配があるので、仕方なく私は三階で水道の蛇口から一升瓶に水を入れて、食べる物は何もないので水ばかり飲んでテーブルの上で寝ました。テーブルの上は夏でも寒くてなかなか寝られませんでした。でも外に出て殺されるよりは良いと思い我慢しました。水ばかり飲んで約十日ばかりでしたが、私には一年にも二年にも思えました。
町が静まり返ったので、何か食べ物を探そうと思い、三階から階段を降りようとしたら、足がガクガクして2、3mぐらい歩くと腰をおとしたりして、200mぐらい歩くのに二時間ぐらいかかり、やっと中国人の屋台店に着きましたが、十数日ほど食事らしいのをとっていないので、声が出ません。手まね足まねをしたら唖と間違えられました。
その中国人(日本の大学卒のインテリ)は、私が飢餓状態であるのに気づいておかゆを食べさせてくれました。が、胸がドキドキし、食べたおかゆはすぐ体内から出てズボンを汚してしまいました。中国人は私を屋台店の裏のコンクリートに寝かしてくれました。その時の私の服装は乞食以下でした。歩くことはできないし、会話もできない状態で、体はいうことをきかないし、私はこのまま中国で死ぬのではないかと思いました。その時、とっさに両親のことと戦地に行っている兄たちの事や郷里の事が走馬灯のように私の頭の中をよぎって行きました。
中国人が夕方私を屋台に寝かして自分の家に連れてゆきました。彼の家に着くと、彼の奥さんが何か欲しいのはないかと聞くので、夢中に「ミソシル」と言おうとするが、口がもぐもぐ動くだけで、声になりません。彼女はとまどって、もう一度聞いたので、指で地面に「ミソシル」と書きましたら味噌汁を作ってくれました。しかし、昼間同様、栄養失調で体力が衰弱しているため、味噌汁を飲んでも受け付けず、すぐお尻から出てしまう始末で、全く夢のような気持でした。
しばらく湯水を飲んだり、みそしる、おかゆを飲んだりして身体が回復したのは二か月か三か月ぐらいたってからだと思います。その後私はその中国人と一緒に毎日屋台をおして街まで行って彼の手伝いなどをして一冬を過ごしました。
……
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