自衛隊石垣島駐屯地開設反対2日間行動
投稿「ここは私たちが切り開いた地、この地で私たちは平和に暮らし続けたい」
ミサイル基地はいらない
尾形淳(南西諸島への自衛隊配備に反対する大阪の会)
3月4日と5日の両日、石垣島の自衛隊ミサイル基地開設に反対する全国行動が行われた。当初の予定では4日は基地の視察と交流会、5日は集会とデモであった。しかし、5日の朝に自衛隊の軍用車両が搬入されるという情報が入り、急遽5日の朝5時からの軍用車両搬入阻止闘争が行われた。
地元の「八重山毎日新聞」によれば、石垣島の駐屯地に配備される軍用車両は約200台、隊員は約570人となる。12式地対艦誘導ミサイル部隊、03式中距離地対空誘導ミサイル部隊が配備され、中距離多目的誘導弾や81ミリ迫撃砲を運用する八重山警備隊も新編される。
―3月4日―
「基地視察行動」
【広大な緑の大地を突き破る醜悪な建物群】
午後2時、バンナ公園北口駐車場に次々と車が集まってくる。基地の全貌をドローンで撮った写真と地図が渡され、「石垣島に基地をつくらせない市民連絡会」の藤井さんを案内人として、基地の工事現場の正面ゲートに向かう。道路の狭さ等から車を10台に制限し分乗して出発したのだが、次々と遅れてきた参加者の車が後ろにつき、最終的には10数台から20台を越える車列になった。
基地を遠望できるバンナ岳展望台(標高230m)に向かう。展望台に上ると、緑の大地の広がりが目に飛び込んでくる。パイナップル畑やさとうきび畑や野菜の畑、もう水を入れた田んぼも見える。そしてその向こうには海が広がっている。自衛隊駐屯地の薄茶色を基調とした建物群も遠望できるのだが、緑の大地を侵食するアメーバのようである。
藤井さんは基地と各集落との位置関係、各集落が基地に反対する理由等を説明してくれる。弾薬庫から一番近い集落は300メートルぐらいしか離れていないこと、基地に隣接する於茂登の集落はアメリカ占領軍によって土地を接収された沖縄島の人たちによる開拓地であること等である。
基地はまだまだ未完成で、工事現場のゲートからは次々と大型車両が出入りしている。ゲート前の道を少し左に下ると、柵越しに駐屯地の正門がすぐ近くに見ることができる。この場所は昨年の9月に訪れた時は黒い幕で覆われていた
(「かけはし」2022年10月10日号参照)。
基地開設前なのに門内にいる自衛隊員は自動小銃を携行している。参加者はそれぞれに抗議の声を上げる。
基地の排水溝の工事現場が見える場所に移る。排水溝には必ず大雨等に備えて貯留槽がある。ここの排水溝にも貯留槽があるが、30年に一度、50年に一度の大雨に耐えられるものなのか、何の説明もないとのことであった。
最後にパイナップル園からの基地の工事現場を見て(前述の「かけはし」の写真参照)、交流会の会場の於茂登公民館に向かう。
「全国交流会」
【ミサイル基地建設は第3の琉球処分だ】
開会のあいさつはこの地で農業を営む峯井さん。峯井さんは「昭和32年に琉球政府の計画移民として、沖縄島からこの地に入植した。しかし、この地は荒地であり、マラリア撲滅と、水の確保等、生活環境の整備から始めた」と語り、「土地はもらえるという話しだったが、実際は借金して買った。汗を流して良い土地にしようと頑張ってきた」と続けた。
そして、「最初にこの地を開いた90歳とか100歳になるおじいたちはこの会場には来ることができないが、おじいたちは沖縄でも占領軍に土地をとられ、ここでもこんなことになったと話している。私はこれが3回目の琉球処分かなと思う」と締めくくった。
参加者は石垣の人たちを除くと、関東や関西の人たちもいるが、やはり、沖縄島の人たちが多い。厚木基地の監視活動を続けている人、京都で丹後半島に建設されたアメリカ軍のXバンドレーダー基地に反対する人たちが発言し、沖縄の人たちの発言に移っていく。
嘉手納基地に反対している「反基地ネット」の人、「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」の人と発言が続き、反戦活動で航空自衛隊を懲戒解雇された元自衛官小田さんも発言する。そして、「島ぐるみ八重瀬の会」、リゾート開発に反対する「ヤンバルの会」、「高江ヘリ基地反対の会」等の人たちの発言が続いた。
最後に地元の石垣島の人たちが発言したのだが、彼らが等しく口にしたのは、この地は自分たちが切り開いてきた土地であり、自然が豊かで平和な島になぜミサイルを配備されねばならないかという、戸惑いと怒りと悲しみの声であった。
交流会の終了間際に、明日早朝、自衛隊の軍用車両が搬入されるという情報が入り、明日朝5時、急遽、石垣港の臨時の車両搬出口の正面前に集まることが提案された。
―3月5日午前5時~10時―
【朝焼けの空に響く「軍用車両は帰れ」大合唱】
午前5時前後から車両搬出口の前の道路には次々と人が集まってくる。門前で道路はT字路になり、Tの字の要の場所が車両の出口で、ガードマンが阻止戦を張っている。
私たちはガードマンと対置して「石垣島にミサイル基地はいらない」、「軍用車両の搬入を許さないぞ」のシュプレヒコールをあげる。「ミサイル基地いらない」の旗を掲げ、道路の向こう側の歩道を埋めた人たちも唱和する。
急遽この場で軍用車両搬入阻止の集会が開かれる。各地から参加してきた仲間が次々発言する。そして、シュプレヒコール。私たち「大阪の会」の仲間も発言する。
日本列島の最西端に位置する石垣島の夜が明けるのは遅い。朝焼けの空が次第に青さを増してきた7時前後、迷彩服を着た自衛隊の責任者らしき人物が門前に出てきたことで、私たちは車両の搬出時間が近いことを知る。
7時半頃、一斉に機動隊員が投入され、門前で抗議行動をする私たちを強引にごぼう抜きして、道路に作った柵の中に入れていく。門からは次々と軍用車両が出ていく。「島を戦場にするな」、「ミサイル基地はいらない」の声が巻き起こる。しかし、ミサイルを搭載する大型車両を含む100台近い軍用車両が、一般道路を車列をなして基地に向かって行った。
軍用車の搬入は午前7時過ぎだけではなく10時過ぎにも行われ、同じように阻止闘争が行われた。八重山毎日新聞と琉球新報によれば、ミサイル発射装置とみられる大型車両、装甲車、小型四輪駆動車、トラック等150台が駐屯地に搬入されたようである。
―午後1時30分―「島々を戦場にさせない全国集会㏌石垣島」
【会場に響き渡る石垣の島唄=私たちは闘いの手を緩めない】
主催者あいさつに立った共同代表の上原さんは「米軍の海上封鎖による飢餓の中で、日本軍によって退避させられた場所はマラリア猖獗(しょうけつ)の場所で、葬りきれないほど死者を出した」と親たちの世代の戦争体験を語った。そして、「このように、石垣の住民は軍隊に対して苦い思い出しか持っていない。台湾有事などと言ってまた戦争の準備をしようとしている。黙っていると黙認したことになる。戦争反対の声を上げ続けていきましょう」と締めくくった。
続いてリレートークに移り、「宮古島住民連絡会」の清水さんは、「宮古島では駐屯地開設からミサイル配備まで3年かかった。石垣島では一気にミサイル基地を完成させようとしている。また、与那国島には自衛隊員の子どもが来ていないと聞いている。このようにして、政府は危機的状況を人為的に作り出そうとしているのではないか」と指摘した。
高江のヘリパッドに反対する住民の会の仲間は、「私たちの共用の道路を米兵が20人ほど固まって歩いているので驚いた。黙っていると、彼らは何でも自由勝手に行動してくる。それを許してはならない」と日常的な戦いの重要性を訴えた。
山城博治さんは「2月26日に大きな集会を行った。今度は全県組織を立ち上げて、1600人を倍する3000人集会、5000人集会を実現し、それを万余の集会にしていきたい。島々が団結し、沖縄中が団結し、政府に物申していこうではありませんか」と、力強く訴えた。
続いて、石垣島在住の人たちの発言に移った。最初の発言は「石垣島で普通に暮らしたいーズ」の女性。この会は小学生から高校生の子どもを持つ母親たちの会。彼女が短い発言時間の中で何度も繰り返したのは、「私たちの願いはただ一つ、普通に暮らしたいだけです。平和で自然豊かなこの島で普通に暮らしたいだけなのです」という言葉であった。この言葉こそ、この2日間の行動の中で石垣島の人々が私たちに何度も語ってくれた言葉であった。
集会の最後を飾ったのは、「命とくらしを守るオバーたちの会」のメンバー14人の登場だった。会を代表して発言に立った山里節子さんは会の活動を紹介した後、「この小さな島に不釣り合いな自衛隊がきてしまった。その気持ちを石垣の歌に託して表現したい。歌の意味は、杖を突いて歩くようになって、足にタコができるような歳になってしまったが、それでも闘いの手は緩めないという意味です」と説明し、彼女は石垣島の島唄のメロディーに乗せて朗々と歌う、「ヤーヨーアー、アスニーソナーリー」、歌声は会場を圧倒し響き渡った。
集会終了後、2時半から市内デモに移り、デモ終了は3時半。朝5時からの長い闘争の一日が終わった。
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