5・21 北谷公園での平和集会に2100人

沖縄報告 5月21日

沖縄 K・S

 5月21日(日)、2月に続く2回目の平和集会が北谷公園の一角を占める北谷球場蝶々広場で開かれ、県内各地から乗用車やバスで集まり約2100人が参加した。2月26日、県庁前ひろばで開かれた第1回目の集会より、子ども連れの女性の姿が多く目立った。岸田政権が進める南西諸島の軍拡・ミサイル基地化に危機感を抱き、沖縄が戦場になることを何としても止めたいと願う県民が世代を超えて結集する場となった。心配された梅雨の雨も幸いほんの短時間少しパラついただけだった。
 プレ・イベントのライブ・コンサートは午前11時から始まった。仲宗根朝吉さん、知念良吉さん、海勢頭豊・愛・島田路沙さんの歌声が響き渡るにつれ、会場にはノボリ・プラカードを手にした参加者が次々と詰めかけた。会場周りには、ミサイル基地に反対するうるま市民の会、PFAS(有機フッ素化合物)の美ら水会など市民団体、軍拡に反対するノーモア沖縄戦命どぅ宝の会、ヘイトスピーチを止める活動を続けている沖縄カウンターズ、日中友好・恒久不戦を掲げる南京・沖縄をむすぶ会などのテントが並び、パネル展示が行なわれた。キッチンカーも登場し、飲み物や軽食を販売した。会場となった蝶々広場の中央付近にはブルーシートも敷かれ、持参の携帯イスに腰掛ける人も多い。小さな子どもたちからシニアまで多彩な層が参加する賑やかな集まりとなった。

老若男女が集い伸びやかに
平和をアピール

 集会は午後1時から始まった。はじめに、主催者を代表してガマフヤーの具志堅隆松さんがあいさつ。具志堅さんは、「沖縄のミサイルで中国を攻撃し反撃されたらどうなるか。住民は死になさいということなのか。戦争を前提にした避難計画より、戦争を起こさないことが大事だ。そのために私たちはここに集まった。広島で、昨日、中国と台湾の記者から取材を受けた。台湾の記者からは来てほしいとの招請を受けた。私たちは戦争をしたくない」と強く訴えた。
 続いて、地元北谷町長のあいさつ、山城博治さんの経過報告のあと、リレートークに移り、以下の人たちがマイクを取りアピールした。右翼の街宣車一台が会場周辺に現れ大音響で妨害行為を繰り返したが、いつの間にか見えなくなった。

 ①与那国島(南西諸島ピースネット・猪股哲共同代表)
 ②宮古島(ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会・清水早子共同代表)
 ③宮古島(宮古島平和ネットワーク・池間美津枝代表)
 ④奄美大島(奄美憲法9条の会会員・佐竹京子)
 ⑤馬毛島(西之表市議会議員・橋口みゆき)
 ⑥自衛隊の弾薬庫等建設に反対する沖縄市民の会(会員・宜寿次政江)
 ⑦ミサイル配備から命を守るうるま市民の会(伊盛サチ子共同代表)
 ⑧辺野古への土砂搬出に反対する島尻島ぐるみ(南風原町島ぐるみ・松井裕子事務局長)
 ⑨労組・沖縄平和運動センター構成団体(自治労県本委員長・大城悟)
 ⑩労組・沖縄統一連構成団体(沖縄県労連議長・穴井輝明)
 ⑪戦争体験者(北マリアナ諸島・ロタ島での戦争体験・仲井間小夜子)
 ⑫若者代表(東アジア共同体研究所YouFO会員・阿利斎生)
 ⑬県議会代表(与党会派を代表して・当山勝利県議)
 
 そのあと、集会宣言(別紙)を採択し、内原英聡石垣市議会議員によるリードで、閉会宣言とガンバロー三唱が行なわれた。会場周辺を約30分行進したデモは、子ども達や小さな子供を抱いた女性も多く参加した。国道58号線で先導する宣伝カーからは、ラップのリズムに乗って、「争うよりも愛しなさい」「憲法違反だ、三文書」「日中友好、平和外交」「いらないミサイル、弾薬庫」などマイクの声が響くなか、ゆっくりした行進は終始和やかで笑顔が絶えなかった。

2023.5.21 北谷球場蝶々広場。平和集会に2100人。行進出発前の和やかな雰囲気。
2023.5.21 北谷球場蝶々広場。平和集会に2100人。海勢頭さんの歌に合わせて踊り。
2023.5.21 北谷球場蝶々広場。平和集会に2100人。集会最後の力強いガンバロー。

与那国・石垣・宮古・沖縄・奄美・馬毛島

軍拡とミサイルに反対する島々の共同闘争の第一歩


 参加者の数は、当初目標とした3000人には届かなかったが、前回の1600人を上回る2000人以上の参加者で会場が埋まり、子ども達や若い女性の姿も多く、三世代にわたる家族ぐるみの合同ピクニックのような伸びやかさにあふれた集会・デモとなった。また、それだけ、南西諸島を舞台とした現在の軍拡とミサイル基地化に対する危機感の広がりの表れともいえる。
 今回、与那国・石垣・宮古・沖縄・奄美・馬毛島と連なる南西諸島―琉球・薩南諸島の島々から初めて代表がもれなく参加し、それぞれの訴えを行なった。画期的だ。軍拡とミサイル基地化に反対する島々の連帯と共同闘争の第一歩を踏み出したと評価することができる。米軍と日本政府は日米同盟による対中国の戦略的軍事方針の下で各島々への個別の軍事政策を押し付けてきている。孤立していてはいけない。互いに手をつなぎ、連携して日米同盟・日本政府に対決していかなければならない。
 「南西諸島」と呼ばれる薩南・琉球列島の島々には155万を越える人々が暮らし生活を営んでいる。かつての沖縄戦がそうであったように、国家権力を掌握し軍事を操る支配層は当該地域の住民の生活や命を大事にしない。彼らの関心事は、軍拡競争・軍事の効率・軍事訓練の習熟に尽きる。生活と命を守るためにひとかたまりとなり、声をあげなければならない。沖縄は、琉球の古(いにしえ)から万国津梁、アジアの架け橋。県民をはじめ島々の人々は、沖縄と南西諸島の島々をアジア太平洋の軍事要衝ではなく平和の架け橋にさせたいと、心底から願っている。
 島々を戦場にするな!
 薩南・琉球の島々を軍事利用するな!
 米軍と自衛隊は中国との軍拡競争を止めよ!
 中国との平和共存、緊張緩和外交を!
 勝連のミサイル部隊新設を中止せよ!
 奄美、石垣、宮古からミサイルを撤去せよ!
 与那国のミサイル部隊のための土地取得を止めよ!
 島々を非軍事化し非武装中立地帯とせよ!

島々を戦場にするな!
沖縄を平和発信の場に!
5・21平和集会宣言

 馬毛島および種子島、奄美大轟、沖縄島、宮古島、石垣島、与那国島。軍事拡大に脅かされる島々の想い奄一つに私たちはここに集い、平和への強い想いを込めて宜言します。
 私たちの願いは一つです。これからの子どもたちのためにも、戦争のない平和な世界を残すことです。それは、豊かな自然を、軍拡の破壊から守るということでもあります。
 日本政府は私たち住民の手の届かない場所で物事を決め、いわゆる南西諸島の軍事拡大を進めています。閣議決定した安保関連3文書は日本国憲法の平和理念にも反する軍事大国化計画であり、再ぴ国策により沖縄。南西諸島の島々を戦場にする動きに他なりません。
 政府が守るのは住民ではなく国家です。
 「軍隊は住民を守らない」というのが沖縄戦の教訓です。
 戦争は、すべての自由や権利を奪います。シエア世代も子育て世代も若者も子どもたちも老若男女問わず、いま私たちは平和に生き延びることを本気で考えなければいけない時がきています。日中友好条約は先人達が残してくれた平和への資源です。日本の各都道府県。市町村は、申国全上の数多くの省や市との姉妹都市・友好都市提携を結んでいます。隣国に向けるものはミサイルではなく、平和です。日本全国で日中の平和外交・民間交流ヘ推進の声を上げていきましよう。
 琉球は圏本国憲法ができる何百年も前から「非武の邦」として平和国家を実践し、信頼の中で「万国津梁」世界の架け構を担いました。
 その子孫である私たちもまた、沖縄を世界平和の架け橋とする使命のもとに、手は他者の手とつなくため、足は東アジア・世界に飛び立つため、日は相手に信頼の眼差しを向け、国は言葉を交わしあい、歌を歌い、智憲は私たちの平和をつくるために使いましよう。
 中国に収民促官(いみんそつかん)」という言葉があります。私たち一人ひとりの声が、「官」すなわち政治を動かすことができるということです。
 未来の命に促され、過去の命に励まされて、大きな力を恐れず、勇気を得て、私たちは、私たちの島々を守つていきましよう

2023年5月21日
 島々を職場にするな!沖縄を平和発信の場に! 5・21平摯集会実行委員会

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(88)

日本軍による戦争の赤裸々な描写


 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する与那国島の波平さんは、二度徴兵され、一度目は中国大陸で従軍し、二度目はフィリピンに派兵されマラリアにかかって熊本の陸軍病院に入院するに至った経過を証言している。戦争の時代の実態描写が詳しい。引用は原文通り、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

16.『那覇市史』資料篇 第3巻8「市民の戦時・戦後体験記」(1981年)

波平正雄「二度も戦場に引っ張られる」

 私は与那国島の祖納の出身です。青年時代の昭和十〔1935〕年前後の与那国島には、人口約五千人に対し、医者は桶間栄三先生と中嵩賀正先生のお二人でした。無医村であった時代もあったんでしょうけれど、当時の村の人達は医者を取り合う気持ちから、東と西に分かれて、一種の派閥ができて、とげとげしい対立関係がありました。
 私は与那国尋常高等小学校の小使いをした後、役場の給仕をしていましたが、池間先生が徴用に取られていなくなったので、いよいよ医者が不足して村の人たちが困っているということをひしひしと感じていました。そこへ松田村長から、「波平君、仲嵩先生の所で働いてみないか」と言われ、先生の家と私の家とはさし向かいでもあり、私は喜んで承諾して、医院で働くことになりました。
 そうこうするうちに、昭和十二〔1937〕年には日支事変が起こり、そして翌年二十一才になった私は、八重山の登野城小学校で徴兵検査を受けることになり、甲種合格となって陸軍歩兵となった訳です。その時の慶田元定則村長は、八重山で徴兵検査を受けた青年たちの引率官をかって出て、那覇港経由で鹿児島港まで私たちを連れて行ったものです。港には、鹿児島45連隊、熊本13連隊、都城、佐世保、何々連隊と、各部隊ごとに旗を立てて迎えに来ていました。私は熊本の歩兵13連隊第11中隊に入隊したものの、三か月の歩兵の訓練を受けているときに衛生兵に志願したのです。与那国でのことも打ち明けて、希望がかなえられて、私は6か月の衛生兵の教育を受けてから陸軍病院に転属させられました。それから、私たちは支那の第一線に派遣されたのです。
 独立混成隊第13旅団、野砲隊付衛生兵として、私たちは北支との境にある中支の絆埠(バウブ)という所、淮河(わいが)の淮河鉄橋一帯を警備することになりました。敵の根拠地は徐州でした。一線部隊の後方からついて行くこともあって、砲撃や銃声を聞きながらの厳しい状況でした。つらい野戦病院での生活を二年余り勤めて、私は下士官候補に出て、上海にある第一陸軍病院に派遣されました。揚子江を船で渡って、南京を通って上海に着いて、第一陸軍病院で6か月の教育を受けたわけです。
 上海の街中には、アメリカ租界、イギリス租界、日本租界という地域があったが、どういう訳か、日本人の居住する日本人租界だけに腸チフスが発生し、次々と多数が伝染病にかかった事がありました。そのことを私たちは上海事件と呼んでいました。というのは、日本人用の貯水池に腸チフス菌を誰かが投げ込んだに違いない、ということになったからです。日本租界だけから腸チフス患者が続出するし、死人も次々と出て、大騒動になりました。で、日本租界では、生水を飲むことが禁じられ、ろ過消毒した水の配給があり、夜間外出が禁止され、街中には憲兵隊やら戦車が警戒体制をとる有様でした。その頃、私の上官は同郷の宮良大尉でしたが、彼も一時患者となり、同僚の前竹正秀はその時の腸チフスで死にました。
        (つづく)

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