小島昌光同志を追悼する

同志の柔軟で大胆な思考はわれわれの不可欠な栄養だった

国際主義労働者全国協議会(NCIW)

 日本の第4インターナショナル建設をめざす闘いの中で、その創成期以来指導的役割を果たしてきた小島昌光同志、われわれの多くにとってはむしろ自然でしっくりする織田進同志が、2月23日午前他界した。満84歳だった。ご遺族からは重篤な腎機能不全との診断だったと伝えられている。年末までは三多摩社青同を共に担った最も古い同志と会食するなどそれなりに元気だったが、年が明けて体の衰えが急速に進んだのだという。いずれにしろわれわれには大きな衝撃であり、受け取る必要のあるものがまだまだ多くあることを考えれば、コロナ禍で討論機会が大きく狭められてきたことも合わせて残念でならない。
 以下ではわれわれにとって最も自然な織田同志と呼びたいが、同志は何よりも織田進名による精力的な執筆活動を通して、旺盛な知的好奇心を裏付けとした柔軟な思考に基づく大胆な論点提起を続け、その躍動的な文体も相俟って、提起への賛否を超えてわれわれに大きな政治的刺激を与えてきた。それゆえまた、特に1970年前後にわが潮流に合流した仲間の多くにとっての同志の認識は、織田進同志にほかならなかった。そしてその活動は、われわれのマルクス主義的な現実理解と政治主張を豊かにしただけではなく、またその大胆な提起自体、組織内民主主義を具体的に活性化するものでもあった。
 この重要な貢献に対して、今や創成期以後の世代だけになっているが、まず最後に組織活動を共にしたNCIWとして、織田同志に深い感謝を込めて心から哀悼を表明する。合わせて同志の近況を報告すると共に、その足跡の一端を振り返ることで、日本革命的共産主義者同盟(JRCL)の同志たちや「かけはし」読者のみなさんと故人を偲びたい。ただ、織田同志と具体的に活動を共にした世代の多くがすでに鬼籍に入り、その後のわれわれにその生きた記憶が乏しいため、織田同志の足跡の紹介が、特に初期部分についてほとんどできない点はご容赦願いたい。また、同志の死去についての報告がこの日まで遅れたこともお詫びする。

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 織田同志は日比谷高校在学中に政治活動を始め、東京大学入学、東学大転籍のどこかで大田竜創立の国際主義共産党に加わりトロツキスト活動家として社会党加入活動を実践、有名な三多摩社青同を組織し、日本の急進的青年運動のいわば先鞭となる運動を推進したひとりになった。このあたりのことについてわれわれには語れることがほとんどないが、三多摩社青同については、織田同志が『三多摩社青同闘争史』(JRCL刊国際革命文庫)に心躍る形で著し、後に続く世代のわれわれに多くのものを残してくれた。ただしこの著作は現在在庫が払底していることが残念だ。
 われわれにとって織田同志は紛れもなく理論的先達なのだが、この三多摩社青同の運動は、同志が熱い運動の実践的活動家でもあったこと、そして同志の理論活動の底には現実との生きた格闘が脈打っていたことを教えてくれる。
 紆余曲折は省くが、織田同志はその後1968年遅くに再建されたJRCLに中央指導部として参加、事業活動の責任を負うと共に、当時のJRCL機関紙誌の「世界革命」と『第4インターナショナル』を通じて、前述のように組織の活動路線策定に向けた理論活動に大きな活力を与えた。
 その特徴は、マルクス主義の創造的な展開への挑戦であり、従来の左翼の常識的観点、あるいは固定観念に囚われない、むしろ敢えてそれに挑戦するような視点からの斬新な切り口の提起だった。いくつか挙げれば、第4インターナショナル死産論、いわゆる「北方領土問題」における北方諸民族の先住権を起点に置く分析とその先住権保証を軸とした主張、またアフガニスタンに介入したソ連軍の撤退を求める主張、などが印象に残る。これらは当然ながらJRCL内に重要な論争をつくり出したが、われわれの思考の幅を大きく広げたことは確かだ。また「北方領土」をめぐる提起は、われわれを超えて新左翼の諸部分にも一定の影響を与えたと聞く。
 とはいえ、織田同志には全く別の顔もあったことにも少しふれたい。1例だが、1970年代中頃のある政治集会で、同志がアコーデオンを抱えて登場し、巧みな演奏で歌唱指導、参加した若者たちを「あの織田が!」と驚かせたことがあった。若者たちは後に『三多摩社青同闘争史』で同志が文化運動担当者としてハイレベルの歌声運動を推進したことを知り腑に落ちたのだが、これは、織田同志の多面的な側面と多才さ、また相当な努力家であったことが少しばかり見えた一こまだった。

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 その後JRCLは1980年代末に分裂した。直接には組織内に発生した深刻な女性差別、およびそれが照らし出した組織内の構造化された女性差別の存在を克服する道を見つけ出すことができなかったことだが、その背後にはまた、1970年代後半期に明確化したブルジョアジーの新自由主義的反革命に従来の労働運動指導部、また改良主義左翼政党の指導部が完全に屈服したという、重大な情勢転換もあった。
 新しい戦略路線、新しい組織のあり方が求められていたが、分裂は本質的にその探求の方向性をめぐる不一致であり、集中的に党組織についての考え方が焦点になった。しかしその探求は、現在がより明確に示す世界の深い混迷の中で、そして全世界の第4インターナショナルの同志たちが続けている苦闘が示すように、どちら側にとっても容易なことではなかった。
 われわれは、民主集中制の転換と労働運動の新しい方向性をめざして、NCIWとしての活動を選択し、織田同志もそれを共にした。しかし直面する事態は織田同志をもってしても困難なものだったと思われる。それでも同志は、まとまった提起とはならなかったが、党組織論、中国革命の現状と今後、現代資本主義理解とその分析の視点など、われわれの議論に多くの示唆を与え続けてくれた。
 たとえば党について、レーニンの党組織論を内乱対応型組織論として性格付け、革命をどのようなプロセスと想定あるいは構想するかによって党組織も変わり得るとして、われわれに新たな考えるべき素材を加えてくれた。そして、イデオロギーの重要性の確認、資本主義論とファシズム論の再構築の必要性、を強調し、われわれに宿題として残した。

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 しかし残念なことに織田同志は2008年秋に脳出血で倒れ従来のような旺盛な理論的探求は確かに難しくなった。体の自由が奪われ、何よりも同志の特徴だった幅広い情報と知見の吸収も困難になっていた。
 それでも同志の組織活動と現実との接触を求める意欲が衰えることはなかった。年数回の運営委員会は同志の自宅を使うことで同志を交えた討論が続けられ、年次総会には息子さんの助けを借り必ず出席、われわれの議論への貴重なコメントは続いた。また強い希望で東日本大震災被災地も実際に見て回った。あるいは、反原発や戦争法反対の国会行動にも近くに住む同志の助けを得て出かけ、地元の町で続いた戦争法反対のスタンディングにも何度となく参加していた。
 こうして続いた活動に最終的な打撃を加えたのがコロナパンデミックだった。織田同志は紛れもなく最高度のリスクを抱えていた以上、われわれは対面の接触を控えざるを得なかった。リモート会議への参加も困難だった。やはり対面の会議とは異なる疲労が避けられたなかったのだ。そして最終的に、組織活動への復帰というわれわれの期待はかなわないまま、同志を見送ることになった。まだまだ議論をしたかった、との思いは募るが今は冥福を祈るしかない。
 世界は今、多面的な危機の進行の中で危険を内包した不確実性を深めている。労働者民衆の新たな世界を求める意志が、世界を決定する具体的な力として、具体的な闘いとして結集することが求められている。われわれはそこに挑まなければならず、そこで織田同志を失ったことは大きな痛手だが、同志は立ち止まることは許さないだろう。
 織田同志が生涯をかけてわれわれに見せた姿勢、柔軟な感性と思考で現実と切り結び、必要であれば大胆な結論にも踏み込むアプローチは今こそ必要であり、それを引き継ぐことをわれわれの決意として、あらためて感謝を込めて織田同志への追悼に代える。
2023年5月22日    

故織田進同志

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