4・1辺野古ゲート前集会に650人
新基地断念を求める県民の変わらぬ意思
沖縄報告4月2日 沖縄 K・S
4月1日、「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」主催の第一土曜日県民大行動が行なわれ、キャンプ・シュワブゲート前に県内各地から650人が結集した。78年前の沖縄戦で米軍が読谷・嘉手納・北谷の海岸から沖縄に上陸したこの日、地獄のような沖縄戦の破壊と被害を思い起こしながら、辺野古新基地反対!埋立ストップ!の県民の変わらぬ意思を示した。
進行係は山城博治さん(沖縄平和運動センター)。はじめに、高里鈴代さん(オール沖縄会議共同代表)が「沖縄は今、78年前のような戦争になる危機を迎えている。新たな基地を造らせないという県民の確固たる決意を示そう」と呼びかけた。
日本政府に対し独自の平和行政を進める県
玉城デニー知事のメッセージは福元勇司さん(オール沖縄会議事務局長)が読み上げた。「ハイサイ、グスーヨー、チュウウガナビラ(皆さん。こんにちは)」と切り出した知事のメッセージは「県の埋立変更不承認をめぐる訴訟で、裁判所は却下・棄却という不当な判決を出したが、防衛局の辺野古埋立変更申請を不承認とした私の判断は決して間違ってはいない。4月22日には辺野古新訴訟をめぐるシンポジウム、6月5日には日弁連のシンポジウムが予定されている。今後も、新基地に反対する県民の強い思いに全身全霊で応えていく」と述べ、「マジュン、チバラナヤーサイ(皆さん、頑張りましょう)」と締めくくった。
翁長雄志知事時代につくられた県ワシントン事務所の粘り強い活動、県民の変わらぬ辺野古反対と米軍による基地被害の解消を訴えた玉城デニー知事の訪米、南西諸島のミサイル基地化を進める日米両政府に対し独自の平和外交にふみだす地域外交室の設置と県議会による賛同決議、反ヘイト県条例の制定、第32軍司令部壕の保存・公開に向けた基本方針の策定など、沖縄県は平和人権行政に努力を続けている。玉城知事のメッセージに集会参加者は大きな拍手で応えた。
続いて、赤嶺政賢衆院議員、伊波洋一参院議員、新垣邦男衆院議員の3人が前に並び立ち、代表して新垣議員(2区選出、社民党)がマイクを取り、「岸田首相は国会でまともな答弁をしない。一国の首相なのかと悲しくなる。辺野古新基地はつくれない。粘り強い闘いを展開していこう」と語った。
県議会与党会派の議員たちがそのあと前に並び、代表して瀬長美佐雄さん(共産党)が、「県議会は日本政府に対し対話と外交による平和構築の積極的な取組を求める意見書を採択した。玉城知事の訪米は大きな成果があった。県の地域外交室は、国と国との関係如何に関わらず、教育・文化・学術分野で対話と交流を積み重ね隣国との平和的な関係を深めようというものだ。この方向に新しい未来がある」と訴えた。
「沖縄を再び戦場にしないよう日本政府に対し対話と外交による平和構築の積極的な取組を求める意見書」は3月30日、沖縄自民党を離党した照屋県議(うるま市選出)や公明議員が退出する中、玉城デニー知事の県政を支持する与党会派に、無所属の会の賛同を得て、賛成多数で可決された。自民の「防衛力の整備・強化により周辺国の軍事行動に対する抑止力を高める」との「外交・防衛政策の推進を求める意見書」は議決不要とされた。自民・公明は、県ワシントン事務所の年間運営費約7500万円の予算案にたいしても、賛成できないとして採択を棄権した。
各地で粘り強く続く現場の闘い
そのあと、辺野古住民訴訟の浦島悦子さん、有機フッ素化合物(PFAS)汚染から市民の生命を守る連絡会の玉那覇淑子さんに続いて、摩文仁から辺野古まで約100㎞、5日間のピースウォークを歩いた上原快佐さん(県議)と仲間たちがあいさつした。上原さんは「この5日間、多くの仲間たちと一緒に歩いた。辺野古断念の国会請願署名という大きな目的を掲げ、沖縄戦の追体験をしながらの行進だった。靴はボロボロ。平和に対する思いを強くした」と述べた。
地域からの決意は、中部を代表して沖縄市、南部を代表して南風原町の各島ぐるみが行った。「止めよう辺野古新基地!沖縄市民会議」の仲宗根事務局長代行は「毎週木曜日、辺野古ゲート前座り込みに参加している。金曜日は毎週ゴヤ十字路でスタンディング。最高齢は戦争体験者の96才の女性だが、元気だ。政府は沖縄市に弾薬支援拠点をつくるという。市民あげての反対運動の取り組みを実現していく」とアピールした。
南風原町島ぐるみ会議の松井さんは「南部の沖縄戦跡国定公園内に位置する熊野鉱山に対し、南部の各島ぐるみは分担して毎日監視を続けている。戦没者の遺骨の混じる土砂を辺野古の埋め立てに使ってはならない。南部の島ぐるみは協力して、埋立阻止!土砂搬出阻止!の取り組みをすすめたい」と述べた。
統一連の瀬長和男事務局長は「とにかく現場に集まろう。週一、月一でも構わない。辺野古・安和・塩川の現場に足を運んでほしい」と呼びかけた。山城さんは「辺野古ゲート前の闘いは今夏で10年を迎える。思えば長く闘い続けてきた。最後まで屈せず闘い抜こう」と訴えた。そして、「今こそ立ち上がろう」を参加者全員で歌い、閉会あいさつとガンバロー三唱を稲嶺進さん(オール沖縄会議共同代表)が行った。
毎月第一土曜日に実施される辺野古ゲート前集会。辺野古に基地を造らせない!との共通の決意を胸に、参加者たちはそれぞれの持ち場へと帰った。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(85)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。前号・前々号の那覇市の前原さんの日本軍の暴力に関する赤裸々な証言に驚かれた方々もいるに違いない。今号は、満州で国境警備隊に属していたが、ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留と強制労働を体験した那覇市の具志栄助さんの証言の一部を紹介する。具志さんは、1946年12月31日、沖縄に帰還した。
引用は原文通り、省略は……で示した。
16『那覇市史』資料篇 第3巻8「市民の戦時・戦後体験記」(1981年)
具志栄助「ソ満国境でソ連軍と交戦」
……話によるとこの収容所はウラル山脈(欧州とアジア大陸を結ぶ山脈)とバイカル湖を結ぶ中間にあると言われているようで、収容所の所在地も秘密にされ、方位もわかりにくい。主とする就労の内容は木材の伐採、運搬、鉄道建設工事等の補助作業で、就労の単位は請負い制が採用され、割当ての定数は6人制(力が強く作業に可能な二十代の若者二人、普通の人二人、作業能力がある人二人)で、割当て人員は毎日変更があった。割り当てられた仕事量は終了後、直ちに通訳を通じて報告され、検査に合格次第、いつでも収容所に帰り休憩できる条件になっており、成績が悪ければ何時までも取り残され、就労させられることになっていた。適当に要領よく、ということは通用しない仕組みになっていた。……
私たちは、ソ連の目標とする作業を一日も早く終えて、日本内地に帰るのを合言葉とし、作業現場での「仕事始め」と「仕事休め」「仕事終了」の三回の指示号令の際は「東京ダモイ」の合言葉で常に気合をかけて行動した。どんなに苦しい時にも「東京ダモイ」と言い、故郷の思い出話をする時も、就寝の時にも、それは呼び名とされたものである。「ダモイ」はロシア語で「帰る」「懐かしい父母のひざ元に帰る」という意味を表現しているものだ。
ある日のこと作業は急ピッチで進み、積雪の多い山林の伐採作業(原木運搬)に割り当てられた。二人で一組とし、原木を運搬するシステムで、私は当時35か36才の召集兵と組んだ。運搬は伐採現場から集積所まで約150mの距離だが、積雪が深く、かつ雪の中に障害物(原木が長く倒したまま放置されたもの)が多く、運搬歩行はいたって難しい地形であった。
一日で6回運搬すればよいが、4回目の運搬からは、よほど相手の呼吸が合わなければ作業はできない。現地は午後になってから雪が降ることが多く、視野も悪い。私の相棒は栄養失調で、その上視力もよくない点から、作業の動きも危ぶまれた。足の運びや動きがスローになった時のことであった。足を深く積雪に踏み入れ、原木もろとも放り投げられ前に転んだ。伏せて倒れたこの人に立ち寄り、「大丈夫か、しっかりしろ」と言った時、彼は「東京ダモイ、もう駄目だ」「何を言うか、奥さんや子供たちが待っているぞ」と交互に言葉を交わしたが、左右に首を振って、かすかに「ダモイ、だめだ」と言いながら息を引き取った。毎日、作業員の変更があるので、その人の身分、氏名、所属等を聞いていなかったのが残念であった。その身柄は衛生兵を通じ、ソ連病院に護送された。栄養失調は下痢が多く、体がふくれ、視力が衰える。それに記憶力がなくなり、ひどくなると、作業中の衝撃で命を落とす場合があって、各自用心するよう日頃から注意を呼びかけられていた最中であり、そのショックは、復員後もしばしば夢を見るほどの思い出として残っている。……
ある日のこと、私は就労出発時間に急にめまいがし、寒気がして医務室で体温を測ったところ、37・5度で就労に支障なしとの診断を受け、しぶしぶ就労に出発したことがあった。やけくそになった私は、休憩時間も無理に就労したが、ソ連の歩哨にきびしい注意を受けた。昼食もぬきにしてやれば、その目的が達成できるのではないかと考えたからだ。やがて就労の時間が終わり、収容所に戻ったとたん、目まいがしてして倒れ気絶した。しばらくして気がついたら収容所の医務室の床の中にいた。体温は39度くらいで、熱の高いせいか食事がすすまない。
医務室に入室してから二日目のことであった。その時の私の体重は46キロでずいぶんやせており、疲労からきた栄養失調であった。午後になってソ連軍医の立ち合いのもとに患者を対象とした身体検査(約30人)の実施があった。私の病名はカゼによる栄養失調だとの事で30人中、私も入れて5人がより分けられ、ウラジオストックに近い某病院に入院することになった。病院患者輸送列車で収容所を出発したのは異例でもあり、早めに「ダモイ」の指標を達成しえたということは、生涯忘れえない事として記憶に新しい。
県内市町村の中国での戦争体験記を読む(86)
日本軍による戦争の赤裸々な描写
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介するのは那覇市史に掲載された玉城村の大城さんの証言である。大城さんは、1938年、数え年16才で満蒙開拓少年義勇軍に入団して満州に渡り、1941年の日米開戦を知り沖縄に帰って結婚し妻をともなって再度満州に行こうとしたが下関で足止めされた。1943年、徴兵で中国大陸に派兵され、沖縄戦で父・妻子・妹を失った経過を語っている。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。
16『那覇市史』資料篇 第3巻8「市民の戦時・戦後体験記」(1981年)
大城幸秀「満蒙開拓少年義勇軍になって」
尋常高等小学校の高等科の時、父は師範学校に受験して教師になるようすすめたが、学科に自信がないのと、意思が弱かったので師範学校には受験をしなかった。昭和十三(1938)年ごろは、青少年の満蒙開拓義勇軍の第一次計画が発表され、沖縄からも義勇軍募集があったので、私も自分の意思を試すために玉城村から応募した。尋常高等小学校の高等科を卒業した昭和十三年三月で、数え年十六才のときであった。
応募に合格した県内五十余人の満蒙開拓義勇軍の開拓少年は、那覇市若狭町にあった移民訓練所「開洋会館」で一週間、沖縄から県外に出た時の集団生活について、あいさつや合宿生活などの基本訓練を受けた後、茨城県茨城郡の内原満蒙開拓訓練所に入所、三か月間の訓練を受けた。
訓練所は所長、本部、総務部、訓練所と分かれ、他に警備司令部があった。訓練は300人編成の中隊で、60人の五個小隊、中隊五個で大隊となり、訓練生1万人で六個大隊に編成されていた。内原訓練所の訓練目的は「青少年の皇国精神を鍛錬し、満州建国の大業を成し遂げ、東洋平和確保の礎石になる」ことであった。このため毎朝礼拝があり、「日本体操(やまとばたらき)」などの精神訓話や武道、教練、開墾作業が行われた。……
内原訓練所では、食料生産の自給自足や調理も大事な訓練であった。満州人の主食である「マントウ」(饅頭―小麦粉をふかしたパンのようなもの)、もやし、きな粉、てっかみそ、煮豆、塩せんべい、焼きいも、みそ、豆腐、油揚げ、あめ、パン、ビスケット、いり豆、菓子などの製造も訓練生たちは自分で作った。食事は職員も訓練生も一椀一汁の簡素な献立で、主食は米麦の5分づきであった。
三か月の訓練を受けた私たちは、7月ごろ、内原訓練所の「弥栄広場(いやさかひろば)」で、内原訓練所長・加藤完治氏の最後の訓辞を受け、日・満両国旗を先頭に内原駅から東京へ向かった。東京では宮城遥拝、靖国神社参拝の後、夜汽車で東京駅を出発した。渡満する私たちは、訓練に使った銃の代わりに鍬の柄を担いで分列行進を行ない、国防色に桜のマークの制帽にきゃはんを巻き、東京―下関―釜山を経て満州に向かった。
私たちが向かった満州の訓練所は、南満州の三江省勃利〔ボーリー〕県桃山にある勃利訓練所で、約五千人が入所したといわれている。内原から清津〔チョンジン〕という所に着き、勃利で一か年の訓練を受け、そこから頭道訓練所に移された。
満州の夜明けは早い。午前3時半ごろ夜が明ける。訓練所の日課は午前5時に起床、朝食が午前7時、午前8時から朝の作業が始まり、午後は正午から2時まで休養時間で、午後2時から夕方の6時まで作業を続ける。そのあと入浴をしたり夕食を食べたりして、午後8時には就寝するという規則正しい生活であったので、若い私たちには物を考える時間もなかった。……
今から考えると、満州の生活は厳しかったけれど、自然は心楽しいことも与えてくれたように思う。夏は、4月から9月の末ごろまでで、4月の初めごろからリラの花がいっぱい咲く。それは沖縄からきた私たちのように、季節季節の花の咲くのをあまり知らない、体験した事のない者には強烈な印象であった。
満州の夏は、昼は気温が高く暑い。しかし夜は気温が下がる。空気が乾燥しているので、沖縄のように蒸し暑くないのでかえってしのぎよい。10月ごろになると土地が凍ってしまい、開墾のクワの刃が土に立たなくなり、10月からはもうすっかり冬の季節である。そろそろ冬に入り雪が降ってくると、天気のよい、乾いた天気の日よりも、どういう訳か、私は雪の降る日が暖かいと思った。
11月ごろから3月ごろまで雪が降る。満蒙開拓義勇団の生活は、夏よりも冬に入る直前がきびしく忙しい。夏の間に収穫した穀物類のトウモロコシ、コーリャン、麦、米などの脱穀、精米、精麦その他の精製やマキ集め、木炭づくりなど半年にわたる冬ごもりの準備をしなければならない。訓練生には、生産から日常の生活必需品の補給まで、全部自分たち自身でやらなければならなかったので苦しい生活でもあった。……
満州の土地は文字どおり広大で肥えていた。米、大豆、とうもろこし、麦、きび、粟など穀物は、植えるとなんでも豊作であった。私たちは日本から持っていった種子を、満州の季節に合わせて蒔いたが、これらの種子は、特別に肥料を入れることをしなくてもよく実り、大豆などは一つの茎から一合(0・28リットル)くらい収穫があり、やせ細った沖縄本島南部の玉城村の土地しか知らない私には驚くべきことであった。……
昭和十六(1941)年十二月には数え年二十歳になっていた。たまたま頭道の町に外出しているとき、ラジオ放送で日本がアメリカやイギリス、支那に宣戦布告をしてこれらの国々と戦闘状態に入っていることを知った。……私は早速、開拓団に戻り、自分の持っている作業衣やいろいろの物を友だちに譲り、開拓団本部に行って「自分は三か年の訓練期間が終わっているので、独立して開拓移民になりたい。そのためには沖縄に帰って花嫁を連れてきて独立したい」と申し入れると、すぐ許可になった。そこで大急ぎで沖縄に帰り、故郷の玉城村で花嫁を募集した。
それはまさに「特急恋愛」ともいうべきもので、家族や親戚の協力を得て、二十日ぐらいの期間で花嫁の仲村よし子とめぐり会い、彼女も当時、最も女性として先端を行く「大陸の花嫁」として盛大に結婚式を挙げた。昭和十七年二月一日のことである。二人は家族や親戚、友人たちに見送られて、めざす満州へと下関まで行ったが、すでに戦争は悪化し、個人の満州行きはできないと出国許可が下りず、下関で足止めになった。
仕方なく満州行きをあきらめ、当時大阪にいた叔父さんを頼ってそこへ行き、私は食堂のコック見習いになった。大阪に二年ばかりいる間に妻よし子との間に娘の洋子が生まれ、私も兵隊の徴兵検査があった昭和十八年に、妻と子供を沖縄に連れ帰って両親に妻子を預け、熊本の連隊に入隊した。私が中支、南支を転戦している間に、沖縄は米軍の上陸で沖縄戦が始まり、父・幸益、妻よし子、娘・洋子、妹・八重子ら四人は戦死した。
後でわかったことだが、昭和二十年六月二十一日だったという。あと二日もすれば六月二十三日で沖縄の日本軍が全面降伏をしていたのに……と考えるだけでも残念である。……
週刊かけはし
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